第3話




「小太郎、問題が起きたわ」


 とある日の放課後、葉子は帰ろうとする小太郎の前に立っていた。

 その表情は険しく、一目で、ただならぬ事態が起こっていることがわかる程だった。


「どうしたんですか?」


「詳しい説明は後で。とにかく、付いて来て」


 いつものように、詳しい話もそこそこに、葉子は教室を出ようとした。


「付いて来るって……どこへ?」


 葉子は足を止め、振り返った。

 

「私の家。さっさと来なさい」


 そして、葉子は教室を後にした。

 彼女の言葉に、小太郎をはじめ教室に残っていた全生徒が固まる。


「い、家って……」


 直後、教室から幾重もの悲鳴が響き渡り、小太郎は複数の生徒に詰め寄られる。

 そして小太郎が正門にたどり着いたのは、それから数分後のことである。


「遅い! ……って、どうしたの?」


 不機嫌そうに腕を組んでいた葉子だったが、満身創痍の小太郎を見て怒鳴る気も失せていた。


「ちょ、ちょっと……質問攻めに……」


「意外ね。あんたもそんなに人気があったんだ」


「僕が人気ってわけじゃないんですけど……葉子さん、その、いつも大変ですね……」

 

 以前彼女が言っていた言葉の意味を深く理解した小太郎。

 一方で葉子は、疑問符を浮かべていた。


 夕方前。あいにく晴天とまではいかないが、日差しは強くなく風も緩やかで、とても過ごしやすくはある。この時間では人や車の往来も少ない。

 小太郎と葉子は並んで歩いていたが、仲睦まじくというわけでもなく、会話はない。それでも、偶然その光景を目の当たりにした下校中の生徒は、驚愕と衝撃に身を震わせていた。

 小太郎は、横目で葉子を見る。

 彼女の紅い瞳はぶれることなく前を見つめ、背筋は伸び、足音には自信が満ち溢れていた。

 彼女の歩く姿を見るだけで、小太郎の顔は熱を帯びる。それは小太郎に限った話ではなく、誰の目から見ても同様だろう。それほどまでに、彼女が持つ容姿や雰囲気は人間離れしていた。

 ……ここで、小太郎は自分の姿を見た。


「…………」

 

「どうかしたの? 小太郎」


「い、いや……なんでも……」


 しばらく歩いたところで、小太郎と葉子は目的地へとたどり着いた。


「ここよ」


「ここって……」


 小太郎は、その建物を見上げる。

 それは古びた二階建てのアパートだった。壁はひび割れ、色落ちし、水垢が目立つ。アパート名が書いてあっただろう看板の文字は掠れ、もはや判別もつかない。敷地のコンクリート舗装された駐車場はひび割れ、その隙間からは逞しくも雑草が背を伸ばしていた。

 果たして人が住めるのかどうかすらも疑わしい程の佇まいに、小太郎は、少なからず意表を突かれていた。


「こっち。付いて来て」


 葉子は、当然のように外階段を上がっていく。

 不思議な光景だった。

 廃墟に等しい建物に居住する、神秘的な少女。アンバランスだった。生と死のような相反する二つの存在が、どこか奇跡的に美しく混じって見えていた。


「何してるの? 早く来なさい」


「あ、はい……!」


 彼女の呼びかけに、小太郎は足を踏み出した。


 彼女の部屋は、二階の角部屋だった。

 少し広めのワンルームだったが、内装は建物の外観に比べると綺麗だった。しかし、あまりにも家具がない。中央にテーブルが置かれ、あとは冷蔵庫と布団ぐらいか。おまけに彼女は玄関を施錠していなかった。部屋の掃き出し窓にはカーテンもなく、その部屋からは生活感というものが抜け落ちていた。

