下
数多の犠牲を出して雪山をのぼり続けた果てで、人々にとってこの霊峰の『神なる雲間の下』までたどりつくことは、『気の進まない任務』から『犠牲者の弔いのための使命』に変化していった。
魔物や魔族、人が誰かを殺したわけではなかった。ただ、雪山という大自然が彼らの生命を奪っていったのだ。
人というのは捨てたものじゃない。他者の命を背負ってやる気を出せるのだから。
尊い絆の力によってようやく霊峰をのぼり、その場所がはっきりと肉眼で捉えられるようになった時、人々はその土地が本当に神の奇跡によるものだと確信した。
深い吹雪の中にあって花が咲き乱れ、分厚い灰色の雲間から差し込む光がぽかぽかと照らしている。
雪中で凍えながら見ていると非現実的すぎて幻かと思う。幻でもいい。あそこにたどりつきさえすれば、凍傷で死んでいった部下たちが、雪山で滑落していった上司が、飢えで動かなくなった同僚が、報われるのだ。
魔王を殺す。
聖女を殺す。
すべての元凶である女神を殺す。
人というのは捨てたもんじゃない。他者の命を背負ってやる気を出せるのだから。
けれどそういう心の機能に反比例してあまりに非合理で、他者にとっては不条理だ。
ここまで来た彼らは、雪山の雪が深いのも、断崖絶壁が切り立っているのも、食糧がなくなったことさえ、女神による悪辣な攻撃だと思い込んでいた。
思い込まないとやっていられなかった。つらいことに挑むには明確な目的が必要で、その目的が『女神、魔王、聖女の殺害』になって、彼らの心を支えていたのだから。
「堕ちた女神を殺し、同胞の死に弔いを」
雪崩を恐れた小さな声。びょうびょうと吹き荒ぶ吹雪にかき消されそうな小声はしかし、仲間たちの耳にはっきりと届いた。
彼らの目は使命に燃えており、幾多の苦難を乗り越えた果て、人間も魔族もなく、一つの生命体のような連帯感が生まれていたのだ。
人はみな、主人公になれる。
誰かを仇敵に仕立て上げて。
ちょうどいいところに、悪役がいた。
つまりはたったそれだけの話。
◆
「食卓もずいぶん豪華になりましたね」
「なんでお母さんが胸を張っているのだ」
「まあ、いいじゃないか。彼女も料理とか、したよ。その……潰したり……」
テーブルは確かに古びて見えるのにその表面はいつもピカピカで、木製のような質感なのにささくれの一つもありはしない。
お父さんとお母さんが並べたのは鳥の丸焼きとつぶしたふかしイモ。あとは鳥の骨でダシをとった野菜のスープ。
ほかほかと湯気をあげるのは今日のお昼ご飯だ。大して世話もいらない畑なものだから、こうやって時間をかけてゆったり料理をすることができる。
変わり映えのない日々はもうずいぶん長いこと続いているような気がした。もしかしたら生まれた時からこうだったのかもしれないという気持ちさえわいてくる。
おかしな話だった。三人とも共通点がまったくないというのに、こんなにも家族になれるのだから。
「もう、どうしてあなたはそんなに、ほっぺたをパンパンにふくらませて物を食べるんですか」
聖女が微笑みながら女神の口元をぬぐった。
スプーンを逆手に持ってつぶれふかしイモをほおばるこの娘は、食事という行為がへたくそなのだ。
注意しても膝の上に乗せて手をとって実演させてみても、じれったそうにしてこの食べ方に戻ってしまう。
女神は虹色の瞳を細める。それはほとんど表情に変わりのないこの少女が、精一杯に『不機嫌』を表現した顔だった。
「別によいではないか。食べられているのだから、それで」
「けれどそのような食べ方では、お食事に失礼ですよ」
「イモは釜茹でにされたうえ無惨につぶされ、鳥は内臓を抜かれ火葬された。死んだ者は失礼などと感じぬ」
「作った人への礼儀です」
「私は神だ」
「そしてわたくしは、あなたのお母さんです」
「……ああ言えばこう言う」
「あなたこそ」
「つまり似た者同士なんだね……」
魔王の発言が少女二人の視線を集めた。
ひょろりと背の高い青年は「ごめんなさい」と体を小さく丸める。
「意義を感じぬことはできん」
女神はかたくなだった。
聖女と魔王は顔を見合わせて困った息をつく。
「……まあ、確かに、意義を感じないことをするのは難しい」
魔王は肩をすくめる。
聖女も微笑んで何か言葉を探したあとで、「そうですね」と仕方なさそうに肯定した。
肯定して、「けれど」と接続する。
「それがお父さんの料理なら、わたくしは礼節を尽くす意義を感じます」
