第23話 始まりの一ページ
ばっさり短くした髪が渋い茶色によく染まったのを、フェリシアは、鏡で確かめて満足げに微笑んだ。
窓から吹き込む秋風が首元に涼しい。コルセットではなくてさらしを巻いた胴体に、シャツにベストにスラックス。女にしては高い背のおかげで、ジャケットを羽織れば、我ながらもうほぼ男にしか見えない。
「フェル、本当に行くのかい」
フェリシアが大荷物と共にシモンズ先生の小屋を出たところで、ウォルターが目尻を下げて言った。フェリシアの格好をあちこちから確かめながら心配そうな顔をする彼に、フェリシアは爽やかに笑ってみせた。
「ここまで来て、行かないなんてないよ」
「でも軍隊なんて、本当に男ばかりだよ。俺は心配だよ……いいかい、変な奴に手を出されそうになったら、まず股間を蹴るんだよ」
「誰にも手なんか出されないから大丈夫だよ、本当にもう……」
巨大な転移魔法を使ってあの箱庭を脱出してから、もう数か月が経つ。
シモンズ先生のもとで、ウォルターとフェリシアは先生の二人の弟子として、まるで兄妹のように過ごした。フェリシアが魔法師団の入隊試験のために必死に勉強する一方で、ウォルターはシモンズ先生が薬草を集めたり、近くの村の人々を治療したり、妖精の村とやり取りしたりするのを手伝った。王都の街中に帰る場所がなかったウォルターにとっても、シモンズ先生の元で暮らすことができるのは有難いことだった。
あの脱出劇の後、妖精の村はしばらく騒然としたものだが、王子殿下を回収し終えて魔法使いたちがすっかり帰ってしまってから、少しずつ復興していった。エリカやヘレナは妖精の村の近くに残り、二人で静かに暮らしている。ピーターはどさくさに紛れてどこかへ姿を消してしまって、今どこにいるのかは分からない。
暇なのか何なのか分からないが、魔法使いのアランはちょくちょくシモンズ先生の小屋を訪れた。フェリシアの試験勉強の進捗を見るという名目だが、ウォルターが紅茶を出す頃には大体いつも職場の愚痴になっていた。何しろ自分を殺すこともできた魔法使いなのでフェリシアは最初の頃は内心びくびくしていたが、だんだん慣れると対応も雑になった。王宮付き魔法使いといっても、一番の下っ端は武勇伝よりも苦労話が多いらしい。
アランによれば、あの箱庭を作った張本人である魔法使いのクリス・ホフマンは、さすがに禁固刑に処されているらしい。形ばかりの刑罰で処遇は悪くはないそうだが、自作の空間魔法の不備で王宮全体を危険に晒したことには違いがない。今後、空間魔法そのものへの規制が厳しくなっていくだろう、そうするべきだとアランは語った。
当たり前だが、あれから一度も、トーマスには──サミュエル王子殿下には出会わない。そもそも彼が箱庭に潜っていなければ、あんなに大事にはならなかったのだ。風の噂によれば、彼は国王陛下から大目玉を食らい、半ば謹慎生活を送っているような状態らしい。
フェリシアは猛勉強して魔法師団の入隊試験を受け、結果的にはあっさりと合格した。アランからの入れ知恵は大いにあったにせよ、別に根回しをしてもらっていたわけではない。魔法学校を出ているわけでもないのに魔法師団に入隊する人間など稀だ、良くやったと、結果を伝えに来たアランもご満悦だった。
陸軍の中に複数ある魔法師団のうち、最も花形と言われるカロイェート師団に、フェリシアは入隊することになった。──フェリシア・ラザフォードという死んだ娘としてではなく、フェリックス・シモンズという名の、隠居した魔法使いに拾われた孤児の男という設定で。
今日はいよいよ、師団の入隊式の日だ。
シモンズ先生の小屋の前には、妖精たちも見送りに来ていた。明るい茶色の髪をポニーテールにしたそばかすの少女、アニーは、人間の手のひらほどの大きさで蝶の羽が生えた本来の姿で、フェリシアの指先をきゅっと握っている。
「体に気をつけてね、フェル。ああ寂しいわ、あなたが行ってしまうなんて」
「アニー、私も寂しいよ……次に会える時には、きっともっと賑やかになっているだろうね」
フェリシアは微笑んで、大きくなってきたアニーのお腹を愛おしく見つめた。本当はずっと前から恋人同士だったアニーとマーティンは、村の家々の建て直しが済むと、フェリシアが出発する前にとささやかな結婚式を挙げたのだった。
