第3話 転

 夕焼けが海を赤く染めていた。

 ドンドン、と少し乱暴に、元教会のドアを叩く。

「薫さん」

「はい」

 がたがたと中で動く音がして、玄関扉が少し開かれた。ひどく濃い海の匂いがした。

「あの、聞きたいことがあるんです」

「少し、待っていてください」

 中に戻ってしまう。

 薫以外に誰かいるのか、扉の向こうに気配があった。

 数分後、上着を羽織り薫は出てきた。

「どうしたんですか、昌くん?」

「あの……この、お金」

「?」

 と見せても見えないのだから何も伝わらない。

「俺の口座に入金したの、薫さんですよね」

「はい、もちろん」

 薫は何が問題なのか、といった風に肯定する。

「なんで、こんな大金」

 昨日存在を知ったばかりの親族から、大金を与えられていたという事実。

 昌は、金に対する即物的な喜びよりも警戒や困惑が勝っていた。

「私ができることは限られているので。昌くんのためになることを、と思ったんですよ」

「別に、金に困っているわけじゃねえし」

「あっても困るものではないでしょう?」

「だからって、こんな……いったい、何が目的なんだよ」

 いっそ、保険金や詐欺が目当てならば納得できた。しかし薫にそのような邪な感情は見受けられない。

 だからこそ奇妙で、恐ろしかった。

「目的?……そうですね……」

 薫の手がわずかに裾を掴んだ。

「平たく言えば、償いです」

「つぐない」

 つぐない、償い、非日常的な言葉を確認するように昌はつぶやく。

「ええ」

 薫は微笑をたたえて肯定した。

「昌くん、あなたへの。そして姉さんとあの人への、償い」

 赤い夕日が黒い影を落とす。

「自己満足といわれてしまえばそれまでです。しかし私はのうのうと、あるがままでいることだけはできませんでした」

 薫の目。見えていないはずの目。影の中に溶けていきそうな黒がまっすぐ、光を反射せずに昌へ向けられた。

「このペンダントは5年前のあの日、受け取ったものです」

 そっと十字のペンダントを撫でる。昌の父が持っていたペンダント。

「あの災害の日、私の元に来たからあの人は逃げ遅れた」

 爪が食い込むほどに、拳を握る。

「私のせいなんです。あの人が、あなたのお父さんが亡くなったのは」






 もぞ、と昌は布団の中で寝返りをうった。

 昨日はあれ以上薫と会話をすることはなかった。薫も語らず、また昌も問いかけの言葉を出せずにいたからだ。

 自宅に戻り就寝したものの、眠ることはできず覚醒したまま朝を迎えた。

 携帯で時刻を確認する。すでに8時を回っていた。今日は休日のため、特に問題はない。

 顔を洗い、適当な私服に着替える。

 自宅は海が近すぎて、こもる気にはなれなかった。

 路面電車に乗り、市街地へと向かった。休日だからか乗客は比較的少ない。

 ただ、黒い服が少し多かった。


 車体が駅に近づいたあたりで、緩やかに停止する。まだ駅には届かない。

 不審に思っていると、携帯から異様な警戒音が鳴った。地震の速報音だ。遅れて、車内に緊急停止のアナウンスが流れる。

 乗客がざわめく中、くらっ、と微かに揺れた気がした。それ以上の揺れはない。

 昌は無意識に握っていた手を緩めた。

 数分後、点検が終了し路面電車は駅に停車する。

 ぱらぱらと下車しながら、足は自然と墓地群の方向へと向いていた。元々目的もなく乗り込んだため、慣れた道を無意識に選んでいたのかもしれない。

 参道には普段より人が多い。

 ポケットに手を入れて、行儀悪く住職の寺へと向かう。

 いくつか階段を登れば、その寺に着く。

 入り口に手編みのニット帽をかぶせられた地蔵が並ぶこの寺は、周囲には地蔵園と呼ばれ親しまれている。今日も数名のお年寄りが花や涎掛けを丁寧に清掃し手を合わせていた。

 境内では子供たちが遊びまわり、それを見守りながら親御さんは井戸端会議を始めていた。雰囲気だけ見れば、地域の公園と変わりない。

 解放された一部の部屋では、見覚えのある指輪などの清掃作業がなされている。