「ああ、まあ、君が潰したイモなら、たしかに、そういう感じだ。残したりするのは、もったいなく思うかな」
「あなたはどうですか? 我々の仕事ぶりに対して、どう思います?」
聖女の桃色の瞳が向けられて、女神は「うー」とうなった。
「ずるい」
「『するい』と感じてくださるということは、あなたも、わたくしたちのことを好きでいてくれているんですね」
「そういう話題展開はよろしくない。これは神託である」
「神託なら仕方ないです。……まあ、マナーは守った方が単純に食べやすいと思うんですけど。『ずるい』と思ってくれただけで、よしとしましょうか。でもほっぺたがパンパンになるまで口に詰め込むのは、喉に詰まるかもしれないから危ないとは思いますよ」
「むう」
女神は逆手に持っていたスプーンを順手に持ち直す。
そして、肘をいっぱいに横に開いて、つぶれふかしイモをすくって、ぎこちなく口に運んだ。
イモが口に入り切らずにボロボロとテーブルにこぼれる。
女神はほっぺたをイモでいっぱいにしながら、テーブルに落ちたイモをじろりと見下ろした。
「落ちる」
「肘を動かしすぎです。もっと手首を使って」
「ごめん、一言いい?」
「はい?」
「なんだ?」
「そうしてると、本当に親子って感じがするんだ。なんとなくだけど」
魔王の中の『親子』は、このようになごやかなものではない。
だから、ここで彼が語った『親子』は、かつて聖女の中にあった、物語の知識……聖女の目指した『親子』だった。
「僕はどうかな、うまく『お父さん』をできてるだろうか」
すると、聖女も女神も首をひねってしまった。
「よくわかりません」
「よくわからん」
「いや本当にそっくりになってきたな君たち! ……僕はそっくりになれないや」
「三人ともそっくりである必要はないんじゃないでしょうか」
「そういうものなのかな」
「ええ。三人ともそっくりな親子は見たことがないです。だいたい、娘さんがいる家庭ではお父さんが非そっくりです」
「『非そっくり』……じゃあ、お父さんはどうやって家族だって証明すればいいんだろう」
「わたくしたちが『お父さん』と思っていれば、それでいいのでは?」
魔王はなんだかその発言にびっくりしてしまって、言葉も思考も止まってしまった。
「……そんなんでいいの?」
「ええ。きっとそんなんでよろしいのではないかと。ねぇ、この人はお父さんですよね」
「であるな。魔王というよりは、最近とみに、お父さんという感じだ」
「あなたは最近すごく娘さんという感じですもんね」
「私は神だ」
「じゃあ神様にお肉をとりわけますね」
「うむ」
魔王は笑って見ていた。
そして、やっぱり、思う。
『お母さんと娘さん』だと。
そう思えばそうなるなら、自分はこの二人が親子であることを間違いなくそう思う。
家族ごっこは、それを真実だと思えば、真実になる。
他に何もいらない、楽園での穏やかな日々。
◆
この陽だまりの中で、きっと生涯を終えるのだろう。
それは三人全員が言葉にせず、心の中でさえはっきりと意識せず、なんとなく感じていることだった。
ここはあまりにも世界と隔絶していた。ここもまた世界の一部であることを忘れそうなほどに。
魔王は王であり、聖女は人類の希望であり、女神なんかは、そのまま、神だ。
きっとこれら立場にある自分たちは『未来』のことも考えないといけないんだろうなあとはみんな思っていた。思っていたけれど、『そういえばそうだなあ』なんていう、気楽な気持ちだった。
このままでは神に見放された世界はきっと滅ぶのだろう。
この楽園さえ永遠ではない。いずれは雪に閉ざされる。花は枯れ、作物は凍え、三人で過ごした家も朽ち果てるのだろう。
それは自分たちが一生を過ごしたあとの話。
逆に言えば、この神の恩寵を受けた場所でさえも『自分たちの一生』のぶんしかもたない。
世界の他の場所は、もっと早く、なんらかのよくない影響が出るんだろうなあ、なんて。わざわざそんな質問を女神にしたりはしないけれど、魔王も聖女も思っていた。
そのうえで、どうでもよかった。
身勝手だと怒られるだろうか。惰弱だと責められるだろうか。
この『家族ごっこ』を始めてみて、仲間というのがいかに大事かがわかった。仲間のために命を懸けて自分という存在のすべてを費やし、そうして生まれたリソースを仲間の仲間のために、あるいは仲間の子孫のために使って、どうにかこうにか『未来』を切り開いていく━━そういうのがきっと、『絆の力』なのだろう。
