終章 私達はどこへ
その日は、寒い日で、やっと冬の寒さになったと喜んで居る人が多いと思われるが、一方で、風邪をひくとか、そういう人も多いのだった。まあ、風邪と言っても、数日でなんとかなることが多いが、それでも辛いものがあると思う。
「じゃあ、今日もめげずに、ちゃんとやろうな。ウェブサイトで会員を集めたんだし、オンラインだけでは絶対なりたた無いよ。それよりも、大事なのは、顔をあわせて、ちゃんと話をすることが大事だぜ。」
杉ちゃんは、電車の中で、槇原重子さんに言った。今日は、第二回衣笠の会定例会の日で、みんなで三島駅近くのギャラリーを鑑賞したあと、お茶を飲んで親睦を深めようという内容であった。前回は、あの鍵山暢子さんに邪魔されてしまったけれど、今回は、きっとうまくいく。杉ちゃんはそう言っていた。
「もうネットで集まるように言っているんだし、会員さんは三島駅で待ってるんじゃないの?」
杉ちゃんに言われて、重子さんは、小さな声でハイと言った。自分の中でも、一生懸命考えているようだった。また同じことが置きてしまうのではないかと不安に思っているようであるが、杉ちゃんの方は、にこやかにしている。
「間もなく、三島、三島に到着いたします。お出口は、右側です。新幹線と、伊豆箱根鉄道線はお乗り換えです。」
と、車掌の間延びした声がして、電車は三島駅に止まった。駅のホームには、駅員が待機していて、杉ちゃんを電車から降ろす準備をしていた。それを、杉ちゃんたちは、当たり前のように利用しているけれど、中には、この障害者、なんで俺たちの時間を無駄にしているんだろうなとか、そういうことを思う人も居る。その中で、杉ちゃん一行を、いやなかおをして眺めている人も居るのだった。
杉ちゃんたちは、当然のように、駅員に手伝ってもらって、電車を降りた。駅員に丁寧にお礼を言って、駅を出た。駅員にお金を払うわけでは無いけれど、駅員は、にこやかな顔をして見送っていなければならないのだった。
杉ちゃんたちが、駅員に手伝ってもらって、改札口から出たところ、二人の着物の女性がいた。作り帯講習で来た、栂安さんと、もうひとり女性がいた。先日の柘植さんとはまた違う雰囲気の女性で、女性は、派手なアンティーク着物と言われる部類の着物を着ていた。彼女は、名前を中川と名乗った。
「こんにちは。今日はよろしくおねがいします。」
と、重子さんがそう言うと、中川さんという女性が、
「よろしくおねがいします。」
と、にこやかに言った。
「えーと今日の参加者は、栂安さんと中川さんですね。私は、衣笠の会代表の槇原重子です。こちらが、私のお手伝いで、」
「和裁屋の杉ちゃんだよ。」
と杉ちゃんがでかい声で言った。
「じゃあ、よろしくおねがいします。駅前の商工会議所に行きましょう。今日の展示会のテーマは、陶芸展です。陶芸で有名な、猪木塔子さんという女性の、作品を拝見します。」
重子さんに連れ立って、杉ちゃんも、他のメンバーも商工会議所に向かって動き始めた。三人は、好きな着物はなにかとか、そういう話をしながら商工会議所に向かっていく。商工会議所は、駅から歩いて五分程度のところにあった。そこの一階に、ギャラリーがあった。四人は、そこに入った。入場料はただであったが、随分立派な瓶がたくさんおいてあった。釉薬もきれいに塗られている、素敵な瓶である。瓶ばかりではなく、湯呑なども展示されていた。メンバーさんたちは、しげしげと瓶や、湯呑を眺めていた。静岡にこんな立派な陶芸家が居るんだなと、感心していた。
展示物をすべて見終えると、四人は予約していた茶房イチョウ並木という喫茶店に入った。着物を着ていくのにふさわしい、和風の建物であった。四人は席に座った。店員が持ってきたメニューを眺めて、みなそばを注文した。待っている間も、着物は何の生地が好きなのかとか、そういう話で盛り上がった。みんな着物を着たいという気持ちは持っている。だけど、着物を着る機会が無いと言った。それなら、着る機会を作ればいいのさ、と杉ちゃんがいうと、みんなにこやかな顔をして、そうですねとそれを合わせた。
数分している間にそばがきた。みなそれを急いで食べた。そばは、とても美味しかった。白い部分が多い、二八そばだった。とてもいい香りがした。つゆも、しょっぱすぎず、うすすぎず、ちょうどいい味だった。
「すごく美味しいです。こんなそばがいつでも食べられるといいけど、まあそれは無理だから、今日は思いっきり楽しみましょう。」
