5.


「ジルッダと仲良くなるために、次は何をすればいい?」

「お前は、私のことを占い師のように見ていないか?」


 アシュタロトと、バルコニーのテーブルに座り、ワインを飲んでいた。夜はすっかり更けて、見上げると数えきれないほどの星が瞬いている。

 ジルッダのことを初めて抱き締めてから、早くも三日が過ぎた。あの瞬間に距離は確かに近付いたが、その後は足踏み状態である。焦りを感じつつ相談すると、アシュタロトは旨そうにワインの呑んでいた顔を僅かに顰めた。


「いいじゃないか。協力は惜しまないんだろ?」

「むう。ならば仕方ない」


 不機嫌そうだが、少し考えて、彼が最大の一手を告げた。


「次は同衾だな」

「お、おま、何を、何を……」


 衝撃的すぎて、上手く言葉が出ない。酒とは関係なく、頭に血が登ってきた。

 それに対して、アシュタロトは心底不思議そうに首を捻る。自分の言ったことのとんでもなさに気付いていないようだ。こいつの恋愛観は、非常に野性的だなと、溜息を吐く。


「俺とジルッダが同じベッドに寝れるわけないだろ。大きさを考えると」

「ああ、確かにそうだ。迂闊だったな」


 言い訳をすると、彼はすんなり納得した。では、とアシュタロトは、次の一手を告げる。


「共に出掛けるのはどうだ?」

「出掛けるって、町には降りれないのに、どこへ」

「ああ、だから、上がる」


 アシュタロトの指先が、この丘の後ろに聳える、山を指差した。とはいっても、今は暗い陰にしか見えない。

 彼の言わんと欲するところが分かり、俺も「そうか」と頷いた。


「そっちだったら、いいかもしれないな」

「お風呂いただきました」


 丁度その時、ガチャリとバルコニーのある部屋のドアが開いて、ジルッダが顔を見せた。白いレースの付いた寝間着姿で、風呂上がりのために頬は上気し、髪も湿っている。

 色気のあるその姿に見惚れる俺の横で、アシュタロトが話しかけた。


「ジルッダ、明日の予定は何だ?」

「明日ですか? いつも通りに過ごしますが」

「家事は私がやっておこう。何度か見ていたから出来るはずだ。昼食を持って、スピキオと出掛けるが良い」

「お出かけですか。素晴らしいですね」


 彼女も嬉しそうに笑って頷いてくれたので、俺も念を押すように言った。


「君と、行きたいところがあるんだ」






   ■






 今日は、朝から天気が良い。澄み切った青空がどこまでも広がり、温かい風が、俺の毛を撫でていく。

 ジルッダも、太陽の浮かぶ方向に顔を向けて、その朗らかな光を一身に浴びている。


「晴れて良かったね」

「ああ。絶好の山登り日和だ」


 城の裏側にある山、その頂まで続く道を俺たちは登っていた。ここは、俺が何度も通るために、自分で木を切ったり草を刈ったりして、整備した場所であった。

 目的地の山頂までは、俺の足だと半日ほどかかる。あまり苦ではない距離だが、ジルッダだとどれくらいの負担になるのか分からないので、気を遣う。


「大丈夫か?」

「うん。平気。むしろ、草を踏む感覚が楽しいくらい」


 ジルッダの歌うような返答にほっとしつつ、だが、俺が彼女を引っ張っている状態なので、一言付け加えずにはいられない。


「休みたくなったら、すぐに言ってくれ」

「ありがとう。けど、スピキオさんが私の速度に合わせてくれるから、大丈夫よ。それに……こうして歩くのは初めてだから、元気にどこまでも行けちゃいそう」


 にこにこしながら、ジルッダはそう言い切る。俺は、途端に自分の頭が火照ってくるような感覚がした。

 俺たちは、手を繋いでいた。ジルッダの手を引いて、俺が先導している形になっている。小さくて華奢な彼女の手に、こっちは勝手にドギマギしているばかりだと思っていたが、ジルッダの方も少々浮ついてにやにやしているので、どっちもどっちなのかもしれない。


