第44話 just a moment

 時間は誰も裏切ることなく、平等にするすると流れていく。

 それはちょっと止めておくこともできないし、先送りもできない。

 ただ慣性の法則に身を任せるように季節が移り変わるのを見ていることしかできない。

 時間とともに、日常も消費されていく。

 特別なその一日を待つための時間を引き延ばしてはくれない。

 僕らはその時に備えることしかできないんだ。


 春が、やってくる。

 風とともに。


 ハルの卒業式が終わるとスミレちゃんは弾かれるように引っ越し先の準備に行ってしまった。

 その間、一人になったハルは当たり前のこととして、うちにいる。

 おじゃまします、と幾つも大きな荷物を持ってうちに現れた。

「なに入ってるの、それ?」

 ゴソゴソとカバンの中からハルは大きなものを引きずり出す。無理やり引っ張るのでこっちが心配する。まったくなにを。

「シロクマ。いないと寝られないもん」

 そう言ったハルの視界の中に、お揃いのぬいぐるみがあるはずだ。

 子供の頃に買った、なんてことないぬいぐるみ。

 今では僕の部屋でもまるで主人のような顔をして偉そうに寛いでいる。

「名前はアキなんだよ。だからムカついた時は八つ当たりする」

「なんだよ、それ」

「それが八つ当たりってもんでしょう?」

 僕のシロクマの隣に自分のシロクマを並べる。「お久しぶり」なんて言って。


 迷う気持ちはあった。

 でも任されたことはやり遂げなければいけない。

 僕は本棚に入れてあった、少しカラフルな袋を取り出した。

「ハル、これ」

「なになに、餞別? まだちょっと早くない?」

「違うんだ。頼まれて、オジサンから」

「······」

 本の包みを手にしたハルは、外からは覗くことができないのに、その袋をずっと見ていた。

 両手でしっかりと持って。

「こんなんだからさ、パパは。ママに愛想を尽かされるんだよ。勇気がないんだもん」

 ガサガサと袋から本を取り出すと、赤い帯には『いつか、どこかの空を』と書いてあった。

 ハルは表紙をじっくり眺めて、中を見ようとして気が付く。付箋の貼ってあるページに。

 僕は隣で見ていた。

 オジサンがハルに届けたかったものを。

 ハルがそれを受け取る瞬間を見るのもまた僕の役目なんだ。


 ――そのページには、真っ青なスクリーンのような青空に、桜の花びらが風で舞い上がる写真があった。


 そして、付箋とは別の紙に『千遥へ。望む通りに行きたいところへどこまでも飛んでいきなさい』と書いてあった。


 ハルが写真を見始めて何分になるだろう?

