第六章 衣笠の会
もう雨が何回か降って、だんだんに寒くなってきた。ようやく冬がやってきたらしい。今年は冬の到来が以前より遅かったのだろうか。まあ、いずれにしても、もう日本の四季というものは、どこかにいってしまったような、そんな季節になっている。
そんな中。
「はあ、なるほど。そんなサービスを考えたんだ。」
杉ちゃんは、とりあえず重子さんに言った。
「着物の着付け教室ではなくて、着物の着付けサークルですか。」
水穂さんは、布団の上に起きて、重子さんが手書きで書いたチラシを眺めた。
「で、これをどこに置くの?」
「はい、はじめは、カールさんのお店とか、そういうところに置かせていただいて、あとは公民館とか、そういうところにも。あと、影浦先生の病院なんかにもいいかなと思っています。」
杉ちゃんに言われて、重子さんはにこやかにいった。チラシには、手軽に着物を着てみませんか?と書いてあった。
「現在は何かと不自由なことの多い世の中ではありますが、着物を着て少しでも気もちが楽になれたらと思います。着物をきて、お食事したり美術館にいったり、そんなことからはじめて見ませんか?お気軽にお問い合わせください。」
水穂さんがそれを声に出して読んだ。
「対象者は、着物に興味がある方、つらい思いをされている方が対象者です。活動内容、着付けレッスン、着物によるイベント会、リサイクル着物などでの買いもの、気軽に作れる作り帯。着物の強引な販売や勧誘は一切ございません。安心してください。はあなるほど、よく考えましたね。確かに着付け教室では、着物の強引な販売があって、それから逃げるように帰ってきたとか、よくありますからね。」
確かにその通りだった。着付け教室というと、洗脳されるように着物を買わされたりして、肝心の着付けはどこへ?と言われることは結構ある。
「そう言うことは一切なく、着物を楽しめる場所ができたらいいなと思って、このチラシを書きました。どうでしょう?なにか足りないことはありますか?」
重子さんは二人に確認するように言った。
「そうだねえ、チラシだけでは伝わりにくいところもあるから、ウェブサイト作ってもいいかもね。」
「それに、着付け講師ではないので、高額な免状代などもかからないとかいたらよいかも。」
杉ちゃんと水穂さんはそうアドバイスした。
「いまならウェブサイトも簡単に作れるみたいですし、作って見てはいかがですか?」
水穂さんにいわれて、重子さんは解りましたといった。
「自信ないですけどやってみます。」
「それから、せっかくだから、サークル、名前があるといいな。単に着物サークルだけではつまらないもの。何か印象に残る名前を作ってよ。」
杉ちゃんに言われて重子さんは、そうですね、と考え込んだ。
「名前ですか。どうしたらいいのかな。それでは、えーと、衣笠の会とでも?」
「まあ、平凡な名前だな。」
「でもいいんじゃないですか。単純な名前の方が、覚えやすいし。」
杉ちゃんと水穂さんにいわれて、重子さんは、サークル名を衣笠の会とすることにした。 ウェブサイトを作るのは、比較的かんたんに作れるようになっている。昔は一苦労する作業だったが、それも今は、ワードと似たような感じで簡単に作れてしまうのだ。それに、SNSなどにも簡単に掲載できるし、そういう意味では、非常に便利な世の中である。イベントを宣伝するサイトもあるし、人集めというのは、インターネットで簡単にできてしまうものであった。そういうわけで、着物サークル衣笠の会のウェブサイトは、すぐに完成し、公開することができた。それを、SNSで共有して宣伝し、より多くの人に見てもらえるようになった。
はじめのうちは、SNSなどでも反応がなかったが、重子さんが一日一回着物姿をアップすることにより、結構記事が貯まるようになった。そして、しばらくたったある日、重子さんのもとに、作り帯を作って見たいのだがというメールが入った。重子さんは、製鉄所の利用者さんたちに手伝ってもらいながら、富士市内にあるコミュニティセンターの小さな部屋を借りた。六畳もない小さな部屋だけど、集まるのにはちょうどよかった。連絡はすぐにメールですることができるし、複数人に連絡したいのであれば、グループラインを作ることもできたから、そういう連絡手段や、コミュニケーションはすぐにできた。
