第2話 承

「俺……水汲んできます」

「え、あ」

 返事も待たずに昌は踵を返した。

 階段を駆け下りる。

「こら!」

「うわ!すみません!」

 叱咤する声に条件反射で謝ってしまう。

「走ってはいけませんよ。仏さまが驚いてしまいますし、何よりもあなたが怪我してしまうことを、ご先祖様は望んではいません」

 柔和な笑みで、静かに諭すのはこのあたりの墓を管理する住職だ。

「すみません」

 昌は素直に謝る。

 住職とは幼少期からの顔見知りであり、また昌の後見人にもなっている。保護されている子供は昌だけではない。5年前の災害で親を亡くした子供や、それ以前からも家庭に恵まれない子供の面倒を見ている。人望もあり、住職は地域にとっても頼れる人物だ。

「もうしてはいけませんよ。それにしても何を急がれていたのですか?」

「いや、ちょっと、その」

「忘れ物でも?薫さんはそういったことはあまりせかさないと思いますが」

「あの人のこと、知ってるんですか?」

「え?」

 昌は住職の口から出た名前に食いついた。住職はきょとんと目を丸くする。

「もしかして、なにも知らされていないのですか?」

 沈黙で肯定を返す昌に、住職は額を抑える。

「そうでしたか……」

 住職は、昌とともに水道へ向かいながら語った。

「あの方が、君にとって唯一の親族に当たる、ということはもう気づいていますね」

「はい」

 突然の肉親の登場に、昌自身、思考が追い付いていないため、住職は一つ一つ確認するように、事を整理する。

「薫さんは元々は、昌くん、君のご両親とともにこの街に住んでいました。しかし君の母、薫さんの姉が亡くなってから、折り合いが悪くなり市内の施設で別々に暮らしていました。なので君が薫さんを知らないのも、当然なのですよ」

 父は何も語らなかったが、知っていたのだろう。薫という人物の存在を。

「5年前の災害で施設が被災し、関連団体が他の街へ移設されたため、薫さんも一度はこの街を離れましたが、一人で暮らす準備ができた、と2年前にまた戻ってこられたのです」

 薫は市街地から離れた海辺の古い教会跡に住んでいるという。薫という人物が教会などの団体とは無関係なことは、住職のお墨付きがあるが、ペンダントとの共通点に昌は得も言われぬ感情を抱く。

「昌くん」

「は、はい」

 昌は暑くもないのにつたった汗を拭う。

 住職の柔和な目は、真っすぐこちらを貫いていた。

「君が可能であれば、薫さんのことを知ってあげてください」

 住職の腕に下げられた数珠が擦れる音がする。

「君にとって薫さんは降ってわいたような存在です。突然今日から一緒に住んだり、支え合ったりすることは難しいということは、理解しています。将来的に可能なのかも君の考え次第です」