 薫のことに関していくつもの疑問があった。その中でも最も大きなものは、昌に対する資金の財源だ。

 いったいどのような手であの大金を貯めたのか。生活を切りつめて、などという生半可な方法で貯蓄できる額ではない。

 海で見つけた貴金属類を横流しでもしたのだろうか。いいや、昌には薫がそのようなことをするようには見えなかった。


「あ、昌じゃん」

 一花に呼び止められた。その声にいつもの活気がない。

 怪訝に思い振り返る。一花は黒い礼装に身を包んでいた。

「似合わねえな」

「ちょっと!出会い頭の言葉じゃないでしょ!」

 一花はいつものようにバシバシと背を叩いてくる。

「しょーがねーだろ事実なんだから」

 普段はポップで明るい服を好む一花には、絶対黒は似合わなかった。

「仕方ないじゃん。似合わなくたって。着なきゃならないんだから……」

 言い返してくるかと思いきや、しゅんとした声音に、やばい、と昌は冷や汗をかく。

「いや、その、普段のお前と印象がちがかったからだな」

「……」

「あっまてまて」

 うつむいた一花の目からぽろぽろと涙がこぼれていた。

「あー!いっけないんだー!昌にいちゃんが女泣かしてるー!」

「やーい女泣かせ女泣かせー!」

「うっせえ!見せもんじゃねえぞ!」

 寄ってたかって突っついてくる子供を蹴散らし、昌はポケットをまさぐった。見つけたハンカチを一花の顔に押し当てる。

「悪かったって」

「ん……ごめん……」

「あー擦るな擦るな」

 ごしごしと涙をぬぐう手を止める。

「ごめんね。昌は悪くないから」

 ハンカチの向こうから、鼻声で言う。

「その、この前お父さんが見つかったの」

「……そうか」

 一花の父も、また5年前の災害で行方不明になっていた。現在は母一人娘一人で暮らしている。

「うん、ずっと見つからなかったんだけど、教えてくれる人がいて。その人すごいんだよ海のことならなんでも言い当てるの」

「大丈夫か?変なやつに献金とかさせられてないか?」

 心の底から心配の言葉が漏れた。

「大丈夫だって!昌が思ってるような人じゃないし」

 お金も、高額じゃなかったし。と否定するが昌は心配だった。

「今日はさ、お父さんのちゃんとしたお葬式でさ。本当は、私がちゃんとしてなきゃなんだけど……ごめん」

 一花は下を向いてしまう。

 遺体が見つかるということは、生きている可能性が完全に潰えるということだ。それをどうとらえるかは、人によるだろう。少なくとも、父親と折り合いが悪かった昌が、一花たち親子の心情を完全に理解することはできない。

「俺こそ悪かった。何も考えてなくて」

 今は深く追求すべきではない、と昌は口を閉ざした。

「ううん、大丈夫。もう女泣かすんじゃないぞ!」

「やるわけねえだろ」

 いつもの調子に戻った一花に、昌はほっとする。

 葬儀のために一花は本堂へと戻っていった。


 ちょうど入違いざまに、本堂から住職が出てくる。

「おや、昌くん。おはよう」

「おはようございます……すみません、昨日のことで」

「かまいませんよ、奥へどうぞ」

 式まではまだ時間があるらしい。住職の仕事部屋へと通された。

「それで、いかがでしたか」

 湯気の立った茶碗を見つめながら、昌はありのままを語った。


「……そうですか」

 住職は、一口茶をすする。

「償いって、なんですか。あの人と親父の間に、何かあったんですか」

 濃い緑の水面が昌の眉間にしわを寄せた顔を反射している。

「私が話せることは限られていますが」

「なんでもいいんです。教えてください」

「わかりました」

 住職は少し難しい顔をした。

「昌くんのお父さんと薫さんが疎遠であったことはすでに話しましたね。その原因があなたのお母さんの死であることも」

「はい」

「薫さんは、昌くんのお母さん、あの方のお姉さんが唯一の親族であり、家族でした。不自由な身で一番そばで支えてくれる方だったのです。しかし、お姉さんにも彼女の人生があります。好きな方と一緒になることも当然のことだったのです」