そして、その当日。その日は雨であったが、杉ちゃんにも一緒に来てもらうことにして、重子さんはバスでコミュニティセンターに行った。用意した針箱を持って、ちょっと緊張した面持ちで、重子さんは、コミュニティセンターの入り口をくぐって、係員に案内されながら、一階の小さな会議室に入った。一応、係員から、部屋の使用について説明を受けた上で、彼女は、机と椅子を用意した。どんな人達が来てくれるんだろう。ウキウキするような、ちょっと怖いような、不思議な気持ちであった。なんだか、生まれて初めて、世の中に出た様な気がした。
「こんにちは。」
と、一人の女性がやってきた。入会に年齢制限は特に設けていないが、40代くらいの中年の女性だった。特に、入会するのに経歴も聞かなかったが、着物を不格好に着て、まだ初心者という感じの人であった。
「はじめまして、栂安と申します。」
変わった名字の人だった。でも、メガネを掛けて、穏やかな顔をした女性で、変に気取っているとか、そういう事はまったくなかった。
「よろしくおねがいします。栂安さん。私は、主宰の槇原重子です。」
重子さんがそう言うと、
「どうぞよろしくおねがいします。」
と栂安さんは言った。それと同時に、もうひとりの入会希望者がやってきた。栂安さんの紹介で、入会を希望したという。もうひとりはやはり着物を着た女性であるが、まだ帯の決まりなどわからないようで、浴衣用の作り帯を付けている。重子さんはそれを指摘しようとか、そういう事はしなかった。
「はじめまして、私、柘植佑美です。よろしくお願いします。」
また変わった名字であったが、その柘植さんと言う人は、にこやかに挨拶してくれた。これで、二人のメンバーさんが揃った。
「じゃあ、早速始めましょうか。えーと、まずはじめに、今日は、皆さんに、自己紹介してもらおうと思います。着物を好きになったきっかけとか、どこに住んでいるかとか、教えて下さい。」
と、重子さんが言った。
「はい、はじめまして。私は、栂安亜希子です。富士の吉原駅近くに住んでいます。着物を着始めたのは、お茶を習うことになって、着物を必然的に着ることになったので、着始めました。今日は、作り帯というものを自分で作って見たくて、こさせていただきました。」
栂安さんは年上らしく、にこやかに言った。じゃあ、柘植さんどうぞと重子さんが言うと、柘植さんはちょっと恥ずかしそうに、
「柘植佑美と申します。えーと、着物を着始めたのは、特にこれと言ったきっかけはありません。ただ、私は、うつ病になって会社を退職して、何もできなくなってしまって、それでなにか新しい事をしたいと思って、着物を着始めました。この着物も化繊の着物だし、受け入れてくれるかどうか迷いましたけれど、でも、栂安さんに来て見ないかと誘われて、こちらに来ました。よろしくおねがいします。」
と言った。
「ごめんなさい。ただ着物を着たいだけではだめですよね。」
柘植さんはそのままそう言うが、
「いえ、大丈夫ですよ。誰でもこちらには入門して大丈夫だと言うことになってますからね。気軽な気持ちで来てください。」
と重子さんは言った。栂安さんがにこやかに笑って、柘植さんを椅子に座らせた。
「じゃあ、早速、名古屋帯で、一重太鼓を作ってみましょう。よくある、四角い結び方です。今回は名古屋帯で作ります。皆さん名古屋帯はお餅になりましたか?」
重子さんが言うと、ふたりとも、名古屋帯を机の上においた。間違えなく名古屋帯を持ってきてくれた。そこは、ウェブサイトにちゃんと帯の種類などを明記していたので、良かったのだろう。
「それでは、まず、体に巻く部分と、背中に背負う部分を切り離します。帯を、お太鼓の部分と、どうに巻く部分を切り離しましょう。最初のうちは、切るのに躊躇するんですけど、すぐに慣れますよ。」
重子さんはそう言って、名古屋帯の幅の広い部分と狭い部分を切り離した。二人もそのとおりにした。
「それでは、切った部分の帯芯を外します。切った部分の布を解いて、帯芯を出してください。そして、3センチほど帯芯を切ります。」
二人はそのとおりにしたが、柘植さんのほうは、帯芯がなかった。つまりかがり帯を持ってきてしまったのであった。
「芯がない場合は、そのまま、切り口をかがり縫いして塞いでください。いわゆるまつり縫いと言うやつです。」
栂安さんは帯芯を切り取って、残りを折りたたんでその端を塞ぐように縫った。柘植さんの方は、切り口をそのままかがり縫いした。かがり帯を持ってきてしまうというのは想定外であったが、でも、重子さんは、そうやって対処した。
「じゃあ、背中に背負う部分を作りましょう。お太鼓の形を作ります。お太鼓の形に帯を折りたたんでください。こちらに見本を持ってきましたので、この通りに折ってくれれば大丈夫です。」
