短編・それは幼き日の無邪気

@murasaki-yoka

それは幼き日の無邪気


「そうだ、耀仁様。千景の子どもの頃の話をして下さい!」


 遥仁の予想だにしなかった一言に、千景は口に含んでいた小吸い物を吹き出した。

 場所は御所の一角である客間。七年振りに京を訪れ、耀仁と撫子らと食事を共にしていた時のことだった。


 耀仁は思い出したようにぽん、と手を打った。

「ああ、そうだね。うん、いいよ」

「千景様の……ですか?」

 撫子が不思議そうな表情を浮かべて、千景の方を見やる。


 もはや止めても無駄だとわかっている千景は、この場にいる全ての視線を振り切り、壁の花と決め込んだ。

 千景がこのような態度をとるには明確な訳があるのであるが、遥仁はそれを知らない。


 そして耀仁は悪気がないため、そのことに気付かない。

「あれは十年ぐらい前のことかなぁ…」

 耀仁は顎に手を当てて、話し始めた。



 当時七歳だった耀仁は、かねてより皇族を離脱してしまった自分と同い年の従兄弟に会いたいと思っていた。

 だが、千景自身はそれを知らないため、数度の交渉により耀仁は皇族の身分を隠すという条件付きで、会うことが許されたのである。


 供の者と橘家の屋敷に訪れた耀仁は、橘梨子と対面した。

「耀仁様。ようこそお越しくださいました」

「千景は?」

 肝心の千景の姿が見えないことに気付いた耀仁が尋ねると、梨子は申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「それが、とても人見知りが激しくて会う決心がつかないみたいで……」

