6.


 ベッドの縁に座ったまま、とりとめの事のないことを考えていた。時刻は深夜で、ジルッダも眠っているのだろう。

 そんな静かな夜なのに、廊下を杖をつきながら歩く音がやけに大きく響いてくる。げんなりとした俺の目の前でドアが開き、表情のないアシュタロトの顔が現れた。


「やはり、起きていたか」

「お前……部屋に入る前にノックしろよ」

「それは悪かった。留意する」


 さほど悪びれていない顔で言い切り、アシュタロトは俺の目の前に立った。杖を持ったまま腕を組み、こちらを精査するように見上げる。


「この一日で、お前たちは随分距離が縮まったのではないのか?」

「……そう見えたか?」

「ああ。夕食中も、朗らかに話し込んでいた」


 アシュタロトは、自分の言葉に納得した様子で、うんうんと頷く。


「お前たちが、心から愛し合える中になるのも、近いだろう」

「ああ、そうだったな」


 ぼんやりとした心持ちで返答する。ジルッダと、共に人生を歩んでいきたい。そう思ったのだが、俺の呪いが解けるまで帰れないこいつのことを忘れていた。

 まあ、千年も寿命がある悪魔にとっては、人間の一生なんて、瞬くほど短いだろう。そんなことを頭の隅で思いつつ、別のことを彼に尋ねてみる。


「お前がかける呪いは、受け手側の利益になるようなものも出来るのか?」

「端的に言えば、可能だ。相手側の損得は無関係に、私が告げた内容の呪いを、相手に付与出来る」


 あっさりと肯定して、アシュタロトは俺の胸に刻まれた模様を指差した。


「ただ、呪われた証は、体の一部に残ってしまう」

「それを気にしなければ、ほぼ何でも出来るのか」

「何が言いたい?」


 俄かに興奮し始めた俺を、怪訝そうにアシュタロトは見詰める。俺は、手に搔いた汗をズボンでふき取りながら、この半日間ずっと考えていたことを告げた。


「お前の呪いで、ジルッダの目を視えるようにしてくれ」

「ふむ。何を言い出すかと思えば、その事か」


 顎に手を当てていたアシュタロトは、滑らかにその手で俺の顔を指差した。その奥に、鋭く光る赤い双眸がある。


「だが、ジルッダがそれを望むのか?」

「そりゃ、目が見えるようになりたいだろ」

「ジルッダは生まれつき、目の見えない世界で暮らしていた。それが、彼女にとっての当たり前だ。しかし、その当たり前を崩すのは、誰にとっても恐ろしいことではないのか?」

「……そうとは限らないだろ」

「例えば、水中の魚を、鳥が空の世界を知らないのは可哀そうだからと、掴んで空を飛んでみせるようなことだ。鳥にとっては親切心のつもりでも、魚にとっては恐怖でしかない、そのような状況ではないだろうか」

「……確かに、」


 一瞬納得しかけて、はっと我に返った。

 今の魚と鳥の例え、三百年前にこいつが俺を悪魔にしたのと同じようなことではないか。俺は険しい顔を作って、アシュタロトを睨む。


「自分がやったことを棚に上げるな」

「……それについては、今、横に置いておこう」

「おい」


 追求したい気持ちは当然あるが、今はジルッダの話だ。俺も、渋々顎でしゃくって、彼に話の続きを促す。


「じゃあ、やるかどうかは、ジルッダに直接話してからだな」

「そうだな。彼女自身の言葉を聞かなければ、何も始まらない」

「俺が、どうしてそうしたいのか、ちゃんと説明するよ」

「ああ。分かった」


 頷いたアシュタロトは、踵を返して、部屋を出ようとする。ノブに手を掛けた彼に、俺は最後に一つだけのつもりで、「なあ」と声を掛けた。


「今のお前は、自分の過去について、どう思っているんだ?」


 アシュタロトは、そのまま動かなかった。振り返りもせず、このまま黙殺されるかと思ったが、溜息のような小声で、語りかけてきた。


「……かつての私は、何も考えずに、人間たちを蹂躙していた。そもそも、人間について、何も知ろうとしなかった」

「今は?」

「こんなことを言える立場ではないと分かっているが、もしも時が戻せるのならば、私は、同じ轍を踏まないだろう」


 アシュタロトは、最後までこちらを見ずに、ドアを開けて、廊下へと出ていってしまった。

 ドアが閉まる際に入り込んだ、廊下の冷たい風を感じながら、俺は、「言いたいだけ言いやがって」と呟くしか出来なかった。






   ■






「スピキオさん、突然呼び出して、どうしたの?」


 朝食後、台所で皿洗いをしていたジルッダは、アシュタロトに呼ばれて、このホールに入ってきた。濡れた手をエプロンで拭きながら、不可解そうに小首を傾げている。

 俺は立ったまま、「大切な話があって」と彼女に声を掛ける。目の前まで来たジルッダに、ゆっくりと告げた。


「俺は、君の目を見えるようにさせてあげたい」

「……」

「アシュタロトの力を借りれば、可能らしい」

「……」


 ジルッダの沈黙は、この言葉を疑ったからかと思った。しかし、俺を見上げる表情は、喜んでいるのでも怒っているのでもなく、俺のことを値踏みするかのようだった。


「スピキオさんは、私に同情しているの?」

「それは違う」


 はっきりと否定したが、その続きが咄嗟には言えなかった。ここで下手な嘘をついたり、ジルッダを怒らせるようなことを言ったりすれば、彼女はここから出ていく。そんな予感がした。

