大人の幼なじみと、背徳の宴を

『どうしようか迷うことは、この先いろんなところであるだろう』

 ふと思い出すのは、小学校のときの担任の話だ。

 卒業式が終わった後の、最後のホームルーム。涙ぐむ同級生がいる中で初老の担任はしみじみとした口調で言いながら黒板を綺麗に消していく。

 日付、日直の文字を消し、黒板を真っ新にして続ける。

『人生は選択の連続だ。私も迷って選び続けた。そんなことを繰り返すたびに、こんなところで教師をやっていたわけだがね』

 ふっと彼は自嘲するように笑う――その笑みにどんな意味があるか、そのときの僕たちには一切分からなかった。だが、すぐに彼は笑みを消すと振り返って告げる。

『その人生を先に生きた、先生として最後のアドバイスだ――もしどうすべきか迷ったとき、悩むのも悪くないし、大いに迷うべきだろう。だが、選ばずに成り行きに任せる、というのは薦めない。それはいつか、後悔するだろう』

 だから、と彼は励ますような微笑みと共に告げる。

『どうするか悩んだのなら、必ず何かを自分の意思で選びなさい。たとえ何もしない、としても自分の意思でそうする。成り行きに任せずに、未来を選びなさい』


 その言葉の意味がようやく分かった気がした。

 今、ここで己の弱さを前に迷い、立ち止まり、何を選ばない――彼女から目を逸らすこともできる。だが、そうしたらきっと後悔する。

 どうするか、きっちりここで決める。振り返るか、立ち去るか。

 この先の未来で、後悔しないために。


 そう思った瞬間、ふっと俺の手は動いていた。強引に振り返り、彼女の手の中から缶ビールを抜き取る。沙奈はのろのろとした仕草で顔を上げる。

 だが、それを努めて無視し、ビールを口にしながら訊ねる。

「今日は金曜だから、お前、明日は休みだろう?」

「え、あ……うん……そう、だけど」

「なら少し面貸せ」

 そう言いながらスマホを取り出し、家の電話番号を呼び出して、コール。

 数コールですぐに電話は繋がった。

『もしもし? 奏太、あんたいつまでほっつき歩いているの。残業?』

「いや、ちょっと外で沙奈と会って飲んでた」

『あらそう、それなら連絡しなさいよ、全く』

「悪い、母さん――で、今から沙奈と家で飲み直そうと思うんだが」

『え……今から? 騒がしくしないならいいけど……ツマミなんてないわよ?』

「ああ、そうか。じゃあ、梨音に代わってくれるか?」

『はいはい、仕方ないわね……梨音、奏太から電話よ』

 しばらく待つと声が入れ替わり、怪訝な声が響き渡る。

『もしもし? 兄さん、何の用?』

「今から沙奈連れて家に帰る。で、久々に三人で遊ぼうぜ」

『え、沙奈ちゃん? 本当に?』

 途端に声が弾む。昔から梨音は沙奈にべったりだったな、と苦笑しながら言う。

「あとで金は返すから、コンビニで好きなだけお菓子と飲み物買ってこい。その間に沙奈を家に連れて行くから」

『了解! あ、あたしの部屋も用意しておくから』

「ああ、悪いな、頼んだ」

 電話がすぐに切れる。それに目を細めながら、ビールをぐっと飲み干した。視線を戻すと、呆然とした顔で沙奈は俺を見上げている。

「え、っと……奏太? どういうこと?」

「こんな寒いところで飲むのはなしだろ、身体も冷え切っているし。ほら、家行くぞ、家」

 そう言いながら飲み切った缶ビールをビニール袋に放り込む。軽く袋の口を縛って持つと、沙奈の手を強引に掴む――その手はやはり冷え切っていた。


