第8話 彼女の話 10時10分から9時40分
男は車の助手席のドアを開け、彼女へ乗るようにうながした。最後の最後に彼女はもう1度バス停のほうを見る。人影はおろか、バスのバの字もない。まだ20分も前だしあの人が来てくれるわけないわよね……彼女はため息をつき、意を決して車に乗り込もうとする。体をかがめると、むせかえるような煙草のにおいが漂ってきた。
「おい、お前。美智子に何するつもりだ?」突然彼の声が聞こえてきて、彼女は素早く振り返った。彼は男の肩をがっちりとつかんでいる。男は油がさされていないブリキの人形のようにぎこちなく彼のほうへ顔を向けた。
「いや、彼女と少しお話しようと思ってただけだ。何もいかがわしいことはしてない」男は気まずさをごまかそうとしたのか、頭をかいた。「いやあ、彼女、押しにめっぽう弱いみたいだからさ、君がちゃんと守ってあげないとだめだよ? それにしても、本当に狙いすましたようなタイミングだ。将来いい夫になるよ、君」
「ふん、余計なお世話だ」彼が男の肩から乱暴に手をどかすと、男は少しよろめいた。彼は彼女の手を引いて、彼女が小走りにならないといけないぐらいの大股で歩き出す。歩き方から彼が不機嫌であることを彼女は察した。
「その、ごめんなさい。上手な断り方が思いつかなくて……」
「気にするな。俺がもう少し早く来ればよかっただけだ。9時ごろに家を出てゆっくり歩いてきたらあんなことになってた。バスを使えばよかったな。お前は何か変なことされなかったか? 本当に大丈夫か?」
彼はまっすぐ前を見つめたまま言う。固い声の中に、彼女は彼の優しさをありありと感じた。それに何より彼も早く家を出ていたことが分かって嬉しかった。あなたも今日を楽しみにしててくれたのね。
「ええ、何もされてないわ。さっきはありがとう」
「当たり前のことをしただけだ」
後ろで「お前ら、せいぜい幸せになるんだな!」という男の大きな声と、その直後に車のドアが勢いよく閉まる音が聞こえた。
「全く……一体何なんだあいつは……」彼はやはり正面を見つめたまま、呆れたような声で言った。でも、彼も笑っているはずだと彼女は思う。なぜなら、彼女が口元をマフラーで隠して笑っていたからだ。
信号が赤になっていたので、彼らは交差点で立ち止まった。二人は今日初めて、隣同士に並んだ。大柄な彼と小柄な彼女の身長差は20cm以上あるため、でこぼこしているように見える。彼女は信号待ちの間に、少し背伸びして彼の首に紺色のマフラーを巻いてあげた。彼は怪訝な顔をして尋ねる。
「お前、いきなりどうした? 俺、別に今日誕生日でもなんでもないんだが」
「知ってるわ」彼女はたった今思いついた言い訳を並べる。「今日は『わたしがあなたに初めて手編みのマフラーを贈ってあげた記念日』だから、マフラーをあげるのよ。それに、そんな髪型じゃ寒いでしょう?」
坊主頭の彼は怪訝な顔から真顔になり、そしてすぐに彼女から目をそらして吹き出した。彼は目を細めて笑い、美智子の肩を抱き寄せた。
「ずっと一緒に居よう。俺たちは『君の名は』のあの2人みたいにはならない」「ええ、そうね。ずっと一緒よ」彼女は彼のほうを見上げて言い、彼の腕にしなだれかかる。
「あそこのバス停まで行ったら、バスに乗ろう」と、彼は数十メートル先のバス停を指した。彼女は彼を見つめたままゆっくりとかぶりを振る。「わたし、今日はこのまま歩きたい気分だわ……」「歩いたら、多分20分ぐらいかかるぞ。大丈夫か?」と顔を彼女に向けて言う彼に反論する。
「馬鹿にしないでちょうだい。それぐらいへっちゃらよ」
「そうか。でも、もし途中で歩けなくなったら、俺がおぶってやるよ」それを聞いて、彼女は思う。それなら途中で歩けなくなったふりでもしちゃおうかしら、なんてね。彼は彼女の手を握り、引っ張った。
「ほら、信号が青になったぞ」
「そんなの見ればわかるわよ」
目の前の信号が青になったのが、ぼんやりと見えた。今年86歳になった橋本美智子の視力は白内障やら老眼やらですっかり衰えていた。狭い歩幅で少しずつ横断歩道を渡っていく。彼と結婚してから60年以上の間、妻として母としてその日その日を懸命に生きてきた。そのおかげか、そのせいか、昔を振り返る機会は今までほとんどなかった。あったとすれば、昨年夫の茂が85歳で亡くなったときぐらいだろうか。どうせまたすぐに会えると分かっているが、やはり少し寂しかった。
だが、さきほど高校生ぐらいの男の子に背負われたのをきっかけにずっと昔のことを思い出したのだ。
あのとき見た映画は確か『東京物語』だった。それを見終わったあと近くの洋食屋に入りナポリタンを注文したのだが、彼女は食べきれなかった。あの人に「お前、茶店で何か食べただろ」とばれてしまったのが恥ずかしかったわ……。美智子は今日の朝食に何を食べたかもあまりよく覚えていなかった。けれど、70年も前に食べた昼食ははっきりと覚えている。不思議なものね、と彼女は思った。
ふと腕時計を見ると9時40分をさしていた。そういえば、と彼女は10分ほど前のことを思い出す。あの子に早く待ち合わせ場所に行ってあげるように言っておけばよかったわね。時間に余裕があるからってだらだらしていると、取り返しのつかないことになってしまうかもしれないから。
高校生の彼は間違いなくいい旦那さんになるだろう。そんな子の彼女だってそうだ。きっといいお嫁さんになる。彼女は休憩がてら少し立ち止まり、心の中で2人がずっと幸せであるように、と祈った。
彼女の名は ダイニング @1c3i5o7v9
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