 しかし、と住職は続ける。

「知ろうとすることだけは、怠らないでほしい。唯一の肉親である君だからこそ、あの方のことを知ることができるのですから」

 最後の言葉は、いつもよりも低い声のような気がした。

「まあ」

 にこり、と住職はいつもの柔らかな空気に戻る。

「私も何か困りごとがあれば相談に乗ります。昌くんのできる範囲でいいのですよ」


 昌は住職に、はいともいいえとも返すことはなかったが、その沈黙に含まれた肯定に住職は柔和な笑みで寺へと戻った。

 水を汲み、桶とひしゃくを持って墓に戻る。

 地面を叩く音と、鈴の音が鳴った。

 通路に薫が立っていた。きょろきょろと、目ではなく耳を向けているのだろう。音で周辺を探っている。

「薫さん」

 昌はとっさに名前を呼んでしまった。

 その声にぱっと薫の顔がほころぶ。

「よかった。迷子になってしまったのかと」

 まるで子供を心配するような、薫からすればまさしく子供なのかもしれないが、言葉に昌はむっとするも否定の言葉を口にすることははばかられた。

「途中で、住職に会ったんで。ちょっと、雑談を」

「住職さんに、彼はとってもおしゃべりですからね」

「あの……」

 不自然な区切りで、昌の言いかけた言葉に、薫は墓へと進めた足を止める。

「はい」

 微笑をたたえたその目は、見えなくともまっすぐ昌へ向けられていた。

「アキラって、その」

 まるで水中にいるようにうまく言葉が出ない。

 すう、と言葉を出すための息を吸う。

「俺、なんです」

 きょとん、と薫は見えない目を見開いていた。

「俺が、昌、戸塚昌なんです」

「本当に?」

「嘘、言ってどうするんすか」

 薫はそろりと腕を伸ばして、おどおどとひっこめる。

「えっと、その、触っても?」

「あ、どうぞ」

 伸ばされた薫の指先が昌の肩にぶつかり、するする、と輪郭をたどる。首元にたどり着いた手が上に伸びて昌の耳をふにふにと柔く握った。

「うん、本当だ」

 にこりと薫は笑みを深めた。

「どこで判断してるんですか」

「耳の形がね、姉さんと一緒」

 薫の手はわしゃわしゃと昌の頭を撫でた。犬を撫でるような少し乱暴な手つきに、昌はむずがゆくなる。

「髪は、あの人と一緒だ」

 父親に似てる、とはよく言われる。もっとも周囲の大人はほとんど母親のことを知らず、比較対象が父しかいなかったためだが。

「そう、君が……」

 改めて、かみしめるような表情に、昌は何も言うことはできなかった。

 思春期の跳ね返りの強い心で何かを語れば、目の前の肉親を傷つけるのではないか。そう考える程度には、昌は大人だった。


 二人分の線香の香りが、海からやってきた風に揺られる。

「もしよかったら、帰りに家に寄りませんか?」

 その提案を昌は短い肯定で受け入れた。

「今まであなたが、どんな風に生きてきたのか、知りたいので」

「じゃあ」

 その、と言葉を選ぶ。

「母さんのこと、聞いてもいいですか?」

 薫は静かに笑む。

「もちろん」


 薫が住居としている教会跡は街の南西、昌が住む地区よりももっと人気のない場所にあった。

 そのあたりは本格的に撤去がなされ、使用されていない土地がただ広がっている。道路はそもそも被災後の舗装もされていないのか、昌が普段歩く場所よりもずっとひどかった。

 薫はこの辺りは慣れているのか、つまずくことなくするすると歩いてしまう。

 ザザン、ザザンと鳴る海の上で海鳥が鳴いている。元々は見られなかった鳥も、この辺りではすっかりなじんでしまった。

 少し傾斜のある坂を登り切れば、その住居は見えた。

 多少高い場所に作られているため、浸水は免れたのかもしれない。しかし壁面にはわずかにひびが入り、また教会を表す装飾の類は撤去されていた。塀も壊れた部分は全て片付けてしまったのだろう。低い部分と中に仕込まれた鉄棒だけが立っている。

 元は草花が整備されていたであろう庭は、塩害なのか季節によるものなのかからからに乾いた草ばかりがあり、土がむき出しになっていた。木も精力が全く見られない。

「すみません、みっともない場所で」

「いや、そんなことは」

 昌はむしろ不自由な身でありながらここで暮らしていることに驚愕を覚えていた。市街地に行けばもう少し特徴に沿った家もありそうだが。

「さ、どうぞ」

 うち開きのドアを開け、招き入れる。

「靴はそのままで大丈夫ですよ。ここは本当に昔は教会として使われていたので」

 中はドーム型になっており、高い天井の上には本来はシャンデリアでもあったのだろうか。今は簡素な電球が一つぶら下がっている。

 中のつくりは教会らしさがあるが、関連のものは全て処分されており、完全に人が住む場所になっていた。

「適当な席でくつろいでください」

 家具は見た目にこだわらなかったのだろう。リサイクルショップの安いもので済ませたようなものばかりでそろえられている。充が座った一人用のいすも、中のクッションがへたれていた。

 薫は家の中は完全に把握しているのか杖を立てかけ、お茶を出す準備をしている。

「俺がやりますよ」

「大丈夫ですよ。来客のもてなしには慣れてますから」

 こんなところに人が来るのだろうか。あるいは薫は意外と人脈が広いのかもしれない。

「紅茶でいいですか?」

「はい、大丈夫です」

 お湯が注がれる音がする。

 待っている間、手持ち無沙汰に昌は周辺を見渡した。作業机の上、汚れた写真や指輪などがある。

「それは海から取り戻したものですよ」

「は、はい!」

 背後から声がかけられ、びくりと肩を揺らした。まるで気配がなかった。

「ふふっ、好きに見て大丈夫ですよ。写真は、人のものですから少しだけですが」

 デザインの異なるティーカップが二つ、テーブルに並べられる。

「写真の復元をしているんですか?」

「復元ではありませんが、ある程度の清掃をしているんです。主に扱っているものは貴金属類ですね」

 作業場には金庫がおかれている。この家で、唯一新品らしきそれは、きれいになったものを納めているのかもしれない。

「俺も、海から引き揚げられたやつの掃除はたまにします」

「そうでしたか、ボランティアで?」

「いや、さっきの寺に給料出してもらって、バイトみたいな感じです」

 洗浄のバイトは昌をはじめとする、住職が後見人となった子供たちのお小遣い源だ。墓地群を管理する寺たちが基金を募り、子供たちにバイトとして行わせている。

 面倒を見ている子供たちが、お金を目当てに売春などをさせないために行っているが、当の昌たちは住職の懐事情が心配で仕方がない。

「でしたら、私が扱っていたものも触れているかもしれませんね。特に写真などは仕上げは任せてしまうことが多いので」

「結構きれいになってますけど」

 机の上に置かれた指輪を見る。

「見えないと触っているだけでは気づかない汚れもありますし、強く扱って傷つけることは避けたいですからね……そうそう、写真といえば」

 おもむろに立ち上がった薫は、机の引き出しから一枚の写真を取り出す。

「これも、海から見つけたものなんですよ」

 見せられた写真に写っていたのは三人の人物。

 真ん中にいるのは、はっきりと薫だと判断できた。今よりも少し若い、正確には幼さがある。

 両隣りにいる人物は少し見覚えがあった。

「こっちは昌くんのお母さんです」

 右にいる女性を指す。遺影よりも少し若く、服装や髪形も当時流行のものを身に着けていた。

「それと、こっちはお父さん」

 左の男性は、確かに昌の父だった。もっとも言われるまで断定ができなかったが。昌の記憶にあるよりも、写真の中にいる父は若さもあるが影のない快活とした笑顔をたたえている。そんな表情、昌は一度も見たことはなかった。