「いらっしゃい、沙奈ちゃん――って大分寒そうじゃない!」

「あ、はは……お久しぶりです、おばさん」

 家に沙奈を連れ帰ると、母さんは沙奈を見て目を丸くした。どこか気まずそうにする沙奈を余所に、母さんは一つ頷くと背後の梨音を振り返っててきぱきと告げる。

「梨音、沙奈ちゃんと一緒にお風呂に入って背中を流してあげて」

「え、あ、でも……」

「気にしないの、服は出してあげるから。これから飲み直すにしても、一旦身体を温めた方がいいわ。ね? 梨音」

「そうだよ、沙奈ちゃん、久々に一緒にお風呂しよ」

 母さんが話す間に、梨音は素早く沙奈の手から鞄を受け取っている。俺がのんびりと家の戸締りをしている間に、沙奈はぐいぐい押されて家に上がり込んでいた。

 妹の梨音が素早く沙奈の手を引いて風呂場に連れていく。それを見届けると、母さんは一つ吐息をついて振り返り、少しだけ目を細めた。

「……なるほどね、奏太が強引に連れてきたわけが分かったわ」

「分かるか、母さん」

「あれだけやつれた顔をしていれば分かるわ。事情は聞いたの?」

「多分、仕事関係」

「……そう。じゃあ、私は沙奈ちゃんの家に電話するわね。安心しなさい、上手く説明してあげるから」

「ああ、ありがとう」

「気にしなさんな、こういうのは私たち、大人の仕事よ――ね? お父さん」

 母さんが振り返って言う。その視線の先にはいつの間にか父さんが寝間着姿で立っていた。半纏を羽織り、湯呑を口に運んで一息つくと頷いた。

「こういうことは経験が物を言う――その点では経験を積んできた、少しばかり老獪な大人たちに任せてくれればいい。一人で抱え込むのは、よろしくないからな」

「ええ、頼れるときに頼れる人を頼ることも大事よ。というわけで、貴方、弁護士の義兄さんにちょっと聞いてみようかしら」

「いや、まずは沙奈ちゃんから話を聞いてからでも遅くはあるまい。それと向こうの家と協議して対応を決めればいい。これは他人の家の話でもあるからな。今は、奏太に任せよう」

「……そうね。奏太が沙奈ちゃんをもてなしてゆっくりさせてあげるのが大事ね。何か用意するものはある? 奏太」

「いや、梨音がいろいろ準備してくれているから大丈夫だと思う。何かあったらお願い」

「分かったわ」

 父さんと母さんは笑って頷いてくれる――それに俺は表情を緩めながら自分の部屋に戻った。スーツを脱いでハンガーにかけ、部屋着に着替える。

 それから本棚にあるゲームソフトを何本か選んでいると、扉がノックされた。

「兄さん、沙奈ちゃんあがったよー」

「おう、了解」

 妹の声に頷いて廊下に出ると、そこには寝間着姿の梨音と、ジャージ姿の沙奈の姿があった。湯気を立てている梨音は俺の手にしているゲームソフトを見てにやりと笑う。

「分かっているねぇ、兄さん」

「だろ? じゃあ、やるか」

「おっけぃ、沙奈ちゃん、私の部屋に来て」

「え、っと、うん」

 沙奈は借りてきた猫のようにどこか大人しい。梨音に手を引かれるがまま、隣の部屋に。俺も続いて梨音の部屋に入ると、沙奈が目を見開いていた。

「わ……すごい」

「お、張り切ったな、梨音」

 彼女の部屋のローテーブルにはポテチ、スティック菓子、チョコ、駄菓子と様々なお菓子が並べられていた。飲み物は2Lの炭酸ジュースやオレンジジュース、烏龍茶とかなり種類も豊富。妹は悪戯っぽく笑みをこぼすと、レシートを見せてくる。