 だが、俺は自分の気持ちを、ジルッダに受け入れてもらえると信じている。言葉を選ばなくてもいいほど、自信をもって、口を開く。


「昨日、山で夕暮れを見た時、強く思った。君と同じ色を見たいと」

「……色を」

「これから先を、君と過ごしていくのだから、同じものを見て、笑ったり泣いたりしたい。それだけなんだ」

「……スピキオさん。私、ただただ怖いの」


 ぎゅっと、エプロンを握り締めたジルッダは、藍色の瞳を潤ませて、俺を見上げる。


「この世界には、美しいものだけじゃないと分かっているから。人の悪意も、自分の醜さも知っている私は、そんなことばかり考えてしまうの」

「ああ。そうか」

「見たくないものを目の前にした時、どうすればいいのか分からないの」

「そんな時も、俺はそばにいる。どうするのかは、一緒に考えるよ」


 力強い声のわりには、ちょっと情けない宣言だった。それに気付いて苦笑する俺に、ジルッダは頬を緩ませる。


「私、スピキオさんと一緒だったら、何でも平気な気がする」

「悪いな。あまり頼りなくて」

「ううん。そういうスピキオさんの、人間らしい所が、好きなの」

「嬉しいよ、人間らしいって言ってもらえて」


 これが人生の転換期というのに、全てを俺に任しても良いと言ってくれるジルッダを、改めて愛おしく思う。彼女の人生を、最後まで一緒にいたいと、確かに感じた。

 ずっと俺たちのやり取りを、間で静観していたアシュタロトが、ジルッダの方を向いた。


「決めたか?」

「はい。アシュタロト様、お願いします」

「一つ、断っておくが、私の呪いを受けたものは、その証が体に現れる。恐らく、お前の場合は目の周りに出るだろう。それでも構わないか?」

「その証というのが、よく分かりませんが、大丈夫です。これで他の人につまはじきにされても、スピキオさんがいてくれる、それが分かっていますから」


 アシュタロトの方を向いて微笑むジルッダを見て、俺は顔が火照ほてってきた。どんな悪意からも、彼女から守り抜こうと、声に出さずとも誓う。

 「分かった」と頷いて、懐から小刀をアシュタロトは取り出す。だが、その前にと、ジルッダが俺の前に、掌を下に向けた状態の両手を差し出した。


「スピキオさん。私の手を握ってて。最初に見たものが、あなただと分かるように」

「そうだな」


 ジルッダの掌に、自分の掌を重ねる。小さくて冷たい彼女の手。だが、怖がってはいない。全てを俺に委ねてくれている。

 俺は、温かいものがこの手から広がっていくのを感じながら、アシュタロトの方を見た。彼は無表情のまま、自身の左手の指に小刀を当てる。一瞬顔を顰めながら付けた傷から、血が滴り、ジルッダの手の甲に落ちた。


「この者の目に、光を与える」


 厳かな声で、アシュタロトが告げる。ほんの一瞬だけ、彼の瞳が輝くと、俺の毛が逆立った。呪った瞬間に迸った魔力を、感じ取ったからだろう。

 途端、ジルッダの両目尻から、細い蔓のような模様が伸びた。それぞれ二つに分かれて、少し伸びてから止まる。すると、ジルッダの目が大きく見開いた。


 先程と違い、俺と目が合っている。「見えているのか」、そう尋ねる直前に、いつかのように、彼女の瞳が潤んで、涙が溢れ出した。

 あの時と違うのは、俺が慌てる前に、彼女が笑顔を作ったことだった。


「スピキオさん、信じてもらえないのかもしれないけれど、聞いてくれる?」

「な、何を?」

「私、あなたとは始めた会った気がしないの。不思議ね」


 歌うようにそう言いながら、ジルッダは尚、涙を流している。あまりに美しいその泣き顔に、俺も目の奥が痛くなるのを感じながら、大きく頷いて、彼女を肯定した。

 このまま、ずっとジルッダと手を繋いだままでいたい。だが、そんな俺の胸を、誰かに撫でられるような感覚が走った。


「あ」


 口を開いたのは、ずっと無言で俺たちの推移を見守っていたアシュタロトだった。


「解ける」


 その一言が発せられたと同時に、頭が痛み出す。その内、ゴトンと重々しい音を立てて落ちたのは、俺の左の角だった。

 呆気にとられている間もなく、右の角まで落ちた。次に、全身を覆っていた堅い毛が、パサリパサリと抜けていく。何か言おうにも、言葉が見つからないまま、自分の足元に溜まっていく毛を眺めていた。