「親父と、薫さんは仲が悪かったんですか」

「いえ、最初は私が取り持つこともありましたが、籍を入れるころにはすっかり、それこそ本当のきょうだいのように仲よしでしたよ」

 しかし、と住職は続ける。

「お姉さんの死の前では、その絆ももちませんでした。薫さんはお姉さんを失ったことに耐えきれず、その憤りをあなたのお父さんのせいだ、とぶつけてしまったのです。」

 その言葉に、昌ははっとした。

「……お前のせいだ」

 夢の中で、鮮明に聞こえていた声を思い出す。

「あの、俺が薫さんに会ったのって本当にこの前が初めてですか?」

「そうですね、あなたが首が座る前には家を出ていたはずなので」

「じゃあ、赤ん坊のころは会ってるんですよね」

「ええ、もちろん」

「俺、覚えてたかもしれないんです。薫さんの言葉。『お前のせいだ』って言葉を」

「そんな……ありえない。確かにあの葬儀のときあなたはいましたが……まだ生まれて間もなかったというのに?」

「ときどき、夢に見るんです。『お前のせいだ』って叫び声を。それだけは覚えていたんです」

「そう、ですか。あなたは薫さんの言葉を……」

 住職は自分を落ち着かせるように、冷たくなった茶を飲み干す。

「でも、こんなの親父の死と何が関係あるんです?仲が悪かっただけで、なにもあの人が責任を追い込むような道理なんてないじゃないですか」

 昌は茶碗を握りしめ、あの日、5年前の日を思い返す。

 台風で外出できず、父親が朝から始めた晩酌で家が酒臭かったことをよく覚えている。

 夜中に差し掛かるころ、大雨の警報が解除され、ようやくといったところで大きな揺れに襲われた。

 長く続く揺れ。当時小学生だった昌には、ひどく泣きそうなくらい怖かった。

 揺れが止んだ後、大きな警報が鳴った。当時の昌には何の警報なのかは分からなかったが、父親は酒臭い息でまくしたてて昌を避難先へと走らせた。

 それから数十分後だった。川が決壊したのは。

 昌は間一髪で避難所である丘の上へ登っていた。夜の街が水に飲み込まれ、ところどころで火災が発生していた。

 遠くで鳴る波の崩れる音。文明の明かりが消え去り、火がぼうぼうと燃える恐怖は、あの日生き残った人々の心に深く刻まれている。

 皮肉なことに、低気圧に洗われた夜空はよく晴れ、あの日星だけはよく見えていた。

「親父が死んだのは、一人だけ逃げ遅れたからですよ」

 昌の憤りの混じった声が落ちる。

「……昌くん」

 住職の声に、昌は顔を上げる。

「私は、あなたのお父さんがあの日、薫さんの元に行ったとは思えないのです」

「どうしてですか」

 あのペンダントは少なくとも父のものだと、昌は認識していた。

「避難する直前に、私が見たからです。墓地に向かうお父さんの姿を。あれは確かに、あなたのお父さんだった」

「それは、本当に」

「ええ、移動時間を考えても、墓地から薫さんの施設まで行くことは難しい。あの日薫さんの元へ彼は向かっていない。そういうことです」

 ”そういうことであってほしい”と願うような声だった。

 数珠を擦る音がする。

「だから、誰の責でもないのです……そう、あの方に伝えてほしい」

 一つ、昌は違和感を覚えた。

「住職は言わないのですか?」

 ひくり、と動揺に肩が揺れる。

「住職は薫さんの旧知の仲なんですよね?どうして直接聞くこともしないのですか?」

 昌のまっすぐな目に、住職の額に汗が伝う。

 わなわなと唇が震えていた。

「私は……」

 じゃらり、と数珠が擦れる。擦り合わされた手が数珠を鳴らしていた。住職は祈るように目を閉じる。

「私は、恐ろしいのです……あの方が、あの方の纏う空気が、あの方の目が……恐ろしくてたまらなかった」

 がたがたと目に見えて住職は震えていた。

「昌くん。あなたも見たでしょう、あの目を、何もかもを飲み込む目を。5年前です。あんなにも恐ろしいものが、薫さんの元に訪れたのは……」