と、重子さんは言った。他の女性たちも、そうですねといった。栂安さんと一緒に来た、中川さんという女性は、自分は、今結婚したばかりなのだが、主人が、思っていたときと違っているので、困っているとかたった。それでも、結婚したんだから、簡単に離婚するわけにも行かない。だから、着物を着ているときは、つらい気持ちを忘れられると語った。杉ちゃんが、頑張れよ、そのうち彼のいいことが、見えてくるからよと、そばを食べながら、にこやかに笑った。
「あなた達。」
と、また誰かの声がした。杉ちゃんたちが振り向くと、鍵山暢子さんであった。
「どうしたんだよ。」
杉ちゃんが言うと、
「ここで食事会をするって、インターネットの画面に書いてあったのよ。それで、私も追いかけてきたわ。一体あなた達は、何をしているのかしら。着物を着て、単にお食事をするだけで、何の利益になるのかしら。」
と暢子さんは意地悪そうに言った。
「何をするつもりなんだ?まさか、この会をぶっ壊しに来たのか?」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ、だって、私が、正式な鍵山の称を名乗る予定なんですからね。あなたに、これ以上活躍されては困るのよ。だから、なんとかして、あなたを潰さないとね。」
暢子さんは言った。
「そうだけど、ここに居る奴らは、みんな、着物を着るのが楽しくて、ここに来ている奴らだぜ。今ここに居る中川さんとかはな、ご主人と馬が合わなくて悩んでいるそうだが、着物を着て辛い時期を忘れようとしているそうだ。きっと今はそうやって耐えているしか無い時期なのかもしれないな。そのうち、ご主人のいいところも見つかるだろう。だからそれまで着物が相手をしてくれるだろうな。どうだ、十分着物が役に立ってるじゃないか。着物を着て辛い時期を耐えることだって立派な人生だよ。それを手伝ってやっていると考えれば、決して悪いことはしてないと思うけど。」
杉ちゃんが、でかい声でそう言うと、
「だからよ。」
と暢子さんは言った。
「だからあなたたちが、役に立たないんじゃないの。あなた達は、ただ、傷の舐め合いをしているだけのこと。それに着物をかけ合わせて居るだけのことよ。それが果たして何の役にたつの?何の約にも立たないでしょ。だから、こんな会合なんてさっさとやめればいいでしょう!」
「そうだけど、こういうところがあっても良いと思うよ。傷の舐め合いだろうが、ナンだって良い。解決方法なんてなくたっていいさ。それでも、集まるってことが、大事なことだからな。それは、忘れてはいけないんだよ。」
杉ちゃんがそう言うと、暢子さんは、バカにした様な顔をした。
「どうしてそんなにバカにするんですか。私は、着物が好きで、着物に救ってもらった。その機会をこの人達に分けてあげたい。そう思ったから、ここでサークルを結成しました。それをこうして、一々一々邪魔して、何を妬んでいるの?」
重子さんが気に障ったのか、急いでそういった。
「お前さんさ、ただ、面白くなくて、こういう会を潰してやりたくなった。それだけの理由じゃないか?」
杉ちゃんが、それを付け加えた。
「人間はね、自分よりも人のほうが良くなると、面白くないんだな、人間の私って、相田みつをさんと言葉もある。それに、能の世界でも、嫉妬を表した面はいっぱいある。お前さんの顔は、なんか、ただ怒りに任せて、サークルを潰したいって顔に見える。」
「ホントだ、昔の人から見たら、般若の面みたいですね。」
栂安さんが、小さく呟いた。
「まあ、般若というより、彼女は怒りに任せてる。真蛇といったほうが良いかもな。まあでも具体的に事件を起こしたわけでも無いから、泥蛇とは違うかな。」
杉ちゃんがでかい声で言った。確かに女の嫉妬から、事件を起こすまでを表した面は、橋姫から始まって、生成、般若、真蛇、泥蛇と五段階もある。能の世界はなんでこんなに細かく女の嫉妬を表現するのだろう。
「あたしは、そんな事は考えていないわ。ただ、あたしは、こういうふうに気軽に何でも楽しもうとか、傷の舐め合いのために、伝統文化を使ってほしくない。それだけのことよ。伝統文化は、つらい気持ちを和らげるためだけにあるものじゃないわ。もっと向上して、精神を鍛えるためにあるの。だから、気軽にとか、気楽にとか、そういう言葉が嫌いなのよ。こんな会なんて、捨ててしまえば良い。お琴や着物を、そうするために使用してほしくないの。それだけなのよ!」