だからこそ、すべて、どうでもいい。
ここにいる三人には、ここにしか仲間がいない。
大事な人がこの楽園にすべていて、このあとには誰もいない。
世界は自分たちに尽くさせようとしたけれど、世界が自分たちのためにいったい何をしてくれたというのか。目を閉じて過去を振り返っても、ここにいる人以外には、誰一人として『死んでほしくない人』を思いつくことができない人生。それはちょっと、『神に見放された世界を救おう』という目標を叶えようと奮戦するには足りない。
たぶん、どうしようもないなあ、なんて。
そう思いながら、魔王は作物の世話をして陽光を見上げる。
家の前の庭では聖女と女神が追いかけっこをしている。
女神が逃げる。聖女が抱きしめる。また女神が逃げる。その繰り返し。ルールも何もあったもんじゃない『遊び』未満の、ただ笑い声が上がるだけの睦みあいだった。
また聖女が女神をつかまえて、女神が逃げ出して。
女神がぱたんと倒れて、聖女が慌てて近寄っていく。
石にでもつまづいてしまったのだろうか。
まあ、聖女がいる限り大きな怪我もないとは思うけれど、それでも痛いものは痛い。野菜を抜くのをやめて、白い手に黒土をまみれさせたまま、強引にズボンで拭いながら早足で転んだ女神のもとへと向かった。
先にたどりついた聖女が女神のそばにしゃがみこんで、その小さな体を膝の上に乗せた。
「どうしました?」なんて頭を撫でて、その手にはすでに桃色の力がまとわれている。骨が折れてもどれほど血が流れても、欠損だって治してしまうその力。
その力が、ふっと、消えた。
遅れて近寄った魔王は笑いながら「どうしたんだい?」とたずねる。聖女が力を切った。だったら治療は終わっている。実際に目にしたわけではないけれど、そういうものだという知識はある。
だからいつまでも女神を膝の上に乗せたまま固まっている彼女のそばに来て、彼女が困ったように、笑う以外にどうしたらいいかわからないみたいに見上げてくるので、もう一度「どうしたんたい?」と問いかけた。
「あの、おかしいんです。あの、力が、えっと」
「出ない?」
「いえ。あの」
信じられない事態に直面して混乱している様子だった。
魔王は聖女の横にしゃがみこんで、彼女の肩に手を置き、「ゆっくりでいいよ」と述べてから、聖女の背に隠れて見えなかった女神の様子に目をやった。
あおむけで膝の上に乗せられている小さな彼女は、その胸に矢を突き立てたまま、ぐったりしていた。
そこからの自分の動きはどこか、他人事のようだった。
ゆったりした動作で立ち上がりながら、高速で魔力を練っていく。
あっというまに自分たちを囲む半円状の結界が幾重にも形成されてから、『そうか、自分は敵襲を感じ取ったのか』だなんて遅れて気づくぐらいだった。
ちょうど結界の形成が終わった一瞬あと、陽だまりの外から矢がたくさん射かけられた。
すべてが結界に弾かれて、短い草の生えた地面に、収穫したばかりの作物に、陽だまりの中の小さな世界に、戦争の景色をもたらした。
「魔王、聖女、覚悟!」
四方から武装した人たちが襲い来る。
聖女は幾度も桃色の力を発して、女神の治療を試みている。
魔王はまだその意識が現実に追いついていない。
けれど体は自然と動いていた。
━━彼は生き物を殺したことがない。
争いというものが苦手なのだ。その昔、自分が発生したばかりのころ、非常に低位の、人間の子供でさえも倒せるような魔物の相手をさせられたことがある。
それはいわゆる『戦い』の手腕を見ようというものではなかった。今代の魔王がどれほど絶望的な破壊を撒き散らせるのか、実際に生き物を使ってその威力試しをしようというものだった。
魔物はまだ産まれたばかりのオオカミだった。ただの獣が魔族の魔力にあてられて凶暴になり強くなり魔物となる。そして魔物同士の子は産まれた時から魔物である。そういう事情で産まれた二世以降の魔物。ほんの小さな、ふわふわした四つ足の生き物。
殺せなかった。
なぜ命を奪わないといけないのかわからない。なぜ、王としての威を示すのにあんないたいけなものを殺さねばならないのかわからない。
だから拒否した。
けれど『なぜ殺さないのか』と見守る魔族諸侯には言われた。
『なぜ殺さないのか』!? なぜ『殺す』ことに理由がいらないくせに、『殺さない』ことに理由がいるのか!
