五、 行之助とおはな(二)
それから二か月後。
休日、師匠に率いられた行之助と他の弟子たちは、船遊びをすることになった。
旧暦五月二十八日の川開きから三か月間、江戸の人びとは涼み船を雇い、隅田川で川遊びをする。
屋根船に乗って料理を楽しんだり、花火を眺めたりするのは滅多に味わえない贅沢である。
だがこの日、行之助は別の意味でそわそわしていた。
乗っている屋根船は、柳橋近郊の船宿のものだ。つまり船を降りれば、おはなに会いに行けるかもしれないのだ。
行之助は船遊びが終わると適当な理由をつけて一行から離れ、胸を高鳴らせながらおはなの船宿へと向かった。
小望月の冴え冴えとした光を頼りに柳橋を渡っていると、「行之助さん!」と前方から声を掛けられた。
「ああ、やっぱり! お久しゅうございます」
駆け寄ってきたのは、今まさに会いに行こうとしていたおはなだった。
行之助は突然の邂逅にどぎまぎしながら、なんとか挨拶を返した。
屋根船から食器を回収していたおはなは、ふと見覚えのある姿を橋の上に見つけ、ここまで走ってきたのだという。
「間に合ってよかったです」
「いや、実はその……あんたに会いに来たんだ」
「え?」
瞠目するおはなから視線を外し、行之助はもごもごと言った。
「先だって、芝居を見に来てくれてありがとう」
「あら、よく気づかれましたね」
「……まあね」
芝居に出演するたびに立見席を気にしていたとは、言えるはずもなかった。
「それから、以前味方になるって言ってくれて嬉しかった。おかげでなんとか、役者を辞めずにいられるよ」
「それはようございました」
おはなは口許を綻ばせた。
「けれど、大口を叩いたのに足繁く通えず、申し訳ないことでございます」
「いや、いいんだ。どうせ端役に過ぎないからね」
しょんぼりするおはなに、行之助は慌てて言った。
家の手伝いで忙しいだろうに、一度は抜け出してきてくれたのだ。それ以上を望むのは、分不相応というものだろう。
「芝居見物はしなくても、私を応援してくれればそれでいいさ。あんたが味方でいてくれる限り、私は舞台に立てる。例え取るに足りない役だとしてもね」
「まあ、そんなことおっしゃらないでくださいまし。行之助さんは座っているだけでも、目を惹き付けられる美しさでしたよ」
「そりゃあ、ありがとう。でもいつか、演技で褒められたいもんだね」
おどけたように望みを口にした行之助に、おはなは微笑んだ。
「いつの日か、心ゆくまで演技をする時が来ましょう。行之助さんが大役をつかまれる日を、心待ちにしておりますね」
梨園は名家に生まれた者とそうでない者で、明確な格差が存在する。
行之助のような一般家庭出身の者は、生涯下級役者のまま終わることが多い。
すなわち、おはなの言葉は絵空事に過ぎないのだが、不思議とお追従には聞こえなかった。それどころか、本当に実現する気がしてくる。
行之助は自然と上がっていく口角を隠すべく、急いで横を向いた。
その時、彼は視界の端に何者かの姿を認めた。
おはなの背後に迫るその人物は、顔が陰になっていてよくわからない。だが、手に下げたものに月光がぎらりと反射し、行之助は色を失った。
「おはなさん!」
行之助は咄嗟におはなの腕をつかむと、自身の背後に押しやった。
それとほぼ同時、抜き身の短刀を手にした男が、行之助に向かって突進してきた。
「ぐっ……」
一瞬の衝撃。
次いで腹から短刀を引き抜かれ、鮮血がほとばしった。
気を失いそうなほどの激痛に歯を食いしばり、行之介は傷口を押さえて目の前の男を睨みつけた。
「紀兵衛……」
血濡れの短刀を手にした紀兵衛は、がたがたと震えながら叫んだ。
「な、なぜその女を庇ったんだ! お前、俺と心中すると言っていたじゃないか! それなのに、その女の方が大事なのか? 俺のことはただ利用していただけだってのか!?」
「……なぜ、おはなさんを狙ったんだい」
紀兵衛の問いには答えず、行之助は低い声で尋ねた。
おはなに惚れていることはもちろん、彼女と出会ったことすら、誰にも話したことはないのに。
「お前から逃げ出した後、やっぱり心配になって両国橋に戻ったんだよ! そうしたら身投げした男が助けられたっていうじゃないか。運び込まれた船宿を探し当てて様子をうかがっていたら、出てきたお前はどこかおかしかった。船宿で惚れた女がいるに違いないと探っていたら、案の定だ!」
「跡をつけていたのはそういう訳か」
血の流れ出る傷口は焼かれたように熱く、立っているのも辛かった。
行之助は欄干につかまりながら、なんとか声を絞り出した。
「はっ、よくわかったよ。あんたが想像以上のろくでなしだってことがね」
「なんだと……?」
「あんたみたいな自惚れ野郎と身投げしなくて本当によかったよ。気の触れた人間と心中なんて、後の世まで笑いぐさになっていただろうさ!」
「このっ!」
逆上した紀兵衛は、行之助の胸ぐらをつかみ上げた。
そのまま投げるように押しやられた行之助は、低い欄干を乗り越え、空中に放り出された。
「行之助さん!」
悲鳴のようなおはなの声が聞こえた後、行之助は水しぶきをあげて川に落ちた。
昨夜から今朝に掛けての大雨で、川は増水している。
泥で濁った水中に、行之助は沈んでいった。
(結局、こういう終わり方をするのか)
他人を巻き添えに死のうとしたバチが当たったのだろうか。
薄れゆく意識の中、行之助は黒い影がこちらに近づいてくるのに気づいた。
(……あれは)
それは、必死な形相で泳ぐおはなだった。
もしや、自分を助けようと飛び込んだのだろうか?
他人を救おうとするのは彼女の美点だが、それで命を落としたら目も当てられない。
しかしそう訴える気力は、既に残っていなかった。
おはなは行之助のもとに辿り着いたが、彼を引き寄せた途端、ぐったりしてしまった。息が続かなかったのだろう。
行之助は最後の力を振り絞って、おはなの背に片腕を回した。
(こうしてふたりで死ぬのも、悪くないか)
けれどもし、来世があるならば。
その時はもう一度、おはなと出会いたい。
彼女に想いを伝えて、ふたりで幸せになりたい。
望みが叶うことを一心に願いながら、行之助は意識を失った。
そうして長い年月を経て、ふたりは再び巡り会う。
今世では、幸せな結末を迎えるために。
前世、推しと無理心中した疑惑あり 水町 汐里 @Ql96hk
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