三十 露草の/咲き乱れる/季節
ガタン、という音がして、プシュー、と扉が開く。
その日、僕は一人で帰っていた。駅の駐輪場に止めてある自転車に乗って、家まで帰る途中、歩道の真ん中で止まって遠くに広がる田園を眺めた。田んぼのあぜ道には露草が咲いている。もうそんな季節なんだ。
露草って、さり気なくて小さい花だけれど、こうやって緑の中にあると存在感がある。それこそ、遠くから見てもわかるような。
周りに誰もいないことを確認して、マスクを取って、久しぶりにマスクなしで外を眺める。この数年、本当にいろんなことがあった気がする。
どれくらいの間、そうしていたのか分からない。気が付いたら、隣に瀬川が立っていた。彼女は学校で用があって、先に帰っていてって言われていたんだ。
「良い景色ね」
「うん」
「もし、私がここから出て行って、例えば仕事が終わって一人で、ここのことを思い出すとしたら、きっとこの風景を思い出すと思う」
僕は嬉しくなった。だって僕も同じことを数年前に思ったから。
「嬉しいな、僕も数年前にそう思ったんだ」
「私たち、やっぱり似ているんだよ」
「……そうかもしれないね」
僕は彼女の手を握って、しばらくそんな風景を一緒に見ていた。瀬川の横顔はとても綺麗で、マスクをしていても彼女は美しかった。
「どうしたの?」
「綺麗だと思ってね」
「貴方も結構、格好良いと思うよ。一般的なそれじゃないから、局地的な人気だと思うけれど」
僕は笑った。
「瀬川は美人だけれど、そうじゃなかったとしても僕は君のことが好きになったと思う」
「……私もよ」
僕は道の途中に咲いていた露草をいくつか取った。綺麗な青だった。それを取っている時、僕はふと、あることを思いついた。
「ねえ、中学校行かないか?」
「中学校?」
「うん」
瀬川は不思議そうな顔をした。そこには少しの不安も混じっていた様に思う。僕は彼女の手を握り返す。彼女は少し後で微笑んだ。
「分かったわ、何か思いついたんでしょう? 良いわ、行きましょう。その代わり、私のこと、名前で呼んで。ずっと言おうと思ってん多だけど、貴方は『大崎くん』で、私は『瀬川』って言うのから、どうしてか離れられなかったんだ」
言われてみれば、確かにそうだ。僕はずっと彼女のことを瀬川って呼んでいた。
「分かった。じゃあ皐月、乗って」
彼女は自転車の荷台に座った。僕はいつもよりずっと、ずっと慎重に自転車を走らせた。ここからなら、直ぐに中学校が見えてくる。僕は後ろに大好きな人を乗せて自転車を走らせる。
彼女が今どんな顔をしているのか見たい気もした。でも、今はそれは出来なかった。途中、自転車を止めて、僕は彼女の手を握る。彼女が僕を見る。
「大丈夫だよ」
「……うん」
季節は巡っていく。またすぐに、露草の咲き乱れる季節がやってくるだろう。……いや、露草には、咲き乱れる、なんてのは似合わないな。
もっとシンプルに『露草の咲く季節』がやってくるはずだ。その時にも、彼女には隣にいて欲しいと、そんなことを考えながら僕は自転車を漕ぐ。
「ありがとう」
「……どういたしまして。こちらこそ、ありがとう」
そんな会話をして、僕は自転車を走らせた。
中学校か、それとも別のどこかへなのか……。とにかく、僕たちが一緒に行くべき、どこかへと向かって。
〈了〉
露草の、咲き乱れる季節 坂原 光 @Sakahara_Koh
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