2

<キリリ……キリキリ……キリリ……>


 忙しなく何かを引っかく音がする。目の前に、血で染まった細い指が見える。半ば爪がはげ、それでもその指は白い壁をいている。


 誰? 不審に思って目をあけると、ぼんやりとしたしょくの光が見えた。だるさを感じる身体を起こすと足元に、立ってこちらを見ている男がいる。だらだらと血を流し、恨めしそうな目をしている。


父者ちちじゃか……?)

問いながら後退あとずさると、兄者のたくに手が触れ、チリリと音を鳴らした。途端に男の姿は消え去り、吾は目を覚ましていた。目の前に見えるのは暗い天井ばかりである。枕元を探ると棚においたはすの鐸が転がっていた。


<キリリ……キリキリ……>


 鐸を棚に戻すと、またあの音が聞こえてきた。その音は庭から聞こえているようだった。


 戸を開けて見ると篝火が焚かれた庭は明るく、それでも相変わらず赤く染まった月が空に望める。足元に動くものを目の端にとらえ、見下ろすと下の兄者が地に座してこちらを見上げていた。


「どうした?」

静かに問うてくる。


「……兄者は?」

「月を見ていた」

どちらからともなく視線を月に戻す。


「毎夜、うなされているのか?」

「……」

「昨夜も魘されていた……今宵もだ。悪い夢でも見るのか?」


「……先ほど誰かが言うのが聞こえた。物の怪とはなにぞ?」

が気にすることではない。それとも心当たりがあるのか?」


 ある、と答えたなら、この兄者はなんと思うだろう。他者には聞こえぬ妖しい音が聞こえ、まして先ほどこの世の者ならぬ姿を見たといえば、恐れいとい、吾を遠ざけるであろうか?


 答えぬ吾をチラリと盗み見、すぐに視線を月に戻すと兄者は言った。

「婚儀は四日後だな」

「……」

「汝が嫌と言えば父者も無理強いはせぬ。断るのならば今のうちだ」

「兄者は……兄者は嫌ではないのか?」

兄者が身動みじろぎを見せた。こちらを向きたい衝動を押さえたようだ。


「――二年程前になるかな、ほかの娘をめとれと言われた。吾は拒んだ」

 それは知っている。兄者はどうしても嫌だと言い張り、父親を呆れさせた。女子おなごなど嫌いじゃと、誰も娶らぬと自室に立てこもり、とうとうを通したのだ。


「それをどうして今度は飲んだ?」

 かすれる声で吾は問うた。キリキリと何かが胸を掻き始めている。

「さあな……」

兄者は月を見上げたまま呟いた。そして躊躇ためらいがちにこう続けた。

「相手が汝であったからだろうよ」


<キリリ……キリキリ……キリッ!>


 胸を掻きむしられる痛みに、知らずに声がもれる。キリキリと耳の奥にあの音が木霊する。


「やめよ、やめよ!」

「――?」

 耳を押さえるが音はますます大きくなる。


「やめよというに!」

「どうしたのだ?」

驚いて下の兄者が立ち上がる。手を差し延べながら吾の名を呼ぶ兄者の声に、女の『兄者!』と叫ぶ声が重なり響く。


「聞きとうない!」

空雅くうが?」


 身をよじり泣き叫ぶ吾、吾に拒まれ立ち尽くす兄者、館の奥から騒ぎを聞きつけた誰かがこちらに来る気配がした――




<キリリ……ガリガリ……キリリ……>

 薄暗い部屋の中で女が壁を掻いている。半ば爪がはがれた指は血に染まり、白い壁にも血の跡を残している。見上げると壁の上部に窓が見える。戸がない部屋の、そこだけが外部への出口のようだ。


 女が恨めしそうにその窓を睨む。そしてまたガリガリと壁を掻き始める。じ登ろうとしているのだろう。


< 兄者、兄者……>

女の目から涙がこぼれて落ちる。


< 誤解なのに……誤解じゃと言うておるのに…… >


 落ちた涙が吾の頬を濡らした。それに気づいて女が吾を抱き締める。

空雅くうが……せめてお前だけでも…… >

< かかさま? >

幼い声が女を母と呼んだ。


 頬に暖かい手を感じ、ふと目を開ければ、吾を覗き込んでいるのはこの館のおんなあるじの、心配そうな瞳であった。

母者ははじゃ……」

「おお、空雅よ!」

やっと目覚めたかと女主が安堵の声を漏らす。唐紙に差し込む日の光を見れば、もう夕刻に近い。


 運ばれた薬湯を飲んでいると、吾が目覚めたことを知らされたこの館の主と上の息子が顔を見せた。寸前まで二人が何か言い争っていたであろうことはその色を見ればわかる。父親は気難しく顔をしかめ、息子はむっつりと面白くなさそうな顔をしている。


