海鳴りのウンディーネ
染谷市太郎
第1話 起
『お前のせいだ!』
ぱちん、と目が覚めた。
嫌にはっきりとした寝覚めに、戸塚昌は煩わしそうに体を起こす。
“お前のせい”
夢の中で響いた声がまだ耳に残っていた。
女なのか男なのかはっきりとしない声。それを頭から振り放すように、昌はばたばたと朝の支度を済ませアパートを出る。
内陸の県。埼玉。
しかし5年前から、海が隣接するようになった。
すぐそばにある潮騒を、昌はふさぐように、ヘッドホンで好きでもない音楽を流す。
海からの冷たい風が頬を撫でていく。朝日を反射する海面に背を向けて、市街地へと足を進めた。
昌の居住地域には住人が少ない。撤去された家の基礎が広がり、崩れかけた建物がちらほらと存在している程度だ。
その中に、わずかに簡素な集合住宅が建っている。住んでいるのは交通の便が悪くとも安い家賃を求める人々だ。
このあたりは、ほとんどの道路がまともに整備されていない。5年前の、大きな災害が原因だ。
台風と地震と津波が重なった、複合的な災害。運よく被災しなかった能天気たちは神罰だと噂を流すほどの、大きな大きな天災だった。
地震が地形を変え、土地の標高を下げた。さらに大きな波が臨海部を襲った。それだけでなく、川を遡ったうねりは洪水をおこし内陸部まで海岸線を押し進めた。
東京、神奈川、千葉は一部の山間部を覗いて現在も水没し、海の底に眠っている。埼玉も南部と東部の一部が浸水した。
昌が住んでいる街は、ちょうど浸水域と陸地のはざまに存在している。
復興が進んでいるものの、川を遡った流れに飲み込まれた街は、まだその傷跡を残していた。
ところどころひび割れ、草が生えた道路を、30分ほど歩いたところでようやく駅が見えてくる。
路面電車が警笛を鳴らしながら停まった。
元々は鉄道が走っていたこの地域も、地震により既存の道路や路線は使用不可能になった。代わりとしていち早く開業した路面電車は、現在では住民の頼れる足として活躍している。
視界で電車を確認し、昌は乗り込んだ。
北へと向かう車窓からは、だんだんと活気づいた街が見える。建物や人通りが増え、車内も人の数が増える。昌は入り口付近で立ったまま、揺れに身を任せ増える人の気配を感じていた。
ぐい、と肩を掴まれる。
と思った瞬間に、ヘッドホンが奪われた。
「昌、まーた自分の世界にこもってんの?」
「やめろよ。俺の勝手だろ」
少女の華奢な手に握られたヘッドホンを奪い返す。
「なによ。せっかく私が一緒に登校してあげるっていうのにー!あ、そうだ」
少女、浜田一花はむっと機嫌を損ねるが、すぐに表情を変える。
「今度新しい店見つけたんだ。帰りに一緒に行こうよ」
一花は女子高生にも関わらず、レコードなどを好むレトロ好きだ。いい雰囲気の喫茶店やレコードショップ、果てにはリサイクルショップまでも彼女の行動圏内だ。
昌もその買い物によく付き合わされていた。
「悪いけど今日は遠慮する」
電車が駅へと停まる。人の流れに乗って二人も下車した。
「えーなんでよ」
今度は本格的に機嫌を損ねる一花。しかし昌はヘッドホンの位置を調節しながら学校とは逆方向へと足を向ける。
「墓参りだ」
駅から東方面へまっすぐ進むめば、人工の丘に作られた学校が見える。
その真逆。駅から西方面へ向かうと、複数の寺が管理する墓地群が存在する。
その土地には元々一つの寺しかなかったが、海に沈んでしまった寺社や墓を移転するために土地を寄進したことで墓地群が出来上がった。
墓地周辺の寺社は現在では参拝者だけでなく、地域住民の憩いの場にもなっている。
その理解故に、制服姿の若者が参道を歩いていても不審に見られたりすることもない。むしろ花屋で菊を買うときも丁寧に対応されるくらいだ。
年に一度。昌はこの参道を、学校をさぼって歩く。右手には小さな菊の花束。左手はポケットに入れる。
儀式めいたこの行動を、昌は毎年欠かさず、震災以前より行っていた。幼少期は父とともに行っていた参拝だが、5年前からその姿はない。