重子さんは手本となる作り帯を出して、二人に見せた。二人は手本となるお太鼓を見て、そのとおりに、背負う部分を折り曲げた。
「それでは、背負う部分を、縫い合わせて見てください。帯によっては指ぬきが必要になるほど硬い素材もありますが、そういうときには、革工芸用の針を使うと便利です。」
そのとおりに二人は、折り曲げた帯を縫い合わせた。
「それでは、手をつけます。帯の位置を決める大事な部品です。まず、切り離したどうに巻く部分から、45センチほど手にする部分を切り離します。次に、手の部分を、背中に背負う部分の裏面に縫い付けます。」
手の部分を縫うのは労力の要る作業でもあった。柘植さんのほうはかがり帯で芯がないので、柔らかい生地だったからすぐ縫えた。でも、栂安さんのほうは、かなり硬い帯だったので非常に難しかった。杉ちゃんが手を出さなければならないくらいだった。
「最後に、体に巻く部分を作ります。体に巻く部分は簡単です。両端に、腰紐を半分に切って、縫い付けてください。」
重子さんが言うとおりに、二人は、帯の両端に紐をつけた。
「これで、作り帯は完成です。一重太鼓の作り帯ができました。付け方はとても簡単です。まず胴に巻く部分を体に巻いて紐で止め、そして、背中に背負う部分に帯枕を入れて、それごと背負って、帯枕の紐を締めてください。そして、帯締めを帯の真ん中で結び、帯揚げで帯枕を隠す。これで出来上がりです。」
重子さんはそう説明した。
「ちなみに帯枕は、帯枕本体に紐をつけたものと、全体をガーゼで包んだものとがありますが、これは好みで選んでください。ただ布製のほうがいいですね。中にはプラスチックのものもありますけど、布のほうがうまくつけられますよ。」
「ありがとうございます。これなら、帯も簡単につけられますね。確かに帯を切るのには、ちょっと躊躇したけれど。」
栂安さんが言った。
「でも、帯も切ったとしても使ってくれればいいのではないかしら。使わないで放置されるよりは良いと思うけど。」
と、柘植さんがそういう。
「良かったな。ふたりとも、作り帯に理解がある人で。」
杉ちゃんが、重子さんに言った。
「ええ、この作り方であれば、簡単に作れますね。それに結ばないで簡単につけられますし、こういう気軽なものであれば、着物も気軽に着られるようになりますね。」
「ええ、ホントですね。私も、着物も帯も高級すぎてなかなか着られないなと思っていましたが、これであれば、着てみようとかつけてみようという気持ちになれるわ。」
栂安さんと柘植さんは相次いでいった。二人は、とてもうれしそうだった。やっぱり着物が好きで、着物を着てみたいと思っている人たちなのだろう。着物を着てみたい気持ちを値段や着付け教室などで、もぎ取ってしまうのは、本来どうかと思われることなのである。そうではなくて、着物を難しいものではなくて、すぐに着てみようと思ったら、実行できるようにすることが何より大事だなと思うのであった。それを広めていきたいという重子さんの目論見は成功したということだろう。
その時だった。いきなり、会議室のドアが開いた。
「あら、誰かなあ。新人会員は今日二人だったはずだけど?」
杉ちゃんがわざとそう言うと、やってきたのは、女性であった。一体何をしに来たのかと思ったら、彼女は着物をきちんと着込んでおり、もう着物に慣れてしまっているような感じの人である。
「あれ、お前さんは確か、鍵山暢子さんでは?」
杉ちゃんは、わざと明るく言った。
「もちろんです。一体あなた、いきなり鍵山一門を辞めると言って、何をするつもりなのかと思ったら、簡単に着られる着物とか、つけられる帯とか邪道なことをやっていて、何をするつもりなのよ!」
暢子さんは、重子さんに詰め寄った。その形相はまるで怒りに満ちた顔で、いかにも怒りそのものを表しているような顔だった。
「まあ待て待て、どういうことなのか、ちゃんと話してみな。お前さんも感情で何でも動いちゃいけないよ。まずはじめにだな。お前さんは何のために今日ここに来たんだよ。」
杉ちゃんが、暢子さんに言った。
「まずはじめに、ゆっくり話してみることだ。感情で動いても、何も始まらん。まず落ち着こうな。そして、今日ここで何しに来たのかちゃんと話してみてくれ。」
「ええ、私は。」
暢子さんは選挙演説している様な感じで言った。
「このグループを潰してやろうと思って来たのよ!」
まだ、彼女は感情的であった。
