結城さんの音
みずまち
結城さんの音
教室から走って、野球部の男の子たちが身体いっぱい動かして叫んでいるグラウンドを見ずに私は柵の外に出た。
柵の外はぼうぼうに生えた雑草が長細く、ちくちくと私の脹脛をさす。柵を越えても野球部の声をのせて練習する金管楽器の音が聴こえてきそうで、両手で耳を塞ぎ私はその場に丸くしゃがみ込んだ。
(だめだ、どうしても叩けない)
入学して念願の吹奏楽部に入ったというのに、パーカッション担当の私はまだその役割を果たせていない。
才能はある——そう先生は言ってくれて、先輩も「初心者でも、あなたのリズム感はいい方なんじゃないかしら」そう言ってくれている。
今年の夏は野球部だって甲子園に向けてベストを尽くしており、今の吹奏楽部はそれに恥じないようにと普段の練習に一層力が入ってきている。秋には吹奏楽部にとって大きな大会もあるので余計だ。
(それでも、それでも私にはもう音は出せないかもしれない)
春にはあんなに青々していた葉っぱ達が夏の鋭い太陽光に当たって火傷する匂いがした。その匂いにより絶望感が増して、耳を塞いでいた右手を離し鼻先を摘んだ。左耳をおさえ、鼻先を右手で摘んでしゃがみ込む私の姿は側からみればおかしなものに見えるだろう。それでも今の私にはこうせずにはいられなかった。ぷうと頬を膨らまし呼吸さえも止めて、水中に潜り込んでいるかのように自分の心音をとくとくと聴く。
丸めた背中から暑さが消えた。太陽が雲に隠れたのか。しばらくそうしているとかさかさ、と長い芝草たちをかき分ける音が聞こえ、同時に薄い風の音がした。
「川原さん」
自分の苗字を呼ぶその声にびくんと私の固まっていた両膝は動いて、私の声の代わりに返事する。
「……川原さん、プールにでも潜っているの?」
「ぷっ、違うわよ」
彼女の言葉に思わず笑みと、ためていた酸素を出して振り返った。声の主は思った通り結城さんだった。
私が教室から抜け出した原因の、張本人だ。
「どうして走って出たの、これから先輩たちと音合わせよ」
「結城さんが追いかけてくるから」
「ふふっ、なあにそれ」
少し拗ねたような声を出してしまった。
それでも同級生の結城さんは笑って私の側まできて、そっと前髪を細い指先で触れてくれた。直後に、ぱらぱらと細い草の根が降って落ちた。しゃがみ込んでいた間に前髪についていたのだろう。
「ファラソ」
「えっ?」
「草が落ちる音」
そんな音がしただろうか。私の髪から落ちていく小さな草の根を目で追いかけながら結城さんは音符を唱えたのだ。
「川原さんが今潜っていた時の心臓の音はミド。息を止めていてすごい音だった。ミド、ミド、ミド、ミド」
「ふっ、やめて」
また彼女に笑わされた。
そんな私の様子に目を細めて結城さんは笑う。彼女が笑うとまた暑い太陽光がやってきて雑草と一緒に燃やされそうだ。それほどまでに彼女の笑い顔は眩しい。そして暑い。いや、熱い。私の頬が熱くなるのだ。
結城さんの顔を見ないように両目を伏せると「どうして走ったの」と彼女はもう一度聞いてきた。
「……笑わない?」
きっと彼女は笑うだろう、そう思いながらも聞かずにおれず、恐々と睫毛上げて結城さんを見つめる。
「ええ、あなたがまたおかしな音を出さなければ」
意地悪ね、と唇だけを動かして私は観念した。
「匂いがするの。あなたが音を出すと」
笑われる覚悟でぽそぽそと小声で、何かとんでもなく恥ずかしい事を伝えているようで、私は彼女の耳元にそっと伝える。
「どんな匂い?」
それでも結城さんは笑わず、少し目を大きくさせて聞き返しただけだった。
「——お腹がすく匂い。暖かい、雪が降ると、お父さんが作るグラタンのような、にんじんとお肉いっぱいのいい匂いなの」
私の言葉に、結城さんはまた目を細めてくすくすと笑った。やっぱり笑ったわ、と私は唇を食いしばって彼女の脇腹を指先で突く。でも結城さんの笑う声はとっても優しく、今度は夏風を呼んで周りの背高い草たちを揺らした。
「だから逃げたの? 空腹の音なんてあなたのパーカッションの腕で消せるのに」
「鳴らせないのよ! 私の音で、邪魔したくないくらいにとってもいい匂いなんだから」
おかしな会話をしていると思う。
それでも笑いながら私の言葉を受け止めてくれた結城さんに、こうして追いかけて来てくれた結城さんに、私は少しだけ肩の力が抜けて。
「それじゃあ次からは気をつけるわね。川原さんのお腹がすかない音を出してみるから、ほら、戻って確かめてくれる?」
私の右手を引いて、結城さんは至極楽しげに教室へと連れ帰ってくれた。
その間は野球部の声も金管楽器の音も聞こえず、ただ私の心臓の音だけが、ミド、ミドと鳴って聴こえた。
了
結城さんの音 みずまち @mizumachi
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