その音

寄賀あける

1

 月を眺めていた。


 血の色を滲ませた月は不吉な事を想像させる。何かよくないことが起こる、そんな不安を感じさせた。


 背後の気配に振り向くと、上の兄者あにじゃが立っている。

「月か?」

こちらを見ることなく兄者の唇がそう動く。空を見上げた目が月を見ていることは言うまでもない。


おお巫女みこうらでも、なぜ月があのような色になったのか判らぬそうじゃ。だが、あの禍々まがまがしい色……よいこととは思えない。父者ちちじゃ民人たみびとが騒ぎ出すのを畏れ、とりあえず天下安泰の祈祷をさせると決めた。それにより民も少しは落ち着こう。だが、焦点がボケた祈祷だ。どれほどの効果があるものか……」


 夜はまだ冷える、館に入ろうと兄者が促す。その背中に頼もしいものを感じ、思わず袖を引いた。

「兄者……」

「……どうした?」

穏やかな目がを見る。


(言えはしない)

 頼れるはずもない、そう思い直して視線をそらし館のほうを見やれば、下の兄者が上り口に立っている。夜目の遠目で見ることは叶わぬその涼やかな目に、心を見透かされるような気がして慌ててうつむけば、上の兄者が軽く笑った。


 夜半を過ぎて傾く月は相変わらず血の色を呈し、心を揺らした。寝付けぬまま夜具から抜け出し、居室の戸を薄く開けて見上げていると庭伝いに近づく者がいる。夜回りかと思っていれば姿を現したのは下の兄者だった。供を三人ほど連れ、手には魔よけの弓を持っている。


「眠れぬのか?」

 見咎められ叱られはしないかと、戸を閉めようとすると、思いのほか優しい声が響いてきた。

「眠れぬのも無理はない」

呟くようにそう言うと、月を見上げた。


「その弓であの月を射るのか?」

と問えば、

「ふむ……たとえどんな名手でも、弓で月は射れまいぞ?」

と笑う。


 先に行けと供に命じ、己は吾の居室の戸に手を掛ける。部屋に入る気かと緊張すると、それに気がつく様子もなく中をぐるりと見渡した。

「殺風景な部屋だな。女子おなごの部屋というものはもっと華やかかと思うていた」

そして部屋に足を踏み入れることなく縁に腰を降ろし、また月を見上げた。


「月は物を言わぬ。だからあれこれ思いをせるしかない。そして今、あのように恐ろしい色をしていれば、よいことは思い浮かばない。人々はわけもなく騒ぎだし、ありもしないことを口にする」

それだけ言うと立ち上がり、下の兄者はふところからたくを取り出して差し出した。


「今宵は吾も館のもりにあたる。悪しきものを中に入れるようなことはない。だが念のため持っているがいい。魔よけのまじないを施してある」


 持ち重りのする鐸を眺めていると、早く戸を閉め休むがいい、と、今度は不機嫌な声で言う。慌てて閉めると、

「あれからもう十年以上も経つのだな」

呟いてから下の兄者は立ち去った。


 あれから十年以上の時が過ぎた……下の兄者の言葉は、父者ちちじゃ母者ははじゃが死んでからという意味を持つ。幼かった吾はよく覚えていないが、聞く話によれば、従わぬ吾の父者を一族の長が滅ぼしたのだという。栄える者と滅ぶ者、世の常の話である。


 吾が『兄』と呼ぶ二人は実の兄ではない。一人残された吾が引き取られ、育てられた館の息子たちである。吾が母の兄がこの館のあるじだった。


 夜具に潜り込み目を閉じれば心落ち着かぬまま、それでもウトウトとした眠りに引き込まれる。混沌とした意識の中に今宵もあの音が響いてきた。


<キリリ……キリキリ……>


壁を爪で掻くようなその音が神経に障る。


<キリリ……キリリ……>


音はだんだんと大きさを増し、近く迫ってくる。


(兄者――)