すん、と鼻を鳴らした。
海の匂い。近いとはいえ建物が海風を阻む墓地で、ここまで強く香るだろうか。
疑問に思いながら見上げた階段。その先で、ぐらりとバランスを崩す影があった。
「あ!」
昌は考える間もなく数段飛ばしで駆け上がり、その体を支えた。がしっと掴んだその体は、幸いなことに重量はなく、昌でも容易に支えることができた。
リンカラン、リンカラン、と白杖が階下へ落ちる。
「……大丈夫ですか?」
少しの間をおいて、平凡な声掛けをする。
「はい。ありがとうございます」
その人は昌の腕を支えにしながら、しっかりと昌の方向に顔を向けて静かに礼を言った。
その黒目。青がかった黒の虹彩と、開ききった瞳孔。光を取り込むだけの静かなその目に、昌の内臓がきゅっと縮こまる。
「あの」
「あ、すみません」
無意識に強く握りしめていたらしい。支えていた手をとっさに離す。
バランスを取りなおしたその人は、しかしふらふらと手で空中を探るそぶりを見せた。
目が見えないのだ。
昌は察する。声をかけたときには気づかなかったが、顔を向けている方向も、音を頼りにしていたようだ。
「ちょっと、待っててください」
昌は階段を駆け下りて杖を取る。
チリン、と杖についた鈴が鳴った。
鈴と共にネームプレートがつけられている。『薫』。点字とともにそう記名されていた。
「これ」
白杖を握らせる。
「すみません。なにもかもお世話になってしまい」
「いいえ、通りがかっただけですし」
昌はぶっきらぼうに返した。
「お供え物で申し訳ないのですが、お礼に」
「いや、そういうのは別に」
籠に入っていた果物を示されるが、見返りを求めていたわけではない昌はとっさに断ってしまった。
「そうですか……」
少し考えるそぶりをして、ぽんと手を叩いた。
「では、もしお時間がよろしければ私の用事に付き合ってもらえませんか?お供え物は持って帰る決まりなので、その際に貰ってもらえるととても助かるのですが」
「まあ、そういうことでしたら、じゃあ」
出された提案に、昌はうなずく。せっかくお礼を受け取りやすい形にしているのだから、これ以上断るのも相手に失礼だろう。
「よかった」
こちらを向いてにこり、と笑ったその目に、昌は視線を逸らした。
墓地群には階段が多い。
急増した墓を、少ない土地でやりくりした結果だった。高齢者などのために手すりもあるが、それでも目が見えないとなると参拝には一苦労だろう。
昌は成り行きでついていくことになった盲目の人、薫の様子を見てその不便さを痛感した。
通常であればこの墓地は人の出入りもあり、何かしら不自由でも手助けを望めるが、薫に関しては事情が違った。みな薫を見るとわざわざ遠回りをして墓地から離れる。
この地域の住人が冷え切った心を持つというわけではない。原因は薫の服装にある。
薫は、全身を黒の衣服でそろえ、その胸には十字のペンダントがされていた。知識のない人間であれば神父に見えるし、そうでなくとも仏教系の人間でないことは確かだと判断できる。
キリスト教が嫌煙されているわけではない。警戒されているのは新興宗教だ。
この地域は被災後、そういった宗教関連の人間が出入りすることもあった。住民はそういった勧誘に辟易しているのだ。
下手に手を貸せば、勧誘に巻き込まれかねない。そういった考えが薫から人を遠ざけていた。
コツコツと地面を叩く音が響く。
「あなたもお参りですか?」
「え、ええ。母の墓に」
「そうでしたか。すみません。ぶしつけなことを。菊の香りがしたので」
がさりと花束の包装が擦れる。
やはり目が見えない代わりに、他の感覚は鋭利なのだろう。そう大きくもない花束の香りに気づくとは。
「私も早くに両親を亡くしているので。17年前に姉も……」
「そうですか」
17年前といえば、昌の母もその年に亡くなった。父は何も語らなかったが、産後の日達が悪かった、ということを周囲の大人からは聞いている。
「珍しいですね。お寺にお墓があるなんて」
「え?……ああ」
昌の言葉に薫は首を振る。