彼女、鍵山暢子さんはそういった。
「だけどねえ、こないだも言ったけど、伝統はもう、役にたつもんじゃないんだよ。もう楽しむものに変化して行かせないとさ。やろうと思うやつは出てこないよ。それは、もう紛れもない事実だよな。だから、それをどうするかだろ?そのために、槇原重子さんは、こういうサークルを考えて居るんじゃないかよ。そのほうが、一生懸命やっているとおもうんですけどね。それは違うのか?」
杉ちゃんがでかい声でそう言うと、
「そうよ。あたしは、彼女、槇原重子さんの、そういう気持ちに感動して、このサークルにこさせてもらったんですよ。彼女、一生懸命やっていると私も思いますよ。作り帯を作ったりとか、こうして着物を着る機会を作ってくれて、一生懸命着物が絶滅しないようにしてくれていると思うわ。あたしは、彼女の事は気に入ったわよ。着物は精神を鍛えるとか、そういうおかしな理屈をこね回すよりよほど良いと思うわ。そうじゃないかな?」
杉ちゃんの話に合わせて、栂安さんが言った。
「私もね。若い頃茶道とかやってたんだけど、足が悪くなって正座ができなくなってやめたのよ。だけど、着物は着たいじゃない。でも、今までの正式なやり方だったら、着物は楽しめないわ。だから、こういうふうに着物を楽しんでやれるようにという趣旨がすごいと思ったの。それに感動して、ここに来たの。まあ多少、こういう妨害はあると思うけど、彼女の言うことは間違ってないわよ。だから、彼女の言うことはちゃんとしていると思うし、これからもこういう会があれば、参加したいわよ。」
「あたしも、着物を着ている間は。」
と、中川さんが、小さな声で言った。
「惨めに小さくなっていなければならない自分はいません。だから、着物を着て気分転換して、これからも生きていこうと思っています。だったら着付け教室に行けば良いと思うかもしれませんが、私の周りにそういう教室はないし、着付け教室と言っても、余分なものを買わせるだけで、何の約にも立たないし。だから、こういうサークルがあって良かったと思います。」
「ほらあ、この二人だってこう言っているじゃないか。まさか着物を冒涜しようとしているとか、そういう事言うんじゃないだろうな。お前さんはただ、重子さんが楽しそうにやっているので、面白くないだけなんじゃないの?それ、良くないぜ。それを思うんだったら、別の事を考えたほうが良い。」
杉ちゃんがみんなの話をまとめるように言った。でも、暢子さんは、まだきつい顔つきだった。
「まだ、恨みがあるんだったら、二人だけでちゃんと話し合うことだな。ここで話し合うのもちょっと場所が場所だから、製鉄所で話をさせることにしよう。」
と、杉ちゃんは言った。
「それでは、私もそうさせてもらいましょうか。あなたが、こんなところで、なにかしているのを見て居ると、私、たまらないのよ。丁度いいわ。私は、車で追いかけてきたし、あなた達は電車で帰ればそれで良いわよ。」
暢子さんがそう言うので、
「おう、泥蛇になっちまう前に、人間の姿をとどめて置くところで止めておけ。」
杉ちゃんの一言で話は決まった。とりあえず、メンバーさんたちはこの時点で帰ってもらって、重子さんと暢子さんが製鉄所で話しあいをすることになった。こういうものは話し合っても糠に釘のようなものだから、あまり効果は無いと思われるが、そうさせたほう良いと杉ちゃんは思った。メンバーさんたちは、飲食代を払って、それぞれの持場へ帰っていく。重子さんは、涙をこぼしながら、店をあとにした。暢子さんは駐車場に向かった。杉ちゃんだけが一人ニコニコしていた。
そういうわけで、杉ちゃんと、重子さんと暢子さんは、製鉄所に入った。取り合えず杉ちゃんが、二人を食堂に通した。そして二人の前にお茶を置く。もう何を話し合うのかわかっているようで、二人は黙っていた。
「まあ、ものは相談だ。暢子さんは、重子さんのしていることが面白くなくて、重子さんのしているサークルを潰したいと思っている。それだけのことだよな。簡単なことだよ。実は。実は簡単なことほど解決が難しいのが人間と言うことでもあるがな。それだから、ここへ来て、ちゃんと気持ちを伝えてさ。しっかり、話をするのが必要なことでもあるんだ。ほら、支えてること、話しちまえよ。お前さんは、ただ、重子さんのしていることが面白くないんだろ?」
杉ちゃんに言われて、暢子さんは、はいと小さな声で言った。