『水の都のルカ』の世界を模したあの空間魔法の箱庭は、まるで夢の世界のような顔をして、実際は欺瞞だらけの危険な代物だった。しかしフェリシアが偶然あそこに飛ばされたおかげで、フェリシアは素敵な妖精の友人に出会い、もう何年も会えていなかった大好きな魔法の師匠に再会し、そして、我がままな王子様を含む全員が奇跡的に無事に外の世界に戻って来られた。
不在の間に葬式までされてしまったのが悲しくないとは言えないが、おかげで、全く別の人生を始めるきっかけにもなった。
アニーやマーティンや皆に手を振って、フェリシアは森の外へと歩き出した。歩き慣れた森の中の景色も、今日は何だか特別なものに思われた。
ウォルターとシモンズ先生に付き添われ、大荷物を手分けして運びながら、森の外で馬車が待つところに向かう。小さな馬車を見上げて深呼吸し、フェリシアは改めて、二人に向き直った。
「じゃあ行くよ。たまには手紙を書くけれど、あまり帰ることはできないかもしれない。二人とも元気でね」
「フェル……気をつけるんだよ、元気でな。困ったことがあったら、いつでも帰ってくるんだよ」
ウォルターがひしとフェリシアを抱きしめた。じんとする胸をこらえ、フェリシアは次いで、シモンズ先生にもハグをした。少女の頃には大きく感じたものだが、大人になってしまった今は、腰の丸まった先生が随分小さく思えた。
抱擁を解き、シモンズ先生はじっとフェリシアの目を見つめた。この世で一番優しい微笑みで、優しくフェリシアの肩を押す。
「フェル、君という弟子を持って、私は本当に幸福だ。君はきっと偉大なことを成し遂げられる……でもその前に、くれぐれも、自分を大切にするんだよ」
「シモンズ先生……ありがとう。本当に、何もかも、ありがとう」
もう一度だけハグをして、それからフェリシアはひらりと馬車に乗り込んだ。御者が荷物を積み込む間、窓から身を乗り出して別れを惜しんだ。
「元気でね! また!」
馬車が動き出す。森の脇の道を曲がり、二人の姿が見えなくなるまで、フェリシアは手を振った。そして窓から引っ込み、固い座席に深く腰掛け、腕を組んで目を閉じた。
全く新しい生活が、これから始まる。
商人の娘でも、貴族の家に養子に入った娘でもなく。一人の兵士の男として、立派な魔法使いを目指す男として、これから自分はやっていくのだ。
*
小一時間ほど馬車に乗れば、王宮は案外すぐである。正面から王宮に入り、陸軍全体の入隊式の準備が進められている馬鹿でかい前庭を覗き込む。前庭をぐるりと囲む回廊には、人だかりができている部屋がいくつかある。
門のところで御者に手伝われながら大荷物を下ろしたものの、どこで誰に声をかければよいのか分からない。ふと遠くの方から視線を感じ、見れば儀式的な正装に身を包んだ魔法使いのアランがいて、じっと無言で目線を送っている。
フェリシアは瞬いた。遠くにいる彼の空色の目をじっと観察する。
左側に受付があるから、その大荷物を預けて指示を受けて。
それだけ聞こえて、アランはついと目を逸らし、人混みの向こうに消えてしまった。唯一と言ってもいいくらいの知り合いがあっけなく去ってしまって心細いが、聞こえた通りに動くしかない。
よく見れば、自分以外の新人兵士はほぼ全員、親だか兄弟だかに付き添われている。誰も彼もが良い身なりで、勝手知ったる様子である。大荷物を一人で何とか抱え、フェリシアは受付らしきところに出向いた。受付をしてくれた兵士は幸い優しくて、寮に運んでおくとのことで大荷物も回収された。
回廊の一部のだだっ広い会議室のような場所に案内され、真新しい軍服を支給される。当然男しかいない状況で、フェリシアはどぎまぎしながら、なるべく隅の方で急いで着替えた。
改めて王宮の前庭に出る。入隊式を待つ人々が、徐々に整列している。自分よりずっと体格の良い男たちに紛れて、フェリシアはどこに行ったらいいか分からない。
ふと、ぴいと聞き覚えのある声がする。上空をばたばたと円を描いて飛んでいるのは、遠目で分からないが、きっと陽気なオウムのマイクだ。人混みをかきわけてマイクのいる方に向かって行けば、入隊の打ち合わせで顔を合わせたカロイェート師団の上司がいて、フェリシアの──フェリックスの姿を見て仏頂面で手を挙げた。