「私のこれは、よく間違えられるのですが宗教関係のものではないのですよ」
服装を指して否定した。
「色に頓着しないと黒が多くなってしまいますし、このペンダントは、義理の兄の遺品のようなものです」
そっと十字架のペンダントに触れる。
どこにでもありそうな装飾もないそれに、昌は見覚えがあるような気がした。
視線を上に上げて記憶をよみがえらせる。意外なことに、容易に一人の男へと行き当たった。
昌の父だ。彼は確か親が元々キリシタンだった関係で教会に身を置いていた。もっとも熱心な教徒ではないどころか、一度も教会に通ったり祈ったりする姿を見たことがないが。
しかし、十字のペンダントだけは常に首にかけていた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ……親父も似たようなものを持っていたなって。今更ですけど思い出して」
「お父様も、お亡くなりに?」
「5年前の災害で」
「そうでしたか」
薫は申し訳なさそうにまなじりを下げた。
「別に、親父のことは悲しくなんてないですよ。酒飲んでばっかだったし。むしろせいせいします。2年前に見つかったから形だけ弔いましたけど、本当だったら墓に入れたくもなかった」
「大変な苦労をなさったのですね」
微笑にも悲しみにもとらえられる複雑な表情で、昌を肯定する。
「私の姉にも子供がいました。きっと今頃は、あなたくらいの年になっているでしょう。彼も両親を亡くしているため、お互いが唯一の肉親になりますが、私は彼にその存在を言い出すことができていません」
「どうして。そいつだって一人なんだろ?」
白い杖が強く握られる。
「私は、訓練を受けたとはいえ不自由な身です。まだ子供の彼に負担を負わせるくらいであればいっそ存在を知らせない方がいい」
「でも、それは……」
寂しいじゃないか。という言葉はすぐには出てこなかった。
昌も母が早世し、父が災害で亡くなり、親族の存在は確認されない天涯孤独の身だ。周囲の大人たちに恵まれたため今は落ち着いているが、頼れる肉親がいないことの大変さは知っている。
天涯孤独のこどもにとって、唯一の肉親が不自由な身であるとすれば、最悪共倒れの可能性もあるのだ。昌は軽々しく、会うべきだ、などと前向きな言葉を投げることはできなかった。
「申し訳ありません」
黙ってしまった昌に薫はまたまなじりを下げる。
「私の話ばかりしてしまいましたね。会ったこともありませんが、あなたなら姉の子と馬が合うような気がしてしまい」
「別にいいですよ。もしかしたら同級生かもしれませんし」
「そういえばこの辺りにある高校は一つだけでしたね」
「名前を伺えれば、心当たりがあるかもしれませんよ」
「ふふっ」
薫は顔をほころばせる。
「すみません。彼の名前を改めて口にすることは、なかなかなかったものですから」
「そういうものですか」
昌の言葉を肯定するように、コツコツ、と杖を鳴らす。
「彼の」
柔く開かれた唇を、昌は無意識に注視していた。
「私の甥の名前は、『アキラ』といいます」
目を見張る。
「曜日の日を二つ重ねて、『昌』。昌くん」
心臓が飛び跳ねる。
「ご存じですかね?」
こちらを向いた薫の視線から逃れるように顔を背ける。見えていないはずなのに。その目はまるで昌を貫くようだった。
何も返すことはできなかった。
「やはり、お知り合いにはいないでしょうか」
沈黙を否定ととらえ薫は眉を下げる。
「いや……」
「こちらに住んではいるのですが、学年が異なるかもしれませんし」
台詞が選べず、はくはくと口を開くだけの昌に気づくことはない。
コツコツと段差を確認する音が止む。
「……ああ、ここです」
薫は一つの墓に近づく。
それを見て、昌はどうしようもない表情で、眉間にしわを寄せた。
奇妙な共通点の、最後の符合がそこにあった。
『戸塚』と苗字が刻まれた墓石。それは、昌の母が眠る墓だ。
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