「人見知り?」

「はい。千景は知らない人に会うのが苦手なのです」

「ふうん、せっかく来たのに」

「今一度声をかけて参りますので、どうぞお庭でも眺めてお待ち下さい」

 こくり、と耀仁は頷いた。


 橘家の庭はお世辞にも広いとはいえず、質素なものだった。

 だが、所々さりげなく季節の花が植わっており、丁寧に手入れされていることがわかった。


「あれ?」

 簀子から庭を眺めていた耀仁は首を傾げた。今、向こうの繁みが動いた気がする。

 耀仁はもっと近くで見たいとお付きの侍女に告げると、草履を持ってきてもらい、庭へと降り立った。


 花を見る振りをしながら、ゆっくりと繁みの方へと歩みを進める。

 そしてこれ以上、逃げられないほど近付いて繁みに手を伸ばした矢先。


 鳴き声と共に一匹の猫が飛び出てきた。

「なんだ、猫か」

 耀仁はそう呟くと、繁みの向こう側で誰かがほっと息をついた気配を感じた。


 耀仁はいたずら心を起こして、一度戻るふりをした。

 そして十分離れたかと思うと突然反転して走り寄り、繁みを思いきりのけた。


「どうしてそんな所にいるの?」

 繁みに隠れるように座っていたその子どもは、去って行ったと思った耀仁が突然姿を現したため、びくり、と大きく震えた。

 その姿を見て耀仁は驚いた。


 何故ならば、そこに居たのは淡い桃色の単に紅の帯に身を包んだ可憐な少女であったからだ。



 何とも言えない空気が客間を包んだ。

「え……それって……」

 撫子の怪訝な呟きに、千景は目を逸らしてズズッと吸い物をすすった。


「うん、すごく可愛かった頃の千景」

「千景が女装をしていたということか?」

 目を丸くしてこれ以上ないほど率直に尋ねる遥仁に、千景は嘘をつけなかった。

「ええ…まぁ……」

「でも当時の僕はそれが千景だってことに気が付かなくてね」



 かわいい子だなぁ、というのが第一印象だった。まるでお人形のようだった。


 その子は伏し目がちに視線をさ迷わせると、黙りこくってしまった。

「耀仁といいます。君は?」

 尋ねたが、返事は返って来なかった。さらに尋ねようとしたところ。

「耀仁様? どちらに行かれたのですか」

 侍女の声が響いて、耀仁も咄嗟に繁みの中へ隠れた。


 普段はあまり侍女を困らせるようなことをしない耀仁だが、外出して気持ちが高ぶっていたせいだろうか。くすくすと笑って、侍女の様子を伺っていた。

 千景は困惑の表情を浮かべていたが、さりとて逃げ出すこともなくそこに立ち尽くしていた。


 侍女が庭の方へ降り立つのを見て、耀仁は千景の手を掴んだ。

 いきなり手に触れられて凍りつく千景をものともせず、耀仁は千景と共に繁みの更に奥へと隠れながら進んだ。


「君、この家の子?」

 そう尋ねられた千景はようやく頷いた。

 それを受けて、耀仁は千景の妹かなと推測する。

 耀仁にも離れて暮らしているが妹がいるため、親近感が沸いた。


 やがて二人は奥の棟の敷地まで入り込んでいた。

 この子に千景のいる所まで案内してもらおうかな、と耀仁は考えていた。

 妹のこの子が誘えば千景も顔を出してくれるかもしれない。

 早速耀仁はお願いしようと口を開きかけた時。


「あれ、お前たちここで何やっているんだ」


 声のする方を向くと、老人が室内から簀子へと姿を現して二人を凝視していた。

「じい様……」

 ここでようやく千景が声を発した。耀仁の前で話したのはこれが初めてで、見かけに違わぬか細い声だった。

「あの、この方が誰かから隠れていて……」

「ほう。あなたが、耀仁様かね」

 橘家当主である千景の祖父は、まじまじと彼を見る。


「助けてあげて下さい……!」

 千景の先程よりも大きな声に、耀仁はどきりとした。

 真っ直ぐに祖父にお願いをする千景の横顔に、意外性を感じたのだ。

 そしてそれ以上に、自分のことを心配してくれていたのだとわかって、嬉しかった。


「そりゃ大変じゃ、こちらで匿って差し上げましょうぞ」

 誘われるがまま簀子に上がると、床の間に飾られた刀が目に入った。

「うわあ、格好いい刀!」

 紅い鞘に収められた細身の刀はすらりと美しく、耀仁は思わず声をあげた。


「ほう、耀仁様はこのような物に興味がありますか」

「はい! 父上からよく稽古をつけられているんです」

「わしも千景に教えておるのだがなぁ、ちっとも身に付きやせんのですよ」


 それを聞いて千景は俯いたが、耀仁はそれに気付いていない。

「どれ、もし良ければ太刀筋を見せてもらいたい。この年の頃はどれだけの力があるか確かめたいので、手合わせ願いませんか」

 千景の祖父たっての願いに耀仁は頷いた。


 ところで。この時、耀仁の脳裏に父の言葉が蘇った。

 耀仁は御所でも父と刀を交える時がある。女官などがいない、父と直に語り合える時間なので、耀仁はとてもその時間が好きだった。


『いいか、耀仁』

 帝という器から離れた、ほぼ素の状態に近い頼仁は幼い息子に剣術を教えつつ語りかけた。

『世の中には、男には避けては通れぬ戦いがある。それは伴侶となる女性をもらう時だ』

 何故そのような話になったのか、今となっては謎であるが、戦う時の心構えを教えたかったのだろうと推測するしかない。

『伴侶?』

 耀仁が首を傾げると、頼仁は滔々と続けた。


『お嫁さんのことだ。皇室は一般的ではないが、将来好いた者と一緒になりたければ、女性の家の家族と戦わなければならない。そして勝たなければ、お嫁さんにもらうことが出来ないんだ』