「フェリックス・シモンズ、お前が同期で一番最後だぞ。早く来い」
「サー、すみません。ただ今……」
緊張で心臓が高鳴るのをこらえ、フェリックスは上司の男が率いる列の最後に並んだ。
随分待った。立ったままの足がじんじんしてきた頃、ついに高らかなラッパの音が響いた。前に立つ大男の背に隠れて見えないが、前の方で、華やかな吹奏楽団の音楽が鳴り始めた。
王宮の正面のバルコニーに、国王陛下と王妃殿下が姿を現した。
遠目には豆粒のようにしか見えないが、目が焼けそうなくらいに眩しく思える。思えばあの舞踏会の夜、緊張で顔も上げられずにご挨拶したものの、庶民の生まれの自分には本来謁見する機会などないはずの人々だ。
国王陛下の訓示は、拡声魔法を使って、前庭に整列する新人兵士全員によく聞こえた。
荘厳な王宮の真っ直ぐ背後には、天を掴むようにそびえる世界樹が見える。
あの世界樹の上に、神はいる。人の子は世界樹を見上げ、慕いながら生きる。それら人の子を統べる王が、世界の中の王都であり、王都の中の国王である。
フェリックスはごくりと唾を飲んだ。おとぎ話のようなストーリーだが、自分はこれから、その王に仕えるのである。広い前庭を埋め尽くす、数え切れないほどのこの兵士たちの一人として。世界樹に連なるストーリーの、そのほんの小さな一部として。
国王陛下のありがたい訓示のあと、楽団の儀式的な音楽に続いて、兵士の心得だとか使命とか、そういうものが延々と伝えられた。聞き慣れない文句の数々にフェリックスの意識が夢の中に飛びそうになった頃、ようやく陸軍全体の入隊の儀式はお開きになった。
続いて魔法師団だけの入隊式があるとのことで、勝手知ったる様子で移動を始める同期たちに続き、フェリックスも慌てて歩き出した。回廊を西側に突っ切って、王宮の西の翼の裏側へと進む。
カロイェート師団の同期はフェリックスを含めて五人らしい。小柄な青年と大男が親しげに話していて、黒髪長髪の男は別の師団の新人と喋っている。こういう場での男同士の会話が分からず、フェリックスはひとり黙々と歩いた。なにかの拍子に、先頭を歩く上司の男が立ち止まって、そのすぐ後ろを歩いていた渋い茶色の髪の青年が振り返った。
彼の美しい紫の瞳と目が合って、思わずフェリックスも立ち止まった。
すらりと美しい背格好の、およそ軍隊には似合わぬ気品を纏った青年だった。髪の色こそ違うものの、その頬の曲線も、鼻の高さも、凛々しい目元も、何もかも、フェリックスにはかろうじて見覚えがあった。というよりも、この数か月思い出しては、必死に頭から追いやっていた姿だ。
彼は紫の瞳をはっと見開き、何か言おうとするように口を開きかけ、それからきゅっと唇を結び、少しだけ微笑んだ。その微笑みに目を奪われて、気がつけば、フェリックスは彼の心を読んでいた。
ああ、きっとそうだ。ずっと会いたかった。ずっと!
緊張とは違う動悸を感じ、フェリックスは慌てて目を逸らした。
「よ、お前も同期だよな? 俺はトビー、こっちはハワードだよ。よろしくな!」
近くを歩いていた小柄な男が、フェリックスに親しげに声をかけてきた。必死に笑顔を向けて、フェリックスも名乗り返した。気さくなトビーとフェリックスが話していると、紫の目の青年は、再び歩き出した上司の男に続いて、もう前を向いて歩き出していた。
フェリックスは密かに深呼吸して、静かに気合いを入れ直した。
私はフェリックス。フェリックス・シモンズだ。偉大な魔法使いになる男だ。
ここで誰と再会して、向こうがこちらの素性を知っていようと、もう捨てたものへは執着しない。おとぎ話のような恋もない。あるのは、自分が夢へと進む道だけだ。
紫の目の青年の背を睨み、その向こうの、魔法師団の演習場を睨む。
のちに本当に偉大な魔法使いになるその人の、これが、始まりの一ページであった。
¬(異世界転生悪役令嬢のチートスローライフ) ちょけ丸 @chokechochokeke
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