「これは、昌くんが生まれる2年前に星を見に行った時の写真ですよ」

「星を?」

 古い写真の凹凸や、つけられた点字をなぞりながら、薫は当時を思い出すように語る。

「ええ」

「その、見えてたんですか?」

「いいえ。私のこれは生まれつきですから。でも、一緒に楽しむことはできます」

 ふっと口角を上げるその表情は、建前ではなく本当に楽しかったということが伝わる。

「あのときは昌くんのお父さんが運転して、山まで連れて行ってくれたんです。私は山に行ったことも初めてですが、夜の外出も初めてで、匂いや音、話し声、温度。あの日は三人で、一緒に楽しかったということを共有できた夜でした」

 瞼を閉じたその裏で、薫はあの日に浴びた感覚を思い出しているようだった。

「……親父、こんな顔で来たんだ」

 こぼれた言葉に、薫は机の引き出しを探る。

「この写真、昌くんに持ってもらいましょうか」

「え?」

 引き出しから出した写真立てに写真が納められた。つるりとしたガラスのカバーに写真が保護される。

「でもこれ」

「これは、海から見つけられた唯一の家族写真です」

 薫は昌にぎゅっと写真を握らせた。

「だから、昌くんに持ってもらいたい」

 強く握られた手を、振り払うことは昌にはできなかった。

「あ、そうそう、それとお使いも一つ頼まれてくれますか?」

 ぽんと手を叩く。




 白い布をかぶせ、籠を持って路面電車へ乗り込んだ。

「おっはよーサボり魔!て、あれ?ピクニックでも行くの?」

「ちげえよ」

 昌は、ぐいっといつものように引っ張る一花をあしらう。

「頼まれたんだよ。寺にお使い。海から上がったやつのな」

「ああー……おつかれちゃん!」

「いてえって」

 一花にバシバシと背中を叩かれた。激励のつもりなのか。痛いだけだ。

「じゃ、学校には牛乳飲んだ腹痛で遅刻って言っとくからさ」

「せめて風邪とかにしろよ」

「なんだとー!昨日も私が先生にごまかし言ってやったんだからな!貸しイチだぞ!」

「はいはい、あとでなんか返すから」

 賑やかな一花に見送られ、昌は今日も墓地群の方面へ向かった。


「すみませーん」

「はいはい。ああ、昌くん。さすがに二日連続でサボりは歓迎しませんよ」

「今日はこれ渡したらすぐ学校行きますって」

 昌は籠を見せる。

「おや、薫さんのですね」

 住職はすぐにわかったらしい。いそいそと籠を受け取った。

「いかがでしたか?昨日は」

「別に、ちょっと話して、お使い頼まれただけですよ」

「そうですか、仲良くなれたようで何よりです」

 お使いを頼まれるのは、住職にとっては仲良しの証らしい。

「これで薫さんも生活が楽になるでしょうし」

「どういう意味ですか、それ」

 はっと住職は口をふさぐ。

「いいえ、今のは忘れてください」

「わざとですよね。あんた嘘つくの下手ですよ」

「そんな!」

 口を滑らせた風を装っていることは、昌にはお見通しだった。

「で、どういうことですか。薫さんの生活がどおのって」

「……昌くんがかなり心を許しているみたいだから、いうんだけどね」

 住職は昌を奥の部屋に通した。住職が書類仕事をするための部屋だ。子供たちに貸す本なども置いてあり、昌も何回か出入りしている。

 住職は昌の前に、一つの通帳を差し出した。

「これは昌くん、君名義の通帳です」

 後見人をしている子供たち一人一人に貯金口座を作っていることは、昌も知っていた。高校を卒業し、就職するにせよ進学するにせよ生活の足しにするために、と住職が個人で積み立てているのだ。

 子供の数も馬鹿にならないはずだが、それで住職が破産しないのは、人望と檀家の支援によるものだろう。

「ここに私が毎月積み立てているのは知っていますね。見てほしいのは、それ以外の項目で」

 毎月、定額が口座に入れられていることは記帳からも分かった。しかし昌の口座には明らかに住職以外の入金がある。

 一回で住職がする数十倍の入金が、何度も行われていた。加えて最後の入金は数百万を超えている。

 この口座だけで昌は働かずとも数年は生きられるだろう。

「なんですか、これ」

 新手の詐欺か何かだろうか。住職は人がいいためなにかだまされている可能性もある。

「確認したところ、詐欺ではありませんでした」

 住職は昌の懸念に対し、首を横に振る。

「これは、薫さんが入金したものです」

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