 ひたりひたりと尋常でない脂汗が、住職の坊主頭に浮かんでいた。

「しかし……」

 住職は、まるで内臓を剣山に刺されるかのような苦渋の表情で声を絞り出した。

「昌くんであれば、唯一の肉親である、あなたであれば、あの方と言葉を交わすことができる。あの方を、この世にとどめることが、できるはずなのです……どうか、どうかお願いします……薫さんを、連れてゆかないでくれ……」

 住職は、見えない何かに必死に祈るようだった。






 海への恐怖は、この街に住む人間に共通して存在する、と昌は感じている。

 陸地から海へと続く道路は、飲み込まれた事実を表している。停滞した復興はそれらをまざまざと残していた。

 人々ができるだけ内陸で生活しようとし、事情がなければ海へ近づくことはない。

 港も作られることなく、最近多くなっている海中の捜索も、船が出されるのは全く別の場所からだ。

 皆、恐ろしいのだ。文明も繫栄も、何もかも飲み込んだ海のことが。

 教会跡は、そんな恐怖の象徴である海を見下ろせる場所に建っている。

 ひどく、海の匂いが濃かった。


「薫さん」

 トントン、と戸を叩く。ここまで歩いて来るうちに、海風によって冷やされた頭は、昌に静かな声を出させた。

「……どうしたんですか?」

 ややあって、薫の声が戸の向こう側から響く。

「昨日のことで話したいことがあるんです」

 頭の中で何度も練習した言葉はするりと口からこぼれた。

 戸が開かれる気配はない。

「親父のことです」

 戸の向こうで、息をのむ気配がする。

「住職に聞きました。その、いろいろ」

「……ああ、彼は、おしゃべりだから」

「でも思ったんです。やっぱり、親父が死んだのは薫さんのせいじゃありません」

「どうして?」

「親父はあの日、薫さんの元ではなく、母さんの墓に行ったんです」

「……何のために?」

「星を見るためです」

 昌は扉の向こうの気配を探る。

「あの日はひどく晴れた夜でした。親父は三人で星を見に行った日を思い出して、母さんの墓の前で星を見ていたんですよ。母さんの死が親父のせいじゃないように、親父の死も薫さんのせいなんかじゃない。親父は勝手に逃げ遅れて勝手に死んだんだ」

 口からするすると台詞を吐く。

 昌は自分の声が震えていないか、胃を縮こめていた。

 薫に納得させるための嘘を、真実のように語るために。


「そう、ですか。そういうものですか」

 少し、笑ったような気がした。

「そういうもんです」

 念押しするように昌は重ねる。

 あの日あの時、薫の元に父はいなかった。

 だから、薫の背負う責などどこにもない。

 そう、騙る。

「俺は親父の死に対して、誰かの償いを望んでなんかいません」

 静かな空間に潮騒が響く。

「……昌くん」

 キィ、と音置立てて、少しだけ戸が開く。

 その隙間から、薫のなま白い腕だけがのぞいた。

「これを君に」

 思わず差し出した手に、ペンダントが落ちる。

「いりませんよ。あの日親父はあなたのところにいなかった。だからこれも親父のものじゃない」

「では、私のものとして。……一人にさせてしまったあなたが、罪でないというのでしたら、私の償いももういらないのですから」

「わかりました」

「ああ、あともう一つ」

「なんですか?」

「明日は、ちゃんと学校に行ってくださいね」

 まるで子供を心配するような声に、昌ははにかむ。

「わかってますよ」

「そうですか」

 薫の声は笑っているような気がした。

「それじゃあ、帰りは気を付けて」

「はい」

「さようなら」

 バタン、と扉が閉じられる。その奥で、何かが動いていたような気がした。

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