理解が及ばない。では、この魔王の力がお前たちに向いた時、お前たちは黙って受け入れるというのか?
試してみようか、と魔王は思った。
一方で、魔王は彼らの死を背負いたくなかった。こんな連中、こんな、弱い生き物を引きずり出して、その死を願う、なんの共感も理解もできない連中の命など、背負いたくはなかった。
だから、オオカミを抱き上げて、こう宣言したのだ。
『戦争を終わらせよう。人類と共存共栄を目指そう』
『何かを殺すことに理由がいらない世界を終わらせたい』
嘲笑と罵倒があった。
そして魔族四公がうち一人は、口元に酷薄な笑みを浮かべたまま、こう言った。
『よろしいでしょう』
そして、腕の中でオオカミが爆ぜた。
四公がうち一人『不死公』は、すでにオオカミに血を仕込んでいたのだろう。それは万が一魔王が殺されかけた時のための措置だったのかもしれないけれど、腕の中から安心しきったぬくもりを消し去ることに使われた。
それでも魔王は冷めた気持ちだったのだ。
血まみれにされながらも、無常を噛み締めるだけだった。爆ぜて死んだオオカミを『かわいそうに』と思った。けれど、報復しようなんていうまねはしなかった。そこまで入れ込んではいなかった。
だから、今、魔王自身がおどろいている。
「【王権を以て命ずる】」
襲撃者の中に魔族がいることを見てとった。
人の軍勢とまるで深い絆で結ばれた兄弟のように肩を並べて、剣をかついでこちらに攻め寄せる魔族を見た。
どうして、お前たちが協力しているんだ?
お前たちは人との和平などという惰弱なことはできないのではなかったのか?
どうして、あの時、否決したというのに。
どうして今、そうやって肩を並べて━━
この子を、殺した?
「【
誰にとっても想定外。
あの惰弱な魔王が、無差別に命を奪うような王命を発するなどと想像できる者は、この世に一人もいなかった。魔王自身さえ、ふくめて。
口をついて命令が出たあと、右目がばちゅんと爆ぜた。
涙のように血を垂らしながら、頭が弾けて消えた魔族たちを、残った左目でながめる。
なんの感情も起こらなかった。
ひたすら虚しくて、こんなモノの血がそのあたりにあるのを汚いと思うだけだった。
「魔王ォォォォ!」
唐突なことにおどろいたのだろう、生き残った人間の兵たちは、足を止めてしまっていた。
それでも感情は止まらないようで、怒りと憎悪に満ちた目が、周囲から魔王に突き刺さっていた。
魔王は率直な感想を述べる。
「理解ができない。今、死んだのは魔族だ。お前たちが長い間争っていた仇敵だ。和平締結を否決し、お前たちを惰弱とののしり、皆殺しにすると息巻いていた連中だ。だというのに、お前たちは怒るのか」
「それでもっ……! 種族が違っても! そいつらは、ともに困難に立ち向かった仲間だった! 一つの目的を持って肩を並べ、苦境を越えた仲間だったんだ!」
「それで、お前たちは仲間のような顔をするのか」
「そうだ!」
「仲間が殺されたことに怒り、僕たちに剣を向け続けるのか」
「そうだ!!」
「なるほど」
魔王はつぶやき、
「では、『それ』を僕がやってもいいんだな」
ぐしゃり、と応答していた兵が潰れた。
まるで頭上から巨人の足でも振り下ろされたような死に様だった。
暖かな陽だまりの中の空気が凍りつく。
魔王は右目があった場所から血をこぼし、淡々と問う。
「
歩いていく。
固まって足を止めている兵のそばまで行き、その肩に手を乗せる。
「
「あ、いや」
返事が来ない。
魔王は言葉をしゃべれない『それ』を潰して、次の者に同じ問いを投げた。
けれど魔王の問いに答える者は現れなかった。
最後の一人が地面のシミになるまで、現れなかったのだ。
「……聖女」
呼びかける。
聖女はまだ女神を膝の上に抱いたまま、回復を試みていた。
けれど、できなかった。彼女の力でもできなかった。
