四、 行之助とおはな(一)
二百五十年ほど前、現代で言うところの江戸時代。冬野の前世である
きっかけは、隅田川に身投げした行之助が、通りかかった
女形とは言っても下っ端であった行之助は、その当時容色の良さを妬まれ、同僚から嫌がらせを受けていた。
しばらくは耐えていたが、やがて心身共に参ってしまった行之助は、自ら命を絶とうと思い立った。
しかしひとりでは恐ろしく、成功する気がしない。
そこで客の男を口説き、道連れにすることにした。
客と言っても芝居の方ではなく、陰間茶屋の方である。
この時代、若手の歌舞伎役者は、舞台に立つ傍ら陰間と呼ばれる男娼として春をひさぐこともあった。
舞台に立つ陰間を
大店の放蕩息子である客は行之助に惚れていたので、偽りの愛を囁けばすぐにその気になった。
そうして夜半、身投げの名所である両国橋に連れ立って向かったが、そこで予想外の事態が起こった。
臆病風に吹かれた客が、途中で逃げ出してしまったのだ。
そうなった時点で取りやめればよかったものの、行之助は意固地になっていた。
やけになってひとりで身投げしたが、結局助け出され、
船宿の主な仕事は、川遊びの船や荷船の手配だが、宴会などのために船宿自体を提供することもあった。
この日は運良く客がいなかったので、行之助は船宿の二階に寝かされ、そこの娘であるおはなに介抱されることとなった。
目を覚ました行之助は、この世のすべてに嫌気がさし、はらはらと涙をこぼした。
「だ、大丈夫でございますか」
上体を起こした行之助の背を、おはなは狼狽した様子で撫でてくれた。
見知らぬ他人だからか、心が弱っていたからか。気づけば行之助は、身投げした経緯をぽつぽつとおはなに語っていた。
「相手には逃げられるし、私は生き残っちまった。あんまりに情けなくて、明日からどんな顔して生きていけばいいのかわからないよ」
「ですが、結果的に
彼女の言うとおりだ。
失敗する可能性を考慮に入れていなかった己の短慮さに、行之助はうんざりした。
肩を落とした行之助を見かねてか、おはなはそっと席を外すと、一階から葛湯を持ってきてくれた。
冷え切った体に、温かい葛湯がじんわりと染み渡っていく。
行之助がほっとひと息つくと、それを見計らったかのようにおはなが口を開いた。
「考えてみたのですが、わたし、あなたの
「……は?」
行之助は唖然として、真剣な面持ちのおはなを見返した。
一体なにを言い出すのだ、この娘は。
「……陰間茶屋の客になるってのかい?」
「とんでもない!」
おはなは赤面すると、勢いよくかぶりを振った。
「そうではなく、芝居の方でございます」
「だけどあんた、私が出ている芝居なんざ見たことないだろう?」
「ええ。ですが、ひとりでも贔屓がいれば、張り合いが出るのではございませんか」
「そうは言ってもねえ……」
自分の芝居を一度も見ていない人間に贔屓になられても、嬉しいとは思えない。
行之助の芳しくない反応に、おはなは考え込むように間を置いてから言った。
「贔屓が嫌なら、あなたを応援している人間でも結構です。わたしには、行之助さんをお助けする力がございません。けれど、なにがあってもあなたの味方でいることは、できると思うのです」
おはなは柔らかな笑みを浮かべた。
「おこがましいとお思いでしょうが、あなたを応援する者がひとりでもいることは、忘れないでくださいまし」
行之助は目を丸くすると、おはなから顔を背けた。
「……なぜ、そこまで言ってくれるんだい。あんたと私は、今日初めて顔を合わせた赤の他人じゃないか」
「そうでございますね。ですが、袖振り合うも多生の縁と申します。ご縁のある方が苦しんでいれば、それをお助けしたいと思うのが人情でございましょう?」
その答えを聞いて、行之助は理解した。
この娘は、舞台子でも、女形でもない「行之助」自身を見てくれているのだと。
思いがけず彼女の言葉に心を動かされ、行之助はうろたえた。
(味方になってくれる人間なんぞ、今までひとりもいなかった)
色を売り、稽古をし、舞台に出て、役者としての腕を磨いていく。その辛く厳しい道は、ひとりで堪え忍んでいくものだと思っていた。
けれどこの世にひとりでも、自分のことを思ってくれる人がいるのなら。
まだもう少しだけ、立ち上がることができるかもしれない。
「……贔屓になるなら、芝居も見に来てくれないと困る」
「ええ、それはもちろん。一日がかりは難しいので、ひと幕見となりますが……」
「それでいいよ」
申し訳なさそうな顔のおはなに、行之助は目許を緩めた。
行之助が出演しているのは、幕府公許の大芝居である。入場料が高いため、庶民にとっては贅沢な娯楽だった。
しかし、芝居小屋にはひと幕ごとに料金を払う立見席もあり、ひと幕だけなら手頃な価格で観劇できた。
「楽しみにしておりますね」
にっこりと笑うおはなの顔を直視できず、行之助は思わず目を逸らしてしまった。
何事もなかったかのように日常に戻った行之助だったが、いくつか変わったことがあった。
その最たるものが、おはなに関することだ。
気を抜くと、彼女は今どうしているのか、芝居はいつ見に来てくれるのかと考えている。
終始その調子なので、役者仲間からのいじめも以前ほどは気にならなくなっていた。
彼らに煩わされるよりも、芝居に身を入れた方がよほど建設的だと気づいたのもあった。おはなに恥ずかしい姿を見せるわけにはいかない。
(惚れるってのは、こういう状態を言うのか)
夜、舞台子の勤めを終えた行之助は、ぼんやりしながら帰路についていた。
今日はこれ以上仕事がないので、自室でゆっくり休める。
(このままあの娘に会いにいけたらいいのに)
おはなの住む船宿は柳橋のたもとにあるので、行之助が籍を置く陰間茶屋から近場にある。
時刻は夜五ツ(午後八時頃)。この時分なら、まだ起きているだろうか。
「……うん?」
その時、行之助は背後から視線を感じて振り返った。
何者かが、さっと路地に飛び込む姿が目に入る。
一瞬だけ灯籠の明かりに照らし出された後ろ姿は、見知った者によく似ていた。
「
行之助の常連客であり、心中から逃げ出した男。
あの男は、行之助の自殺未遂からこちら、彼の前に姿を現さなかった。
先ほどの様子から察するに、行之助の跡をつけていたに違いない。だが、一体なんのために?
「どうした?」
前を歩いていたまわし(陰間の従者)が、立ち止まった行之助を訝しげに見やった。
「なんでもない」
行之助は表情を取り繕うと、再び歩き始めた。
なんとなく気味が悪いが、ここであれこれ思い煩うのも馬鹿馬鹿しい。
あの男のことはさっさと忘れようと心に決め、行之助は足を速めた。
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