3

『もはや己に勝ち目はあらず。そうとなれば憎き女子おなごを道連れに死するのみ』


「ひょっとしたら殺されているのか、と思っていた妹が無事だと知った安堵に出遅れてしまった。庭に飛び出した奴を追うと、既に奴は姿を消している。どこに行ったものかと庭を見渡せば、白い土壁に設えられた窓が開け放たれているのに気が付いた。覗き込めば中に床はなく、数段低いところに土間があるだけだ。そこに、と、汝の母と、そして奴がいた」


 慌てて飛び降りると、奴は咽喉を掻き切って息絶えたあと、奴に斬りつけられた汝の母は虫の息で、かすれる声で吾に訴えた。

兄者あにじゃ……すべて誤解じゃ』


「吾は何度も頷いた。わかっている、と妹に答えてやった。汝が慕ったのは己の夫だけだと、ちゃんとわかっているぞ、と答えてやった。妹が納得したかは判らない。息を引き取る間際に娘のほうを見て吾を見詰めた。それに吾は頷いた。そして妹は薄く微笑むと目を閉じ、それきり動かなくなった」


 吾は己の不明を恥じた。館に吾を訪ねる度に見せた奴の妹に向ける視線、そして妹が奴の前で見せる仕種しぐさ、それだけを信じてめあわせた結果がこれだ。


「汝は傍らで、その一部始終を見ていた。己の父によって幽閉された母、そして父によって殺された母親を……壁には汝の言うとおり、爪で掻いたあとがあった。キリキリという音はその時、心に刻まれた音なのであろう」


 自ら命を絶った実の父は、おおやけには物のりつかれ罪のない者を殺めたため成敗され、その妻は驚きと悲しみのあまり自害したことになっていると言う。そしてそれから十余年が過ぎたのだ。


 その夜、やはり月は赤く、だが燃えるような赤味は消え始めていた。


 父者は長い話のあと、『汝を責めるものは誰もいはしない』と言い置いて部屋を後にした。上の兄者は、何か言いたげだったが、迷ったあげく『大事にしろ』とだけ言って部屋を辞した。それは、身体を大事にとも、もっと違う意味にもとれた。ははじゃだけはしばらく傍に寄り添い、吾が寝入るのを黙って見守っていてくれた。


 目覚めたのはどれほど眠ってからだろう。差し込む光は月が高く上がっていると教えている。


 予感に誘われて、吾は部屋の戸を開けて庭を見た。思ったとおりそこには地に座し、そして吾を見上げている涼しげな瞳があった。吾もまた、その瞳を見詰めた。全てが明かされたためなのか、もうあの、キリリと吾を責める音は聞こえない。思ってみればあの音は、後ろめたさが己を責める音だったのかもしれぬ。


「いつからそこに?」

「……母者が己の居室に戻ってからだ」


 吾が聞きたかったのはそんなことではなかった。上の兄者が言っていた、婚儀が決まってからうなされるようになった、と。ならば鷹目たかみは婚儀が決まる以前からここにこうしていることがあったのだろう。いったいそれはいつ頃からか、心惹かれたのはどちらが先か急に知りたくなったのだ。だが、そんなことはどうでもよいと思い直し、別のことを尋ねた。


「明後日までに月は色を戻すであろうか?」


 鷹目ははっと吾を見たが、すぐに視線を月に投げた。

「妻になってくれるのか?」

「……妻にしてはくれぬのか?」

ゆっくりと鷹目が吾に向き直った。


 月はさらに清らかな光を増したようである。



< 完 >

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