死者をよみがえらせることはできない。
「僕は、『魔王』かな」
聖女は力を込めていた手をぱたりと落として、彼を見上げて、言った。
「この子を弔いましょう、お父さん」
「……ああ、そうしよう。お母さん」
楽園は血を嫌がるように縮まり、ほんの少しだけ狭くなっていた。
だというのに、こんなにも広く思えるのは、なぜなのだろう。
◆
人の社会に少しずつ入ってきていた魔族たちが、唐突に死んだ。
ある者は会話中に、またある者は歩行中に……
食事をし、眠り、愛をささやいている、その最中に、唐突に頭が弾けて死んだ。
『
その王命は魔族の悉くを殺し尽くした。上は四公から下は木端魔族まで。
ただしその現象が『魔族だけが死んだもの』だとわかるのには数週間の時間を必要とした。
最初、人類はこれを『攻撃』だと思った。そもそも【王権】なんていうものは秘されていて知らなかったから、次に頭が弾けるのは自分かもしれないとたいそうおびえた。
そうやって調査していく中で『魔物・魔獣は生きているけれど、魔族ばかりが大量に死んだらしい』ということがわかってきて……
「連中は女神様の怒りに触れたのだ」
そういうことになった。
まさか魔王に『命さえも自由にできるほどの命令権』があるとは思えなかったし、思えたとしたって魔王がわざわざ自分に仕える者たちを皆殺しにする理由があるはずがないと考えたのだ。
だからこれは女神の加護になり、人々は自分たちが神に愛された種族だと改めて信じた。
魔族どもの姿がすっかりなくなって、飛び散った肉の掃除も終わるころ、人類は盛大にこの『勝利』を祝い、女神に信仰を捧げ、お祭りを始めた。
そのお祭りが終わったあと、誰かが首脳につぶやいた。
「そういえば、聖女と魔王を探しに行かせた部隊が帰還しておりませぬな」
「あの深く険しい雪山のどこかで全滅してしまったのだろう」
もはや人を害する魔族はおらず、戦争は終わったのだ。
今さら、あんな厳しい場所に人をやってまで、生きてるか死んでるかもわからない聖女を探す理由など思いつかなかった。
だから『神なる雲の切れ間の下』へと向かった部隊は、全員が戦死とされて、その最期に何があったかを確かめようという者もいなかった。
◆
「僕らは神をどうやって弔えばいいのだろう。魔族には死者を弔う風習はない。ただ燃やしてしまうだけだ」
「わたくしの知る方法は、祈りを捧げ、地に埋葬するというものです。埋められた死者は世界の一部になり、また新たな生命として循環すると言われています」
「神に仕える君たちがその方法をとるならば、そちらの方がいいのだろう」
女神のなきがらは埋められることになった。
胸に突き刺さっていた矢は抜かれ、穴の空いた衣服は綺麗なものに替えられた。
美しい虹色の瞳は閉じられて、二度と開かれることはない。
魔王はその魔法で穴を掘ることもできたけれど、聖女と二人、道具を使って穴を掘った。
その作業もまた弔いのための儀式だと思ったからだ。
「僕らはなんのために死者を弔うのだろう」
夕暮れ時が差し迫って長い影が足元には伸びている。
二人で汗水垂らしながら掘った穴はすでに充分な深さと広さがあって、けれど、二人はその穴の横に女神を置いたまま、そこから作業を進めることができないで立ち尽くしていた。
こんな、小さな穴におさまりきってしまう体。
聖女によって傷をふさがれた少女はただ眠っているだけのようだった。そのうち目覚めるのかなと思ってしまう。聖女もだから癒しの力を向けてみるけれど、やはり少女のなきがらへ向けられた力はすうっと消え失せてしまって、なんの作用ももたらさなかった。
「弔われた死者は喜ぶのだろうか」
魔王はつぶやいていた。
それは沈黙に耐えきれない彼の心があげる悲鳴だ。
聖女は答えない。
ただ、横たわる少女に癒しの力を向け続ける。