 その無防備さは、小太郎が瞬時に不安を覚えるほどであった。


「……玄関、鍵をかけてないんですね」


「ええそうよ。いちいち鍵するのも面倒だし」


「で、でも……葉子さんは、ここに一人で暮らしているんですよね? その……大丈夫なんですか?」


「なにが?」


「え、ええと……泥棒、とか?」


「ああ、誰かに入られる心配ってこと? それなら問題ないわ。私の許可なく誰かが入って来るなんてことは、だから」


 何の躊躇もなく、葉子は断言した。

 その理由を聞く余地すらないほど、小太郎にも絶対的な言葉に聞こえていた。


「……あ、あの……それで、何があったんですか?」


「ああ、そうだったわね……」


 葉子は、押し入れの中にある段ボールをガサゴソと漁る。


「今回の問題ってのが……これよ」


 そして彼女は、何かを机に叩きつけた。

 

「こ、これって……」

 

 それは、途轍もない量の紙だった。いずれも何やら細かく文字が印字されており、乱雑に扱っていたせいか、紙一面に皺が入っていた。

 そしてそれは、小太郎にも見覚えがあるもだった。

 彼は、その紙の名を口にする。


「……学校の、課題?」


「ええ、そうよ」


 葉子は涼しく答える。

 

「よく見たら、全部手つかずですね……。これ、どうしたんですか?」


「明日までに提出しないといけないのよ。手伝いなさい」


「……え?」


 小太郎は首を傾げる。


「だから! これ全部、明日までに提出しないとマズイって言ってるの!」


「この量、全部?」


「だからそう言ってるでしょ!? 手伝いなさい!」


「…………」


 小太郎は、改めてその量を確認する。

 少し大きめのちゃぶ台を埋め尽くす、慈悲も容赦もない課題の摩天楼。正直なところ、確かに一人ではとても終わる気がしない量だった。

 しかし葉子は、少しばつが悪そうにしながらも課題を床に起き、早速取り掛かっていた。

 本当に困っているのだろう――。

 やむなく、小太郎もまた筆箱からシャープペンシルを取り出し、カチカチと芯を伸ばすのだった。


 カリカリカリ……。

 カリカリカリ……。


 テレビも音楽もない部屋の中で、ひたすらペンを走らせ答えを書き込む音が聞こえていた。

 課題を始めてから、既に三時間。

 黙々と消化していく二人だったが、その背後には、まだまだ大量のプリントが腕を組んで並んでいた。


「……それにしても、こんだけの大量の課題、いったいどうしたんですか?」


 さすがの小太郎も聞きたくなってしまった。


「……やってなかったのよ」


「え? これだけの量をですか? いったいいつから溜め込んでたんですか……」


「…………」


 答えることを躊躇する葉子を見て、小太郎は少なくとも半年以上前だろうと察する。


「それにしても、どうして今頃になって?」


「そ、それは……その……」


 葉子は、どこか答えにくそうにしていた。

 それを見た小太郎は、逆に疑問に思った。


「これだけの量をしてなかったのなら、当然先生からも相当注意されるはずなんですけど……でも葉子さん、先生に怒られてた様子もなかったですよね? 何か事情があるんですか?」


「……大した理由はないんだけど」


 葉子はそう前置きをする。


「これまで、妖術で課題をやってたことにしてたんだけど、今日、先生から私の分が見つからないって言われたの。妖術を使えば認知を操作して、色々誤魔化すことはできるんだけど……事実と認知の乖離を強くなると、術が解けることがあるのよ。だから、その……明日までにこれを全部して提出しないと、全部思い出されるっていうか……」