 恐ろしさに兄者を呼んだ。涼しげな瞳が脳裏に浮かぶ。


<キリキリ……>

と、その音に、パーーン、と何かが弓で射抜かれる音が重なり、ハッと吾を覚醒させた。


 唐紙に、月の光に浮き出された影が映っている。ゆっくりとした動作で、弓に矢をつがえている。それが弓を絞るのを途中で止めると、こちらをうかが仕種しぐさを見せた。


「目が覚めてしまったか?」

思ったとおり下の兄者だ。

「声を掛けたのだが聞こえなかったようだな。驚かせてすまぬ――館の四方に札を立て、それを射抜くまじないをしている」

それから三度矢を射ると兄者の姿は消えた。


 明くる日、館の周りは昼だと言うのに篝火かがりびが焚かれ、物々しい雰囲気に包まれていた。早朝、幾人かが館に押しかけ、なにやら言い争っていたことは吾も知るところ、その残り香が館の中に漂っているのだ。


 館から出ることを禁じられた吾は、庭に咲く花を愛でながら、あの音を思い出していた。


 キリキリと何かをく音は吾になにを訴えているのであろう。吾にしか聞こえぬことは承知している。いつから聞こえるのかは忘れてしまった。だが、物心ついたときには聞こえ、そして誰に尋ねても『そんな音は聞こえない』としか答えない。そして、あの月の色……


 月があの色を示し始めてから、あの音も急に強く、頻繁に聞こえるようになっている。


<キリリ……キリリ……>

それは断続的に、だが重くいつまでも心に響く。


 少しずつ日は傾き、また月が昇る時刻がやってくる。今宵の月も血の色をしているのだろうか?


 吾は館を眺め、兄者のことを思った。二人の兄者は、その父親と頭を付き合わせ、今宵のことを相談しているはずである。


 早朝、館に押しかけた人々は口々にこう言った。『十余年が過ぎ、今になってたたっているのだ』と。それを上の兄者が否定した。


「あれは遠国で起きた山火事を月が映しているのだ。山火事が因とあれば巫女様の占にも出ぬはずよの」

「だが、今宵でもう七日、そんなに長く燃えおるなど信じられはせぬ」


「死んだ者に何ができようぞ?」

「魂は残り、いまだ恨みを抱いている。そして此度こたびのことでますます恨みを募らせたのであろうよ」


 キリキリと音がした。吾にだけ聞こえるあの音、あれは恨みの音なのか……?


 いつの間に来たのであろう、庭に上の兄者が降り立ち『昨夜、うなされていたそうだな』と声をかけてきた。


「どうしてそれを?」

「聞いたのだ」

下の兄者の名を告げた。


「人々は勝手なことを口にする。月のことにしてもそうだ。未明に、遠国で山が燃えていると確かなしらせを受け取った。それを言っても聞く耳を持たぬ」

やれやれと肩をすくめる。


「だがな……」

 吾の名を呼び向き直ると、穏やかな、それでいて力強い視線で見つめた。

「確かに吾らの父親はの父親を討った。だがそれは仕方のない理由があったからだ。ましてそれからかなりの時が過ぎている。祟るなら、とうに祟ってよいはずぞ。それを今さら祟るなど、ありえようもない」


「でも……」

吾は小耳にはさんだ噂を口にしていた。

「仇同士をめあわせることに月が――」


「なぜ月がそれを怒る?」

いつになく兄者が口調を荒げた。


「人と人が手を取り合うことは繁栄をもたらす善きことぞ。まして婚儀とあればその最たるもの。婚儀が決まった日と、月が色を変えたのが同時なのは偶然だ――汝と吾らはもともと仇などではない。血のつながった同じ一族、いがみ合うものではない。それとも、彼奴あやつが気に入らぬか?」

慌ててこうべを振る吾に、そうであろうと兄者は笑った。


 その夜、やはり月は赤く燃えていた。それを眺めるともなく眺めていると、ザワザワと館の表に人の集まる気配がある。何かを叫び、訴える中に吾の名が混じる。


「父親に憑りついていた物の怪が今になって妖力を現したのだ」

――物の怪? 耳を疑い、もっとよく聞こうと神経を集中させると、この館の主の声が一喝するのが聞こえた。


「民の中には未だにあの娘の父親を慕う者がいる。娘を担ぎだし、吾らを倒さんと目論む者もいる。それを封じるためのこの婚儀、取りやめはせぬ」

目の前が暗転し、足元が儚くなるのを感じていた。

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