『父上も、戦ったのですか?』

 頼仁は大きく頷いた。

『ああ、戦ったぞ。相手は義兄で、それはそれは壮絶な戦いだった。だから耀仁もその時のために、強くならないといけないぞ』

 幼かった耀仁は父の言うことに素直に頷いた。

『わかりました』


 耀仁は袖をたすき掛けしてもらうと、千景が使用しているという竹刀を握った。

 草履を履いていると、ふと奥から声がした。

「父上様、耀仁様を知りませんか」

 梨子の切迫した声が聞こえる。

 耀仁と千景は慌てて簀子の下に隠れた。


 見付かってしまうのではないか、とはらはらしていると、千景は両手を不安げにぎゅっと握ってきた。

「さあて、知らんな」

 床の上からくぐもった声が聞こえる。

 約束通り、千景の祖父は知らない振りをしているようだ。


 隠れながら、耀仁は千景にこっそり声をかけた。

「あのね……」

 父との会話を頭の中で反芻する。

 千景と目が合うと、意を決して耀仁は言った。


「お祖父様に勝ったら、僕のお嫁さんになって下さい!」


「え……」

 突然の申し出に千景は目を丸くする。

 それを見て耀仁は思った。ああ、やっぱりもっと仲良くなりたいな、と。

 耀仁は竹刀を握りしめると、揚々と庭へと踏み出したのであった。



「もしかして、それがお兄様の初恋……?」

 撫子の恐る恐るといった指摘に、耀仁は初めて気付いたかのような表情を浮かべた。

「え? あー、そういうことになるね」

 あはは、と笑う耀仁とは対称的に撫子の笑みはひきつっていた。

 撫子は心の中で叫ぶ。父上、何て事を吹き込んで下さるのですか、と。


「耀仁様もかわいいですね。普通にそのようなことをためらいもなく、申されるなんて」

 遥仁は耀仁の純真さに笑みをこぼした。


 ちなみに耀仁から告白を受けた当の本人である千景は、いつの間にかこの場から姿を消している。

 耀仁はその後どうなったかを続けた。

「結局勝てなかった、というか見付かってしまってね」



「耀仁様!」

「千景さん!」

 侍女と梨子に見付かったのはほぼ同時だった。庭から回った侍女と、渡り廊下から発見した梨子が声をあげる。

「千景? どこ?」

 耀仁が目をぱちくりさせて周囲を見渡すと、千景と目が合った。

「まさか……」

 物言わぬ千景に梨子が代わって答える。


「紛らわしい格好で申し訳ございません。この子が千景でございます」


 晴天の霹靂。

 一拍以上の間を置いてから、耀仁は大声で驚愕の声をあげた。


 その後、耀仁は侍女から、千景は母からこっぴどく叱られた。

 叱られたはずなのだが、耀仁にはその間の記憶が無い。皆無なのである。

 どうやらよほどの衝撃を受けたようだ。


 衝撃が通り過ぎた後は共に手習いをしたり、楽器を鳴らしたり、それなりに仲良く過ごしたが。

 それ以来、耀仁は恋というものをしたことがない。

 幼き日の無邪気が、皇位継承に最も近い親王に精神的な何かを植え付けてしまったのであろう。



「橘千景、恐ろしい女子おなご……」

 撫子がひっそりと呟く。

「千景は男ですよ」

 わかっているとは思うのだが、遥仁は思わず訂正を入れずにはいられなかった。

 それにしてもこの話は一体誰が悪いのか、極めて判断がつきにくいところだ。


「あれぐらいの年の子は、区別もつきにくいから、今思うと仕方ないのだけどね」

「見てみたかったなあ……」

 遥仁は思わずぼやいた。

 遥仁は十歳以降の千景しか知らない。だからそんな幼い頃を知っている耀仁を少しだけ羨ましく思った。


 耀仁は微笑むと、視線を滑らせて簀子へと目をやった。

「さて、そろそろ帰ってきてもらおうか。大丈夫、その事でからかったりしないから」

 無防備な笑顔で悟らせないが、その実彼は千景が何を一番気にしているかわかっている。

「では、私が呼んで参ります」

 そう言うと、遥仁は御簾をくぐった。


 千景は簀子にいて、灯籠にぼんやりと照らされた庭を眺めていた。

「昔話が終わったぞ」

 千景は気まずそうな顔をする。

「お恥ずかしいかぎりです」

「でも一体何故千景は女装をしていたのだ」

 遥仁が首を傾げると、千景はあまり褒められた話ではないのですが、と切り出した。


「古い迷信で、女の格好をすれば強い子に育つと言われていたからですよ」

 生まれつき体の弱かった千景は成人することが難しいと言われていた。

 そこで橘梨子は、何とか千景が息災でいられるようにありとあらゆる策を講じたのだ。

「母はいたって大真面目で私もそれを疑っていませんでしたから」


「ならばそれがきちんと効いたのだな」

「え?」

 千景は目を瞬かせた。遥仁は自信を持って断言する。

「無事に今日まで生きられたではないか。千景の母上も喜んでいると思うぞ」

 千景はほろ苦い笑みを浮かべた。

「今でもすぐに体調を崩しますし、胸を張ってそうだとは言えませんが……もしそうならば、嬉しいです」


 灯籠に照らされた庭の草木が静かに揺れる。

 御所に訪れて緊張だけしかなかったが、耀仁の昔話を経て、二人はそれが少しだけほぐれ、いつもの様子に戻った気がした。

 遥仁は千景の袖を引いた。


「さあ、戻ろう。まだ料理も残っている」

「お待ち下さい。食べ過ぎは体に良くありませんよ」

「今でなければいつ食べるのだ。あんな豪勢な食事、今しか食べられぬぞ」

「確かにそうなのですが……」

 簀子に照らされていた二つの影が消える。


 二人は最後まで気が付かなかった。

 何故、親王である耀仁が華族の端くれである橘家へわざわざ訪れたのか、ということに。

 それはまだ千景が母の罪と己れの出生を知る前の、最後の夜の出来事であった。


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