 昼くらいに、山の中腹で食事を摂った。ベーコンとレタスを挟んだり、焼き卵を挟んだりしたパンを食べて、紅茶で喉を潤す。

 残りの山道も、ジルッダは楽しそうに歩いていった。遠くで流れる川のせせらぎに気付いたり、小鳥の歌とは羽ばたきに顔を向けたり、耳で山の自然を感じ取っている。そんな彼女と比例するように、俺は俄かに緊張し始めていた。


「……着いたよ」

「風が強いね。前が開けているの? それに、薔薇の匂いも……」

「ここから先は、崖になっているんだ。その下は川だ」

「ああ、確かに、激しい流れが聞こえるわ。どうしてスピキオさんは、ここに私を案内したの?」


 不思議そうに、こちらを見上げるジルッダの顔を直視できずに、俺は目の前の光景を見ていた。断崖絶壁のすぐ側まで十字架が並び、それに巻き付くように生えた薔薇が、白い花を咲かせている光景を。


「ここは、墓なんだ。あの夜、悪魔に殺された街人たちの」

「……スピキオさんが、埋葬したのね?」

「ああ。街のことを一望できるこの場所で、安らかに眠っていてほしくてな」


 この崖からは、丘の上の城よりも、ずっと広く町を見渡すことが出来た。何もなくなってしまった町が、徐々に活気を取り戻していく様子を、ここから彼らは見ていてくれたのだと信じている。

 ……ジルッダには決して話せないが、この埋葬が終わった後に、俺はこの崖から身を投げた。もう生きている理由などはなかったからだ。ただ、死ぬことは出来ずに、川の河口に流れ着いて、目を覚ましてしまった。