「そうだけど、このブループを潰して何になるんだ。お前さんがそんな事して、利益になるのか?それをよく考えて動かなくちゃだめだよ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ、わかってるわ。私は落ち着いていますもの。まずはじめに、なんで重子さんがいきなりお琴の社中をやめて、こんなものを開いたのか、知りたくて来たのよ!」
と、暢子さんは言った。
「そういうことなら、ちゃんといいます。私は、伝統に縛られているお琴教室にいるよりも、もっと気軽に楽しく着物を着てもらおう、そういう道へ行きたいって、そう思ったから、それでこういうサークルを開きました。別に、お琴の教室をやめさせるとか、そういう事を目的にしているわけではありません。」
重子さんは、一生懸命言った。
「ただ私は、着物というものがすごく素敵なものであると知ったし、それで、自分が変われるということ、そして、着物で癒やされる人たちがたくさんいるって、そういう事を知ったんです。だけど、お琴の教室は、ただ着物をお教室の道具としか見ていない。それに、お琴教室では、ただ、お琴を守るため、実社会から隔離するような感じでお琴や着物を守っている。それは私、嫌になったからもう嫌だといったんです。それよりも、この社会で疲れてしまった人たちを、着物を着ることで、開放してあげられるような、そういうサークルを作りたい。そういう思いで私は、この教室をはじめました。」
「そうでしょうか。あなたのしていることは、着物を悪い方へ持っていくための、悪戯に過ぎないわ。着物も、箏曲もちゃんと古典を弾いて、ずる賢い事をしないで、正当なものをやっていくのが、一番正しいやり方よ。」
暢子さんは重子さんに言った。
「そうかな?」
と、杉ちゃんが割って入った。
「お前さんだって、一度は変な曲作って、お琴をだめにしようとしたじゃないか。お前さんの演奏を聞かせてもらったが、すごいひどいものだった。まるでジャイアンのコンサートを聞かされているみたいだったよ。」
「ええそうよ。でも私は、そういう事をやって気がついたのよ。古典こそ、お琴を守るために必要なものだって。だからこそ、こういうずるいやり方をしている人は、手当たりしだいに見つけて、退治しなければならないの。そういう邪道的なやり方をする人がいるからこそ、着物の正しい着方などが身につかないのよ。お琴も同じことよ!古典こそ、お琴で一番必要なことだって、私は気がついたの。」
暢子さんは、杉ちゃんに言った。
「そうかなあ。でも、もう時代も変わっちまったからね。もう古典箏曲を面白いというやつは、いないんじゃないかな。着物も同じことだ。もう昔ながらのやり方は、とっくに途絶えちまってる。それは、もう仕方ないことだから、それに対してどうするのか、を考えたほうが良いと思うよ。その1つとして、重子さんのような人が、出てくるんじゃないのかな。まあ、途絶えちまった着物をなんとか存続させるために、重子さんはこういう形でやっているんだ、それくらいの気持ちで思ってれば良いんじゃないの?」
暢子さんを恐れず、対等に話せるのは、杉ちゃんだけであった。こういうときに杉ちゃんという人は、誰でも関係なく言いたいことを言ってしまう。他の人達は、暢子さんの剣幕に驚いて、何も言えなかった。
「まあ、お前さんが、古典にこだわりたいって言うんだったら、お前さんなりのコミュニティを作って、お前さんの世界でやっていけばそれで良いのさ。今どき、そういう組織に集まるのは、金持ちの年寄しかいないと思うけど。こういう柘植さんや栂安さんのような、着物を学びたくても学べない人は、二度とそういうグループに入れないだろうね。」
杉ちゃんは、暢子さんに態度すら変えずにでかい声で言った。
「それで良いんだよ。まあ、日本の伝統っていうのは、敗戦を期に一度ぶっ壊されている分野だからさ。それを取り戻すのは大変だぞ。だから、いろんなやり方が出ちゃうんだよ。それを認めないで喧嘩しているのもどうかと思うけどね。」
「杉ちゃんありがとう。」
重子さんが小さな声で言った。
「暢子さん。今日のところは帰ってください。」
「そうそう。高級路線を行きたいやつはこういう気軽な会には、絶対共感できないさ。とっととかえんな!」
杉ちゃんに言われて、暢子さんは、覚えていろという顔をして部屋を出ていった。
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