 口火を切ったのは息子のほうであった。

「空雅はそれほどまでに鷹目たかみを嫌うか?」


「だから言ったのじゃ」

吾の答えを待たず、父者が口を挟む。


「空雅はいかんと言ったはずだ。それをお前が『空雅でなければならぬ』とこの話を進めた。そのあげくがこれだ」

「父者はそう言われるが、あれほどどんな女子おなごを勧めても首を縦に振らなんだ鷹目がうんと言ったのは、相手が空雅であったがためであろうぞ」


「肝心の空雅が嫌となればどうにもならぬ。無理強いしてもいい結果は生れぬぞ」

二人ともお止めなされ、と母者が窘める。


 そして

「空雅は鷹目が嫌いであったか?」

と、吾に微笑みかけた。


「そんな……」

そんなことはない、と言おうとしたとき、またあの音が耳の奥に響き始めた。


<キリリ……キリキリ……>


 両手で耳を塞ぐと、それ見たことかと館の主が立ち上がった。

此度このたびの婚儀は取りやめだ――月の色と繋がっているとは思えぬが、ちょうどいい。これで民も落ち着こう」

「お待ちくだされ」

上の兄者が父親を引きとめる。そして吾に向き直る。


「空雅よ、空雅。吾はどうしても解せぬ。は鷹目を好いていたのではないのか? 鷹目は汝を好いているぞ。いつのころからか鷹目が汝を避け始めたのは汝を女子おなごと思うてのこと。汝とて、それは同じであろう? 二人は好きおうておるというのは吾の勘違いだと言うのか?」


 下の兄者の涼しげな瞳を思った。どこに隠れて盗み見しても、必ずに気が付くあの瞳、微笑むでも咎めるでもない瞳は寸時すんじ吾を見詰め、そして何事もなかったようにまた元へと戻る。キリキリと胸が痛む。キリリと音が木霊する。


 とうとう突っ伏して泣き始めた吾の背中を母者の手が撫でこする。父者が呆れて部屋を出て行く気配がする。焦る兄者が声を荒立てる。


「婚儀が決まってからと言うもの、お前、うなされているであろう? それは何故なにゆえじゃ? 答えよ、空雅」

「それは、それは……」


「庭で月を見ていた夜、お前は俺に何か言いかけたな。あの時、鷹目の姿を見てそれをやめた。なにが言いたかったのだ?」

「違う、それは違う」

「どう違う?」

「鷹目のことを言いたかったのではない」

「では、なにが言いたかったのだ?」


 畳み掛けるように問い詰められ、とうとう吾は

「音がするのじゃ」

吐き出すように叫んでいた。


「音?」

意外な答えに兄者がたじろぐ。


「キリキリと壁を掻く音がする――」

「壁を掻く音?」

 たずねた声は館の主の物だった。元いた場所に腰を下ろすと、詳しく聞かせろと言う。


 一度口にすれば、後は容易たやすい。キリキリと吾を責める音、それは涼やかな瞳に恥じらいを感じるようになって強くなった。そして婚儀が決まってから現れるようになった白壁を掻く細い指、そして恨み言を言う女……


「父者よ、あれは吾のかかさまであろう? かかさまは父者を――己の兄を恨んでおるのか? そしてその息子を慕う吾をいさめているのであろう?」

「ふむ……」

館の主は腕を組み、己の妻となにやら頷き交わしている。そしておもむろに口を開いた。


「十余年の昔のことだ。ある日、一人の男が斬り殺された」


 上の兄者が居住まいを正した。部屋の外に感じた気配は、きっと下の兄者だ。庭で中の様子を窺っているのだろう。


「誰が男を殺したのかわからぬまま、また別の男が殺された。その男は豪腕で名の通った者だった。そうなると犯人は限定されてくる。その中にお前の父の名があった」

母者がそっと目を伏せた。


「まさか、と俺は思った。お前の父は吾の友でもある、温厚な人物として知られてもいる。前のおさがこの世を去る前、次の長の候補の一人に名を連ねた男でもある。そんな男が、闇討ちをして人を殺すはずもない。だが、犯人を特定できぬまま不穏な噂を耳にした。奴が手勢を集め、この俺を、一族の長を狙って討つ準備をしている、と言うものだ――吾は耳を疑った。信じきれぬものの、単なる噂だと言う確信を持たぬことには己の配下を押さえきれぬ。吾は奴の館に出向き、様子を窺うことにした」

 誰も口を挟まぬまま、昔語りが進められる。


「前触れなく訪ねた吾に驚いた奴は、己の悪事が発覚していると思い込んだのだろう。居室に通すといきなり剣を吾に向けた。そうなると吾とて抜かぬわけにはいかぬ。供の一人が援軍を呼ぶべく吾が館に走った。奴の館とて、こうなることを予測していない。どちらにとっても急な出来事だった――だが、配備が整っていない奴と、常に即戦力となる兵を控えさせている吾らでは援軍の到着とともに勝敗が明確になった。奴にくみすると約束していた者共が予定外の奴の行動に不安を感じ、参じなかったこともある。吾は奴を追い詰め、そして問いただした。なぜだ、なにゆえ吾にやいばを向けた? そして吾の妹と幼子をどこに隠した? ――奴の館には吾の妹と、その娘、汝の姿は見当たらなかった」


ふぅ、と父者が溜め息を漏らした。いつの間にか母者が吾の手を握り締めている。


「実の父が反逆を企てたことは汝も既に知っている、辛かろうが聞くに耐えぬことでもなかろう。だが、この先にはさらに汝にとって辛い真実が待っている。これを聞かせることを、今まで躊躇ためらっていたのはそのためだ――汝の母のことを口にした途端、奴はさらに荒れ、口汚く吾を罵った。よくも騙してくれたな、と。そして思いもよらぬことを吾は耳にすることになる」


『口車に乗って妻にした女は心を開かず、子を生してからも昔の男と通じている。こんな屈辱があるものか!』


「そんなバカな、妹は汝を慕っていた、だから汝からの話を承諾したのだ――吾の言葉を聞くこともなく、奴はせせら笑った」

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