「どうして、スピキオさんはそんなことをしたの?」

「人間として当然の行為だ。……いや、体が悪魔になってしまったからな、せめてもの証明のつもりだったのかもしれない」

「……スピキオさんは、人間らしさにすごくこだわるのね」

「そりゃそうだろ」


 何を今更と言いかけて、ジルッダの顔を見た俺は、二の次が告げなくなってしまった。

 ぼんやりと下を向く彼女の眼は開いていた。その色は、太陽の下にいるのに、濁って暗い色に沈んでいた。


「人間は、スピキオさんが買い被るほど綺麗なものじゃないよ」

「ジルッダ……」

「私は、色んなことをされた。目が見えないから、花売りだから……スピキオさんには教えられないような、辛いことも、山ほど経験した」


 ああ、やはりそうなんだなと、俺は心の中で呟いた。俺が人間だった頃、花売りは路上の娼婦の隠語だった。その意味は、三百年経っても、変わっていなかった。

 居心地の悪さを抱きながら、言葉を探す俺を、ジルッダが再び見上げる。もうすぐ降り出す空模様のような、もの悲しい笑顔を浮かべた。


「私も、汚いの」

「そんなことは、」

「ううん。だって、あの生活を抜け出すために、スピキオさんの所に来たんだから。スピキオさんのことを、愛せるかどうかなんて、どうでも良かったんだもの」


 繋いでいたジルッダの手が、震えている。初めて俺の前に見せる、恐怖の印だった。

 悪魔の元に連れていかれると聞いて、怖くないはずがない。それでも平気だと言い続けていたのは、それ以上に花売りに戻りたくなかったからだ。


「悪かったな……無理させて、気付いてやれなくて」

「いいの。最初に話した時から、あなたは良い人だって分かったから。すぐに怖いとか、関係なくなっちゃった」


 彼女が微笑んでくれる。今のが本音だと信じたい。……いや、本音ではなかったとしても、いつの日か、心の内を明かしてくれれば、それでいい。

 俺は、言葉に出さずにそう決意する。ここから続く、この山登りよりもずっと険しい人生を、ジルッダと手を繋いで歩いていくのだと。心から愛し合えるかどうかは、二の次だ。


 正面から、風が吹いてきた。川から上ってくる風は、少し冷たい。

 薔薇の香りが混じったそれを、ジルッダは胸いっぱいに吸い込んだ。


「薔薇の花が綺麗に咲いているのね。良い香りがするわ」

「ああ。今は、白い薔薇が満開になっているんだ」

「白い……」


 そう一言呟いて、ジルッダは眉間に小さな皺を寄せた。何かまずいことを言ってしまっただろうかと、俺は密かに慌てる。


「どうしたんだ?」

「ううん……ただ、私生まれた時から目が見えていないから、色って言うのがよく分からなくて」

「あ、そうか」

「白色って言うのは、雲や雪の色って言うのは、聞いたことがあるけれど、全く想像ができなくて……」

「教えてやりたいけれど、俺も説明し辛いな」

「むしろ、私でも感じ取れる、目には見えないものに色があったら、どんなものなのか、言ってほしいな。例えば、愛の色を教えて?」


 ぽつんと呟くようなジルッダの声が、どこまでもいつまでも響いているような気がした。愛を色に例えたら。溜息を吐きながら、思い出す。

 真っ先に浮かんだのは、ジルッダが最初に振る舞ってくれた料理だった。三百年間の孤独を融かしてくれた、あの温もりから、連想を広げていく。


「赤色だな」

「赤」

「小さく灯った炎のような、とくとくと流れ続けている血のような、僅かだけど確かな温かさ、それが、きっと愛の色なんだろう」

「赤色。きっと素敵な色ね」


 歌うように言って微笑んだジルッダを見て、俺が急に泣き出しそうになった。


「……俺の心は、ずっと白かったんだ。冷たく、凍てついていた。それを、ジルッダの愛が、その赤色が、灯して、温めてくれた。俺はそう思うよ」

「ありがとう。スピキオさん。私も同じ気持ちよ」


 くすぐったそうに、ジルッダが笑い声を挙げて、俺も涙の代わりに笑みを零した。


 ――しばらくして、二人で下山する。山は、降りる時の方が危険なので、俺がジルッダを背負っていった。

 俺の背中の上で、「大きくてあったかい!」とはしゃいでいたジルッダに俺は照れていたが、急に彼女が静かな口調で話し掛けた。


「……アシュタロト様は、あの場所のことを知っているの?」

「そうだな。ここに来たばかりの頃に一度だけ」


 あの崖の上にあるのは何かと、アシュタロトに尋ねられたのが話したきっかけだった。彼の反応は乏しく、ただ「そうか」と頷いただけだった。

 ジルッダは俺の答えを聞いて、じっと黙っていたが、意を決したように「あのね、」と話を続けた。


「たまに、アシュタロト様は外出しているの。最初は、町に行っているのだと思ったけれど、もしかしたら、あのお墓に行っているのかもしれないわ」

「……その可能性は、確かにあるな」


 俺の返答は酷くぎこちないものだった。あいつは、自分が殺した人々の亡骸の前で、何を考えたのだろうか。

 当人に尋ねれば、あっさりと教えてくれそうだ。ただ、それを訊いてはいけないような気がした。俺でも、その領域に足を踏み入れてはいけないのだと感じる。


 ふと、上を見ると、空は綺麗な夕暮れに染まっていた。雲一つない美しい青空が、徐々に赤く染まっていく様子はただただ目を奪われる。


「ジルッダ。太陽が沈んでいくよ。今日が過ぎるのは早いな」

「ええ。なんとなく感じるわ。夕焼けの色も知ってるよ。赤色でしょ?」

「そうだ。愛と同じ赤色だ」


 背中のジルッダを背負い直す。この重み、この温もりはどこから頼りなく、気を抜くとすぐにいなくなってしまいそうだ。

 だからこそ、ジルッダという存在を、体全体で感じていたかった。








































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