「……区切り」
ぼそりというかすれた声は、誰のものなのか。
それが聖女のものだと気付くのに、しばしの時間が必要だった。
「あきらめきれないものを、あきらめるために、きっとこうして、儀式をするのでしょうね」
聖女はつぶやいて、魔王を見た。
お父さんは、お母さんを見た。
「死者はどう思うのかな」
「死者は何も思わないのでしょう」
「それでは、死者のためにできることはないのかな」
「死者は何も感じないのでしょう」
「弔いは、生きている僕らのためだけのものなのか」
女神が死んだとわかった直後、心と思考が切り離された。
『
自分の心はなぜ、あんなにも残酷に人の命を奪ったのだろう。
それはきっと……
「……僕は、あいつらが生きていることが我慢できなかったんだな。だからあの
「区切りはつきましたか?」
「うん、きっと、今の君よりは」
あれは報復ではなかった。
たとえそうだったとして、報復に相当されるあの行為のあとには、何も感じなかった。気持ちよくもない。ただ、面倒な死に方をしてくれて、この庭が汚れてしまったなと、嫌な気持ちになっただけだ。
けれど……
「僕はあれで、この子のためにできることをやったような気になれた。君は……どうかな。君はもう、できる限りをやったように思うけれど」
「……わたくしが、何をしてあげられたというのですか。癒しの力も役立たなかった、このわたくしが」
「抱きしめて、癒そうとしてあげた。僕の行動はすぐに『切り替えた』ものだった。この子の死を前提とした敵の殲滅だった。けれど君は、その子の生存の可能性に今もすがっている」
「……それは、『できる限り』をやったことになるのですか?」
「もしも奇跡が起こってその子が息を吹き返したなら、きっと、君の行為のお陰だっただろう」
「けれど、生き返らない」
「結果はそうだ。それでも、神の生命はわからない。だから君があきらめなかったことがその子のためになる運命だってあったかもしれない。あの時点では……早々に切り替えるのが『できる限り』とは限らなかった。……っていうのは、詭弁かな」
「……」
「僕が君の『お母さん』を保証するよ。君は娘のためによくやったって、保証する」
そこでようやく、聖女は微笑んだ。
「あなたに保証されたなら、きっと、言う通りなんだと思います」
「そうか。よかった」
「…………『区切り』をつけましょう」
「……そうだね。そうしよう」
穴の中にそっとなきがらを横たえる。
無言で静かに、いたわるように、寒い夜に毛布でもかけるように、土をかぶせていく。
足から順番に。
腰、腹、胸。
顔に土をかぶせる時にちょっとだけ止まった。「僕がやろうか」と魔王が言う。聖女は黙って、土をかけた。だからあとは、二人でやった。
すっかり埋まってしまうと、またその前で立ち尽くした。
そうして二人、顔を見合わせて、笑った。見つめる相手に安らいでほしくて、笑った。
魔王が最初に口を開いた。
「さて、ここからどうしようか」
聖女は一瞬泣きそうな顔になったけれど、奥歯を食いしばった。
「その場のノリで全部捨てちゃいましたからね。どうしましょう」
「……君がよければ、もう少し、お母さんを続けてみないかな」
「あなたがお父さんを続けるなら」
「うん、そうしよう。ただ暮らそう。家族で。この子のそばで。君がそれでいいなら、そうしてほしい」
「それ以上のことなんか、思いつきませんよ」
世界の果て。雲の切れ間の下。楽園で家族ごっこが再び始まる。
陽だまり、狭い畑。鳥たちのさえずりに古びた家。
来た時とほとんど変わらないその場所に、新しい施設が一つ。
『我らの娘、ここに眠る』
それを神とは記さない。
だって彼女は、娘だったのだから。
◆
外敵を失った人々はしばらく平和に暮らしたけれど、そのうちに仕事を失った兵たちや、家族を失った者たちの不満が国へと向かった。