「コンビニで大人買いしました。あ、兄さん、お駄賃込みで五千円ね」

「分かったから、レシート寄こせ」

「はいはい、それにしてもコンビニで大人買いすると変な満足感があるよね。人のお金だと特に楽しいというか」

「楽しんだようで何よりだ。沙奈、何飲む?」

「あ、うん、じゃあ、烏龍茶」

「兄さん、私、コーラ。早く注いでー」

「お前は自分でやれよ」

 和気藹々としながら、紙コップに思い思いのジュースを注いでいく。沙奈が目を丸くする中、俺と梨音は笑い合うと紙コップをぶつけ合わせた。

「乾杯!」

 梨音は紙コップをぶつけてから一気にコーラを飲み干してから、四つん這いで自分の部屋にあるテレビ兼パソコンのモニターを弄り始める。

「じゃ、早速やろっか、スイッチオン。えっとコントローラーは……」

「俺の奴を持ってきた」

「さっすが兄さん。私の分と予備を含めればこれで三個だね。よいしょ」

 梨音は棚から立方体の青いゲーム機を取り出す。一昔前のゲーム機とモニターを接続し、コントローラーを繋いでいく。俺は持ってきたソフトを机に広げると訊ねる。

「ひとまず、ス〇ブラ、エア〇イド、マ〇カ、〇リパ、ボン〇ーマンランド……どれからやるかだな?」

「無難に行くなら、スマ〇ラだよね。ちょっと古いけど」

「今の奴はキャラが多すぎんの。これくらいが丁度いいわ。ま、最初だから単純操作系がいいかもしれないな」

「じゃあ、エ〇ライドだね」

 梨音が早速決めると、そのディスクを入れる。沙奈にコントローラーを渡すと、あ、と彼女は軽く手の中でそれを動かし、表情を緩める。

「なんか懐かしい」

「昔よくやったからな。んで、毎回、ハイドラでぼこぼこにされた」

「そっか、そっか……そういえば、そうだったね」

 沙奈は表情を緩める――その目が昔みたいに煌めき、口角を吊り上げた。

「いいよ、それならシティトライアルでぶっちぎってあげる」

「いいぜ、俺たち兄妹に勝てるかな、沙奈」

「私たち、結構これやり込んでいるからねー」

 言葉を交わし合う間にも梨音がゲームの設定を決め、スタートボタンを押している。カウントダウンが始まるのを見ながら、俺は口角を吊り上げた。


「……くっそ負けた」

「ははは、奏太が私にゲームに勝とうなんて十年早いよ」

 けらけらと笑い声が響き渡る部屋は、少し薄暗かった。

 というのも、梨音が睡魔に負け、自分のベットですやすやと寝ているからだ。だからこそ、しばらくは二人で音量控えめでゲームをやっていた。

 今は協力系のゲームを二人でまったり進めている最中。かちかちとコントローラーのボタンを入力し、のんびりと攻略を進めていく。

「まさか、梨音を買収して味方につけるとは」

「二人とも結構強かったけど、それだけに裏切りには弱いよね」

「今度は寝返り対策もしておくか……」

「どうぞご随意に。ふふ、でも奏太、強くなっていたね」

「なんだかんだで意外とこういうゲーム、よくやるんよ」

「そうみたいね。あ、このアイテムあげる」

「悪い、助かるわ」

 一度幼い頃に二人でやったゲームだ。どういう流れかはもちろん、お互いの得意不得意も漠然と把握している。それを自然と補いながらゲームを進めていく。

 しばらくゲームを進めていると、しみじみと沙奈はつぶやいた。

「……本当、奏太は強くなったよね。いろいろできるようになってさ」

「ん、そうか?」

「そうだよ、本当」

 ちら、と横目で沙奈を見る。彼女はぼんやりした表情で画面を眺めながら手元でコントローラーを操作。そうしながらぽつぽつと語る。

「昔は何だかぼんやりして冴えない男の子だったのに、いつの間にか身長も追い抜かされて、勉強やスポーツもできるようになって。だから、私も負けていられないと思っていたんだ。だから早く大人になれるように頑張ってきたつもり」

「……そうなのか」

 ふと思えばあまり遊ばなくなった頃から、沙奈はどこか大人びてきた気がした。見かける彼女の背筋は伸び、笑みは控えめになっていた。

 大人になったな、と思っていたが――それは沙奈も思っていたのかもしれない。

「だけど……ダメだね、私。こうして奏太に助けてもらっちゃった」

 そう自嘲するように笑う沙奈。その表情はどこか痛々しく感じ、俺は視線を逸らした。しばらく二人でゲームを進め、ボス戦になる。

 ボスの攻撃を回避する二人――だが、読み切れず、キャラクターコントロールも悪くて被弾する俺。それを庇うように沙奈が前に出てくれる。

「奏太は後ろで回避して回復アイテム拾って。その間に削るから」

「悪い、頼んだ」

「ん、回復したら一緒に叩けばいいよ」

 沙奈の動きは鮮やかだ。攻撃を素早く見切り、合間で攻撃を叩きこんでいる。じわじわと削る中で回復した俺も合流し、攻撃の圧力を増やす。

 ボスを沈めるのはすぐだった。それを見ながら俺はコントローラーを置き、机の上のポテチに手を伸ばす。かり、と軽く齧ってから言葉を返した。

「――同じじゃないか、これと」

「ん?」

「ボス戦では沙奈が助けてくれただろ。俺もそういう意味だとダメダメだよ」

「ゲームと現実を一緒にされても」

 沙奈は苦笑いをこぼすが、俺は首を振りながらコントローラーを掴み直す。

「同じようなものだよ。第一、人は頑張って大人になれるものでもないだろう。俺だって未熟だし、いろんな人に手伝ってもらって、助け合って仕事をしている。得意不得意もあるからな、こういうことって」

 画面がステージセレクト画面に切り替わる。それを眺めて操作しながら言葉を続けた。

「だから一人で何でもやる必要はないし、逆に一人に業務を押しつけるのはどうかと思う。それで仕事ができるなら立派だけど、根幹に間違いがあるだろう」

「根幹に、問題?」

「まぁ例えば、沙奈の仕事先。一応、事務職で就職したんだろう?」

「……ん、そうだね」

「それなのに業務外……つまり契約外のこともやらされている。違わない?」

「違わないけど。それも助け合い、じゃないの?」

 唇を尖らせて言う沙奈。それを俺はどうかな、と肩を竦める。

「実際に現場を見てみなければ分からないさ。だが、俺が客観的に沙奈の言葉を聞いている限りだと、沙奈の厚意に甘えて仕事を多めに割り振っているとしか思えない」

「…………」

「沙奈は優秀だからこなせるかもしれない。だけど、その体制を変えない限り、どんどん負担は増えていく。負担が増えれば視界が狭まり、正しい判断ができなくなる――なぁ、沙奈、正しい判断ができない人って、お前の理想とする大人なのか?」

 その言葉に走る沈黙。沙奈はコントローラーを置くと、紙コップに手を伸ばした。ゆっくりとそれでジュースを飲んで唇を湿らせると、ふぅ、と息をこぼす。

「……まさか、奏太からそんな諭され方、するなんてね」

「とはいえ、昔からそうだろう? 沙奈がぐんぐん前を行って、俺がそれを引き留めて」

「臆病で泣き虫だったから、じゃないの?」

「否定はしない。けど、そんなアクティブな幼なじみがいたからこそ、危機管理能力が育まれたともいえる」

「なによ、人を危険物みたいに」

「危険じゃないにしても、割と一人で何でも抱え込むだろ」

「……否定しないけど」

 俺の口ぶりを真似る彼女は少し寂しそうに視線を下げていた。俺は肩を竦めるとジュースで唇を湿らせてから続ける。

「いずれにせよ、抱え込み過ぎないのも大事、ってことだ。俺もこういうときは母さんや梨音を頼るわけだし……まぁ、梨音は何も分かっていないだろうけど」

「ふふ、確かにそうだね、梨音ちゃんは楽しんでいただけ……だけど、その無邪気さに救われたかな」

「なら、お姉さんとして今度は梨音を助けてやれ。どうせこいつも変なところで躓く。おっちょこちょいな性格をしているからな」

「そうね……なら、奏太も困った時には助けてあげるわ」

「……ああ、俺もどっかでヘマするだろ。失敗のタネなんてどこにでもある。そのときはよろしく頼むよ。沙奈」

 そう言いながら軽く笑うと、沙奈はおかしそうに肩を揺らし、ん、と頷いた。その表情はどこか吹っ切れたようで嬉しそうに目を細めていた。

「ありがとね、奏太」

「そうか、なら良かった」

「じゃあ折角だから、もう少しゲーム付き合いなさいよ」

「おう、望むところだ――と、言いたいが」

 ちら、と後ろを振り返ると、すぅ、すぅ、と寝息を立てる梨音がいる。彼女は寝つくと滅多に起きないとはいえ、彼女の部屋で騒ぐのは少々忍びない。

 その視線を追いかけ、さすがの沙奈も口を噤んで眉を寄せた。

「確かに、ちょっと悪いわね」

「ああ、だから俺の部屋に移ろう……実は俺の部屋にはス〇ッチがある」

「マジで? ちなみにソフトは?」

「スマ〇ラ、マ〇カはもちろん、梨音が好きなゲームが一通り。ちなみにP〇5もあるぞ。最近買ったが、まだ梨音には内緒だ」

「悪いお兄さんね……でも、乗ったわ、内緒にしてあげる。その代わり、時々遊ばせなさいよ。結構やりたいゲームがあるけど、抽選に通らないのよ」

「お前、昔からクジ運悪くて、よく俺に引かせていたよな……」

「うっさいわね、もう」

 二人で昔みたいに軽口を叩きながらお菓子の袋を音を立てないようにまとめ、ペットボトルと一緒にビニール袋に突っ込む。

 それからゲーム機に手を伸ばし、電源を切る。ふっと画面が消えたところで、ぽんと背を叩かれた。なんだ、と振り返ろうとして――。


 柔らかい感触が、唇に触れた。


 目を見開く。いつの間にか間近な距離に、沙奈がいた。

 薄暗いのに彼女の頬の赤さ、睫毛の長さ、潤んだ瞳まではっきり分かる。ふわ、とお菓子の甘さを孕んだ吐息が頬を掠め、彼女は小さく囁いた。

「夜遊びは、これからが本番だよ」

「おま……」

 思わず口を開きかけた俺の唇を人差し指で封じられる。彼女は片目を閉じると、俺の腕を掴んで引っ張り起こした。

「ほら、行くよ、奏太。スーパーマ〇オのオ〇ッセイ、まだやったことないんだ」

「……ったく、しゃあねぇ」

 苦笑いをこぼし、身を起こす。お菓子とジュースが入った袋を拾い上げ、沙奈に続いて廊下に出た。


 二人の夜遊びは、まだ終わらない。

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公園のベンチで、幼なじみと缶ビールを。 アレセイア @Aletheia5616

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