 ぽつり、と言葉が落ちた。

「パパはなにもわかってない。わたしはそんな翼は持ってないし、それにどこにも行きたくない。みんなで一緒にいたいだけなのに」

 千遥、と名付けたのはオジサンだ。

 オジサンからのハルへの最初のプレゼントはその名前だった。

 ハルだってそのことはわかっていた。

 舞い散る桜を見て、ハルはなにを思ったのか、それは僕にもわからなかった。

 ただ、行き場のない右手を、彼女の頭に乗せた。

 彼女は僕の肩に頭を乗せて、体重を任せた。


 温もり。

 それはこれから失われるもの。

 ちょっとやそっとじゃ手に入れられなくなるもの――。

 そう思うと悲しくなった。

 肩に彼女を抱く僕の方が涙が出そうだった。



 ハルの旅立ちの日はハルらしい快晴で、桜の花も合わせたかのように満開だった。

 窓を開けると桜の匂いが漂う、そんな日だった。

「じゃあ、行ってくるね」と最後の荷物を持ち上げてハルは立ち上がった。

 えもしれない感情が、心の奥底から湧き上がるのを感じる。ハルの目も、同じことを語っていた。

 僕はハルの体をそっと寄せて、そのやわらかさを忘れないために唇を重ねた。

 ハルの唇は一瞬、引き締まったけど、そのやわらかさを取り戻すのにそう時間はかからなかった。


 一度目、挨拶代わりに。

 二度目、愛情を交換するように。

 三度目、お互いを忘れないように――。


「待たね」

 ハルは意地を張って満面の笑顔を見せた。

 それは深い意味のある言葉で、ただの挨拶じゃない。

 僕たちは言葉の力を借りて、約束を強く結ぶ。

 その後、一瞬、視線を合わせてから部屋を出た。

 シロクマは置いていかれた。シロクマまで引き裂かれたらかわいそう、とハルは言った。

 代わりのぬいぐるみをあげようと思って、提案したけれど丁重に断られた。

「欲しいのはアキで、アキの代わりじゃない」

 確かにそうかもしれない。

 なにものも、ハルの代わりにはなれないから。


 光の中へ飛び出す。

 目の奥が痛い。

 穏やかなはずの光も、暗闇から出てきたその時は瞳に刺さるようだ。

 涙が滲む。

 母さんが「車出すわよ」と運転席から声をかける。スミレちゃんは助手席に乗っている。


 僕は昨晩、母さんにハルを駅まで送らない、と告げた。

 母さんは向かいの席に僕を座らせて、コーヒーを淹れた。

 ハルは荷造りが終わらなくて席を外していた。

「別にこれが最後になるわけじゃないと思うの」

 カップにお湯を注ぎながら母さんが言う。

「スミレとわたしが離れることになった時も、別れはあっさりしたものだったの。だってまた会えるに決まってるもの。でもね、そういう理屈みたいなものは置いておいて、ハルは寂しいんじゃない?」

「······かもしれない」

「駅までなんて車で数分だし、わたしは車があるから待ってるけど、アキが荷物を改札口まで持って行ってあげればいいじゃない。あらかた重いものは宅配便で送っちゃったから、どうしてもじゃないけど。でもわたしがハルだったら、そうされたいな。

 あなたたちの頃って、一日がめちゃくちゃ長いじゃない? 離れてるその一日一日の降り積もりを考えてご覧。一日千秋でも万秋でも、とにかくそれは長い長い別れだと感じるはずよ」


 ピンと来なかった。

 どんなに離れても、心は通じているし、線路は僕の街と彼女の街を結ぶ。

 そんな考え方じゃ甘いんだろうか?

「離れてみてわかると思う。でもその時、後悔しても遅いのよ」

 見送るのが怖かった。

 彼女を遠くの街に運ぶ列車を見るのが怖かった。

 僕は。

「僕は――」

 本当のことを言うと、手を引いてあの日のようにどこかへハルを攫ってしまいたくて。

「すきって、素敵ね」

 サクラさーん、と二階から母さんを呼ぶ声がする。母さんは「よっこいしょ」と見た目に合わない声を出した。


「じゃあ、お世話になりました」

「いいんだよ、いつでも遊びにおいで。サクラの娘同然なんだ。僕にとっても同じだよ」

「ありがとう、オジサン。じゃあ気兼ねなく遊びに来るから」

 ハルと父さんは握手をした。ふたりともニッコリ笑って、とてもいい風景だった。

「アキ」

「駅まで行かなくてごめん」

「いいんだよ、そんなことは。話したいことは全部話したし」

 顔が上げられない。ハルの動く姿を足元だけ見ていた。その足は迷わず、後部座席に乗ってドアは閉まった。

 ハッとする。

 後悔は先に立たないのに――。


「サヨナラ、アキ」


 顔を上げる。

 両目からポタポタと嘘みたいに涙がこぼれ落ちて、止めることができない。

 アキ、なにか言いなさいよ、と母さんが大声を出す。スミレちゃんは、こっちにも会いに来て、と言った。

 ハルは僕にニッと笑うと正面を向いて「出して下さい」と言った。

 母さんは躊躇していたけど、ハルはもう僕の方を見なかった。車はスムーズに速度を上げて、少し先の信号を右折した。

 父さんが肩を叩いて先に家に入る。

 僕は、そこにいたってもうハルが戻ることはないのを知っているのに、ただバカになったようにそこに立ち尽くしていた。


 吹き上げる風に乗って舞い上がる花びらが、まるでハルの門出を送るクラッカーのテープのように陽光にきらめいた。


(了)

『インディアンサマー[spring]』につづく

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インディアンサマー[autumn] 月波結 @musubi-me

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