聖女を放逐した無能な首脳どもに反旗をひるがえした人々によって国は滅び、思いつく限りの苦しみを味わわされて首脳たちは死んでいった。
そうしてできあがった国は最初こそまとまったけれど、次第に意見がわかれ、一つの国ではなくなっていった。
争い、食い合い、分裂し、人は増えていく。
世界は次第に広くなっていき、数百年もしたあと、北方の雪深い霊峰もついに人の勢力圏がそのふもとまで及ぶようになった。
しかし、その山にはもう、人が目指すほどの理由はない。
その山は、今。
◆
彼らの陽だまりはもう、雪に閉ざされてしまった。
花も野菜もあの家も、すべてすべて、重苦しい灰色の雲の下に。
ひっそりと生きていた夫婦ももういない。彼らは娘の横で眠りについている。
墓穴は二つ。すでに朽ちて読み取れない墓標は、いったいどちらの手によるものか。
その世界はすでに神の視線の外にあり、加護は消え失せていた。
けれど、神はたまたま、視界の端で虹色にきらめくものを見つけて、この場所に降り立った。
神が降臨する時に灰色の雲はひとりでに道を開け、地表を閉ざしていた雪はみずから覆い隠していた場所をつまびらかにした。
美しい虹色の瞳を持つ女神が見れば、そこにはありし日のその場所の光景が映る。
家族を知らない、種族も違う三人の家族ごっこ。
なんの変哲もない日々がただひたすらに続き、そうしてゆっくりと終わっていく。
「なるほど」
降り立った存在は納得した。
この世界に見えた虹色のきらめきの理由がわかったからだ。
それは神格のきらめきだった。
人々から祈りを捧げられ、神としての格を備えた者のきらめき……
死した『娘』は、『両親』から毎日、祈りを捧げられていた。
その安らかな眠りを願われていた。
欠かさず続けられたその礼拝は、『娘』に一柱の神としての格を与えたのだ。
降り立った存在は問いかける。
「この世界はあなたのものです。その威をもって、好きに振る舞う権利があなたにはある。あなたを分けた身として、その力の奮い方ぐらいは教えましょう。さあ、この世界をどうします?」
しばらく、びょうびょうと豪雪が吹き付ける音だけが響き続ける。
降り立った存在は、美しい顔に微笑を浮かべた。
「……欲のない子。止めるわけがないでしょう。あなたがあなたの力で叶える、あなたの願いなのだから」
存在が消え、あたりはまた雪に閉ざされる。
そうして……
また、月日が流れた。
◆
たとえば穏やかな田舎村に、おっとりしているけれど時々すごいことを言うお母さんと、気弱だけれどやる時はやるお父さんと、生意気盛りでちょっとだけ小賢しいけれどとてもかわいい娘さんがいたとして、それを『奇跡』だと思う人はいないだろう。
そういう家族なんかどこにでもありふれている。
そんなものが神の願いと権能によって生み出されたなどと言われても多くの人は反応に困る。
そもそも、本人たちだって、自分たちが望まれてそうなったなどとは知らない。
ただ出会った瞬間に懐かしくて、そのまま結婚してかわいい娘が産まれたと、そんな程度の話でしかない。
欲のない子、と誰かが言った。
けれど、本当にそうだろうか、と『娘』は思っていた。
望んだように生まれて、望んだように幸福を得る。
これのどこが『欲のないこと』だというのだろう。
奇跡の果て、楽園での祈りの果て、なんの変哲もない人生がここにある。
王はおらず、聖女もおらず、神でさえなく、ただの家族として彼らはあった。
これが家族ごっこの終わり。
夕暮れ時だ。遊びは終わって、家に帰ろう。
お父さんとお母さんが、そこにいるから。
魔王と聖女と女神の家族ごっこ 稲荷竜 @Ryu_Inari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます