結局愛に理由なんてない
小池 宮音
結局愛に理由なんてない
とある日曜日の昼。JR武蔵境駅を目指して歩いていた
「泉の彼氏って、なにしてる人だっけ?」
「んー、今はなにもしてない。プー太郎」
不動産の街頭アナウンスが流れる中、泉の返答を聞いた巴菜は眉をひそめた。
「え、一緒に住んでるんだよね? それってヒモってこと?」
「まぁ、端的に言えばそうなるね」
「えぇ……あたし的にはあり得ないんだけど。あんたはそれでいいの?」
泉と巴菜は高校生からの付き合いで、二十七歳になった今もこうして時々遊ぶ仲だった。お互いに遠慮はない。
泉は首を傾げた。
「うん。別にお金には困ってないし、家事やってくれるしね」
「あー、あれか。主夫ってやつか」
「まだ結婚はしてないけど」
お昼時とあって飲食店の匂いが充満している。人も多く、二人の歩みは遅い。空を見れば秋らしいうろこ雲が浮かんでいる。それを見た泉は、先週の出来事を巴菜に話さなければ、と思った。
「あのさ、この間、彼氏と井の頭公園にピクニックをしに行ったのね」
「なんだその平和なデート。ヒモとすることじゃねぇな」
「うん、そうなんだけどね——」
***
その日、泉は朝の九時に目が覚めた。月曜から土曜まで働きづめで、たった一日しかない休みの日曜日。開けられたカーテンの隙間から差し込んでくる太陽の眩しさに再び布団を被ろうとして、声が飛んできた。
「泉! 井の頭公園にピクニックしに行こう!」
声の主は三年前から同棲している彼氏の
「こら、いい加減起きろ。そんなに布団の中にいるとダニに喰われるぞ」
「たまに干してるからダニなんていないもん。光だっておんなじ布団で寝てるんだから喰われるときは一緒だし……」
「会話になってない。ほら、起きなさい」
泉は光に両手を引っ張られ、ようやく起きた。回らない頭が徐々に回転してくる。あれ、さっきなんかピクニック行くとか言ってなかったっけ?
「ほれ、時間あげるから準備して。泉の準備が整い次第、出るよ」
「出るってどこに……」
「だから、井の頭公園」
あぁ聞き間違いじゃなかったんだ、と浅く頷く。と、そこでなにやら美味しそうな香りが漂ってきた。鼻をヒクつかせるとお腹がグゥ、と音を立てた。
「サンドイッチ作ったから、それ持ってピクニックしよう」
そう微笑む光を見て泉はなぜか幸せを感じるのだった。
泉の準備に一時間半ほどかかり、二人が井の頭公園に着いたのは十一時過ぎだった。ウェアを着てジョギングをする男性、小型犬の散歩をする女性、学生服姿の男女など、様々な人たちが公園内を移動している。泉は光の誘導で池の方へ向かっていた。
「光。ベンチ空いてるよ? そこで食べないの?」
光は所々に置かれている木のベンチに見向きもせず、目的の場所へと進んでいた。朝ご飯を抜いている泉は、光の手にあるカゴの中身を早く食べたくて仕方がない。しかし光は首を振った。
「食べない。レジャーシート敷いて食べるのがピクニックだから」
謎理論を口にしてズンズン進む。泉は仕方がないと諦めて大人しくついて行った。
迷いなく進んでいく光の背中を泉はじっと見つめる。頼りがいがあるフリしてプー太郎なのが情けない。この二年間で何度転職を繰り返しただろうと考えて、やめた。いずれにしろこの半年は仕事をしていないのだ。仕事をしていた頃から料理や洗濯などといった家事は積極的にしていたので、一日中家にいる光が自動的に泉の分の家事をやるようになった。なのでこの半年間、泉は家事という家事をしていない。やれと言われればやるが、今のところ光から不平不満が出てこないのでやっていないだけだ。まぁ家賃の払い主は私だと肝に銘じているのだろう、と泉は勝手に思っている。
「よし、到着~。泉、端っこ持って」
池が見渡せる芝生の上に柴犬柄のレジャーシートを敷いた。チラリと横を見れば他にもカップルらしい男女がいて、人目もはばからず密着していた。
「なにここ、カップルの聖地なの?」
「まぁ、そんなとこ? さ、食べよ? 泉、お腹空いてるでしょ」
光は靴を脱ぎ、レジャーシートの上で作ってきたサンドイッチを広げた。パンの香りと具材の香りが泉の鼻孔をくすぐる。少し周りが気になるが空腹には抗えなかった泉は、光が渡してきたウェットティッシュを受け取って手を拭いた。
サンドイッチの種類は四種類あった。たまごサンド、ツナサンド、ハムサンド、カツサンド。それぞれ二つずつあり、泉はたまごサンドからいくことにした。
「いただきます」
「はいどうぞ。召し上がれ」