「最近、お琴教室の生徒が、急に辞めるようになって。理由を聞いてみたら、私の曲が面白くないって言うから。私自身もどういう曲を書いていけば良いのかわからなくなってきたのよ。」
「はあ、なるほど。そういう背景があったわけね。まあ、お前さんの書いているものははっきり言ってしまえば、ショスタコーヴィチよりひどいものだ。それでは人が寄り付かない。もっと静かで穏やかな曲を書いて、人をひきつけろ。」
杉ちゃんがすぐ答えを出した。こうして答えがすぐ言えるのも杉ちゃんなのかもしれない。
「でも、音楽なんて、どう学び直したら良いのかよくわからないし。」
暢子さんがそういうと、
「そういうことなら、音大の体験講座に行ってみて、ちょっと和声的なものを学んでみたらどうだ?」
と、杉ちゃんが言った。
「そうだけど、邦楽の世界に居る人間が洋楽の勉強をしようとなれば、上からすごいお咎めが来るわ。だって、邦楽を潰したのは洋楽なんだし。」
暢子さんは、困った顔で言った。
「関係ないと思うけどね。まあ、でも確かに、ヨーロッパ人がお琴を学ぼうと思うと嫌な顔されるって聞いたことあるし、でも、西洋文化を敵に回しちゃだめだと思うな。」
杉ちゃんがそう言うと、不意に小さい声で、重子さんが言った。
「水穂さんが居るわ。」
一瞬みんな黙ってしまう。
「ああ、そうだねえ。やつがいれば、洋楽の勉強できると思うんだけどね。だけど、今はちょっと無理だなねえ。急に寒くなっただろ?容態が良くなくてずっと寝てるんだよ。」
杉ちゃんが、できる限り軽い口調で言った。でも、それはどこか何かを隠しているような言い方でもあった。それと同時に、四畳半から咳き込む声がした。杉ちゃんはでかい声で、
「はあ、またやってる。」
と、言った。重子さんも、暢子さんも顔つきを変えた。
「見に行ったほうが良いんじゃありませんか?」
と重子さんはそう言って、椅子から立ち上がって、四畳半へ走っていった。暢子さんもそれに続いた。二人は、急いで四畳半に飛び込んだ。ふすまを開けると、水穂さんが激しく咳き込んで居るのが見えた。もう畳には朱肉をこぼしたような、赤い液体が散乱していた。
「すぐに薬を飲ませましょう。」
と、暢子さんは、周りを見渡した。一方重子さんの方は、水穂さんの背中を擦ってやったりして、吐き出しやすくしてあげたのであった。その間に、水のみを見つけた暢子さんが、水穂さんの口元に、それを無理やり押し込んだ。飲んで!と言いながら、水のみを傾けると、どうにかして飲んでくれた。中身を全部飲ませることに成功すると、重子さんは、水穂さんの口元を濡れたタオルで吹いてやった。
「あーあ、またこんなに汚されちまったか。これでまた、畳代がたまらないよ。」
杉ちゃんがでかい声でそう言うと、
「何を言ってるの!畳より、水穂さんが、苦しそうにしているのを、しっかり見てあげるのが、先じゃないの!」
と、暢子さんが言った。思わず重子さんも呆然としてしまうような、そんな言葉だった。重子さんは、すぐに正気に戻って、また水穂さんの背中を擦った。やがて薬が効いたようで、水穂さんの咳き込む回数も減って、彼は、布団に倒れるように眠ってしまった。
「危なかったわね。このままでは、吐いたものが詰まって窒息するかもしれなかった。でも、早く対処してくれて良かったわ。畳の張替えなんて、いつでもできることだし、それより、水穂さんを助けることのほうが先よ。」
「そうか。」
と、杉ちゃんがでかい声で言った。
「水穂さんのことを大事にできるんじゃ、お前さんも、人を大事にできるような、そういう人なんだね。それがわかっただけでも嬉しいな。ほんとうに良かった。」
「そうなの?」
暢子さんは、思わず言った。
「ああそうだとも、人を大事にできるやつってのは、そうはいないぞ。ましてや、水穂さんは、こういう着物を着るようなやつじゃないか。お琴とかそういうものをやってるやつって、割と気位が高いから。まあでも良かった。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「だから、お前さんもくだらない嫉妬に囚われてないでさ、本当にやりたいことを考えな。お前さんが、汚い和声の曲を書き続けていても、何の意味もないよ。」
「そうね、、、。」
暢子さんは、小さな声で言った。それからしばらく製鉄所は水を打ったように静かだった。
橋姫 増田朋美 @masubuchi4996
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