「あっ、スピキオさん。体が」

「えっ」


 ジルッダで我に返り、彼女の方に目を移す。すると、驚いてしまうほど、その顔が近くにあった。

 いや、俺が縮み出していた。一体化していた鎧が解けるように消え、筋肉が、骨格が、細くなっていく。というよりも、人間の形に戻っていく。


 ――その数分間は、殆ど一瞬のうちに過ぎ去っていった。ジルッダの手を掴んだまま、俺の体躯に合わせて、服装も変化していくのも、感じ取るだけだった。

 やっと、自分の体が、そして魂が、人のものに戻ったというのに、まだ実感が持てず、ぼんやりとしていた。こちらを覗き込むアシュタロトの赤い瞳に声も掛けられないでいると、涙の止まったジルッダが、俺に微笑みかけた。


「スピキオさん。おめで――」


 祝福の声は最後まで聞かなかった。俺が、ジルッダに抱き着いていたから。


「俺も、ジルッダのことを、心の底から、愛している……」


 涙と鼻水で濡れた顔で、俺はジルッダからの愛に返答していた。人の肌を通じて感じる彼女の体が、温かくて柔らかかった。

 俺の腕の中で、ジルッダが頷いているのが伝わる。彼女からの応えは、それだけで、充分だった。






   ■






「あれが、愛の色なんだね」


 城のバルコニーの柵にもたれ掛かり、西の彼方へ沈んでいく太陽が、空を赤一色に染めていくのを眺めながら、ジルッダはうっとりと呟いた。

 昨日、自分が言ったことを思い出して、少し気恥しさを覚えながらも、しっかりと頷く。それよりも、ジルッダと同じ夕日を見ているという幸福に、浸かりたかった。


 目が見えるようになったジルッダと、城の中を歩き回り、様々な物の名前や色の名前を教えている内に、いつの間にか夕方になっていた。昼食を摂るのも忘れるくらいに、笑い声の溢れる楽しい時間だった。

 そして、最初に約束したように、彼女と夕日の赤色を見つめている。ジルッダの目の周りの呪いの証拠も、自分が人間の姿に戻れているという事実も、この胸の底を温める幸福感に比べたら、些細なことに感じられる。


 ここから見える木や花の名前をジルッダに教えていると、室内のドアが開いた。振り返ると、アシュタロトが入ってくるところだった。

 彼から何か話があるのかもしれないと、ジルッダの手を引いて、部屋に戻る。アシュタロトこうして向き合ってみると、今の俺よりも頭一つ分ほど背が高かった。


「長いこと世話になったな。私はそろそろ、地の国へ帰ろうと思う」

「もう一晩、泊って行ったらどうですか?」


 名残惜しそうに引き留めるジルッダに、アシュタロトは首を横に振った。


「これ以上は、愛し合う二人の邪魔になるからな」

「おうおう。やっと情緒が分かって来たか」


 俺が皮肉気な笑みを浮かべて言っても、彼は真剣な顔で頷き返すだけだった。


「我々はもう二度と会わないだろう。その方がいい」

「ああ。それなりに、元気でな」

「うむ。二人も、息災でいてくれ」


 ジルッダも小さく頷いたのも見て、アシュタロトは踵を返した。そのままドアを開けたところで、ジルッダが突如、「アシュタロトさん!」と呼び止める。

 今度は振り返った彼に、ジルッダは優しく微笑みながら告げた。


「いつの日か、あなたの償いたい気持ちが、報われますように」

「……そうだな。礼を言う」


 アシュタロトは、口の端を、本当に僅かだが持ち上げた。

 俺は、それを見て、呆気にとられていた。杖の付く音が廊下で響く中、ジルッダに「どうしたの?」と言われて、はっと我に返る。


「いや、あいつの笑顔、初めて見たから驚いて……」

「そうなの?」

「蛇だった頃の名残で、表情を変えるのが苦手とか言っていたかな……」

「蛇って、表情が変わらないんだ」


 俺の言葉に対して、妙な所を気にしてしまうジルッダに、思わず吹き出してしまう。


「そうだな、今度、蛇も見てみたいよな」


 きょとんとこちらを見上げるジルッダの頭を撫でたら、彼女もくすぐったそうに笑い出した。


「私、もっといろんなものが見たいな。例えば、海とか」

「海か。俺も、ずっと見ていないな」


 長く住み着いていた城だが、人の姿で暮らすのなら、手広になる。それに、普通の生活のためには、ちゃんと町に住んで職につかないといけない。

 ただ、元々いた町に戻るのは、ジルッダが嫌がるのかもしれない。俺も、あの城から降りてきたと知られたら、どうなるのか。


「海辺の町で暮らすのもいいかもな。そこで、菓子屋を開くとか」

「私は、スピキオさんが一緒だったら、どこだっていいよ」


 繋いだ手を揺らしながら、食事にしようと、ジルッダとキッチンへ向かう。彼女の一言一言全てが、こそばゆく、どうしようもないくらいに愛おしい。

 明日が来るのが、こんなに楽しみなのは何百年ぶりだろう。どんな未来も怖くない。真っ直ぐ見つめるジルッダを見返しながら、そんなことを考えた。





























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白は赤に 夢月七海 @yumetuki-773

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