口元に近づけただけでもう美味しい。一口齧るとマヨネーズとゆで卵のセッションが始まったかと思った。茹で加減は完璧で硬すぎず柔らかすぎない。もちもちとした食感で高級な卵でも食べているのかと思うが、多分これはひとパック九十八円のタイムセールで買ったMサイズの卵だ。あっという間に平らげ、ハムサンド、ツナサンドと順当に食べ進める。
「美味しい?」
「うん。光、サンドイッチ店開けるよ。最高に美味しい」
お世辞抜きの泉の感想だった。プラスチックのコップに淹れてくれた紅茶もサンドイッチによく合う。最後のカツサンドを手にすると、光が目を細めて泉を見た。
「俺、イギリスに行こうと思うんだけど」
「……ん?」
一瞬、鳥の影が泉に落ちた。同時にカツを落としそうになる。再び太陽が泉に降り注いで、泉は聞き直した。
「イギリス? 光が?」
「そう。サンドイッチ伯爵に会いに」
風が吹いて枯葉がレジャーシートに移動してきた。泉も光もそれには気づかない。見つめ合った二人は傍から見れば二人の世界に浸っているようだが、実際どうなのかは本人たちにしか分からない。
「お金はどうするの?」
「泉に秘密にしてたへそくりがある」
泉は瞬きを繰り返した。コイツ人の金で生活してるくせにへそくりなんて、と思ったわけではない。まさか海外に飛ぶなんて思わなかったからだ。今までも「ちょっと京都に行ってくる」だとか「ちょっと富士山に登ってくる」だとか国内を転々と旅することはあったがそれも二、三日のことで、海外なんてましてやイギリスなんてちょっとやそっとの範囲ではないだろう。「何日くらい?」と聞くと「んー……半年くらい?」と、なんでもないような返事が返ってきた。
「それって、留学?」
「端的に言えば、そうかも」
端的に言わなければなんなのか。気になったが問い詰めることはやめた。
泉はカツサンドを持ったまま、秋の風を感じながら考えた。仮に光がいないとして、朝は誰が起こしてくれるというのか。弁当は誰が作る? 掃除洗濯は誰がするのか。切れた電球は誰が換える?
すると光は泉を真っ直ぐ見た。
「泉は俺と違ってちゃんと働いてるし、常識っていうものをちゃんと持ってるから、もし泉のことが好きだっていう人が現れたら、悔しいけど、そっちになびいてもいいよ」
すぐ近くで「やだーもう。あっくんってば」という甘い声が聞こえた。他に人がいるにもかかわらず、泉と光は見つめ合ったまま動かない。
「……待っててほしい、とは言わないんだね」
「泉を縛りたくないから」
その言葉には「俺も泉に縛られたくない」という意味が含まれているんだろう、と泉は捉えた。
散々自由だったけど、ここまで自由だとは思わなかった。私は見る目がなかったのかと半ばドライアイ気味の目を瞬かせる。泉はとりあえず手に持ったカツサンドを頬張って「美味しいねコレ」と笑った。
***
「え、なにそのキテレツな話。結局彼氏とは別れたの?」
話を聞き終えた巴菜が、『彼氏』の前に小さく『バ』を付けたことを泉は聞き逃さなかったが、あえてツッコまなかった。その代わりに首を横に振る。
「ううん。別れる理由なんてないよ」
巴菜は泉の発言を聞いて唖然としたのち、「あんたたちバカップルだね」とため息をついた。その意味は普段使われる言葉の意味でないことくらい泉にも分かった。
「んー。結局、私は光がいないと生きていけないんだよ」
「イギリス行くのに?」
「私も行くことにした」
「は?」
「一緒に行くの。光とイギリスに。新婚旅行も兼ねて」
ハンバーガーショップから照り焼きの甘辛い香りが漂ってきた。光だったら照り焼きサンドイッチも美味しく作るんだろうな、と泉は思う。巴菜は「やってらんねぇ」と吐き捨てて大股で商店街を通り抜けた。
「お土産買ってくるよ」
「いるかぁ! 二人だけで末永くお幸せになりやがれ!」
「ありがとう。巴菜に祝ってもらえると嬉しい」
「あーあ、なんであたしは泉と友だちなんだろう。意味わかんないけどなんか好きなんだよなぁ」
「そうそう。私も意味わかんないけど光が好きなの」
あの井の頭公園ピクニックデートの後、泉と光は真剣に話し合った。お互いにいい歳だし夢を語っている場合ではないと。すると光は泉についてきてほしいと告げた。光も泉がいないと生きていけないらしい。
すきっぷ通り商店街を抜けた先には、目に良いとされる緑色に囲まれた武蔵境駅が姿を現す。二人は駅を通り抜けた南口にある大型商業施設に買い物に来た。主には巴菜の服を買いに来たのだが、「あぁっ! なんかモヤモヤする! 苦いコーヒーが飲みたい!」と巴菜が叫ぶので泉は飲食店のはしごデートになりそうだな、と思った。
END.
結局愛に理由なんてない 小池 宮音 @otobuki
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