「……それって要するに、課題をさぼっていたことがバレそうだから、今から全部やらなくちゃいけなくなったってことですか?」


「…………」


 葉子は黙することで肯定を示した。


「本当に大した理由じゃなかったんですね……」


 小太郎は呆れ果てるように溜め息を吐き出す。


「う、うるさい! 文句あるの!?」


「そりゃ文句しかないですよ。でも、今それを言っても仕方がないですからね。それで課題が終われば苦労しませんし」


「うぅぅ……」


「とにかく今は続けましょう。二人がかりなら、何とか間に合うかもしれませんし」


「……うん」


 ぐうの音も出ない小太郎の正論に、葉子は、珍しく引き下がるのだった。


 夕方が宵になり、宵が夜と変わる頃、目の前のプリントを書き終えた小太郎は「ふぅー」と息を吐き出した。

 それに続いて、葉子も背筋を伸ばした。


「かなり進んだわね。これなら……」


「そうですね。何とか終わりそうですね……」


 処理した課題の山を見ながら、二人は満足そうにしていた。

 そして小太郎は、後ろを振り返る。


「……終われば、いいですね」


「ネガティブ思考を晒すのはやめなさい。考えたくないから」


 残る課題の山脈に、一瞬にして現実に戻される二人であった。


「私、ちょっと休憩」


「ずっとしてても集中切れちゃいますし、一息入れましょうか。僕、何か飲み物買ってきますね」


「ありがと。私、おでん缶」


「……それ、飲み物ですか?」


 解釈とは、人それぞれである。


 ちゃぶ台を挟み、それぞれ喉を潤す小太郎と葉子。

 だがしかし、そこには、何とも言えない微妙な空気が流れていた。


「…………」


「…………」


 無言のまま小太郎を見つめる葉子と、その目から逃げるように視線を泳がせる小太郎。

 その雰囲気に耐え切れなくなった小太郎は、諦めるように葉子に目を向けた。


「……あ、あの……葉子さん? さっきから、僕の方を見てるような気が……」


「小太郎、あんたさ……教室で、何かあった?」


「えっ」


 小太郎は固まる。

 その反応を見た葉子は、ある種の確信を得た。


「家に来るときからちょっと変だったからさ。今日のお礼ってわけじゃないけど、愚痴くらいなら聞いてあげるわよ」


「愚痴って程じゃないんですけど……」


 小太郎は、カフェオレの缶を机に置く。


「……葉子さんって、他の人と遊びに行ったりしないんですか?」


「藪から棒ね。特に行かないわね。必要もないし。それがどうかしたの?」


「その……さっき教室で、葉子さんの家に行くって話になった時に言われたんですけど……」


「……どうして田中くんなんかが玉藻さんの家に? 田中くんなんかじゃ全然釣り合わない。……とか?」


「……ッ!」


 言い当てられた小太郎は、目を丸くする。


「知ってたんですか?」


「だいたい想像つくわよ、そのくらい。あの年の人間って、そういう傾向あるわけだし」


「……でも、それは僕も思います。葉子さんはそんなことなんて気にしないでしょうけど、僕が葉子さんと歩いているだけで……何て言うか、葉子さんに迷惑がかかってるような気がして……」


 どこか諦めたように、不格好な笑顔を見せる小太郎。

 だが葉子は、冷静に見ていた。


「……それは嘘ね」


 その言葉に、小太郎は頬を下げた。


「え、嘘って……」


「小太郎は、私に迷惑がかかることが心配じゃないんでしょ? 噂されて、他人から色めき立った目で見られて、劣等感を感じることが怖いだけでしょ? 自分の言い訳に、私を使わないで」


「す、すみません……」


 彼女の言葉は、芯を突いていた。

 すっかり落ち込んでしまった小太郎を見て、葉子は少しだけ言い過ぎたと省みる。


「……別に、責めてるつもりはないんだからね。ただなんとなく、小太郎が何をそこまで気にしているのかわからないだけよ」


 葉子はおでん缶の汁を一口啜った。


「そもそもの話、他人から見た“釣り合い”って何? 合うか合わないかなんて、当事者じゃないと判断付かないことよ。容姿的な差異だけで言っているのなら、それこそ余計なお世話ってやつじゃないの? それとも小太郎は、自分の目で見たことを否定してまで、他人から言われたことだけを信じるの?」


「そういうわけじゃないけど……」


「私は、私の心で決めて小太郎と行動しているの。だからあんたも外ばかり見ていないで、少しは内側も見てみなさい。小太郎が考えるほど、あんたと他人にそこまでの差はないわよ」


「……うん。ありがとう、葉子さん」


 小太郎の素直な言葉に、葉子は、少しだけ恥ずかしさが込み上げてきた。


「それよりも、そろそろスパートかけるわよ」


 顔を逸らしながら、葉子は指をパチンと鳴らす。

 すると小太郎の全身は、足元から蒼い炎に包まれた。


「う、うわあああ!? 火!? これ、火なの!?」


 全身を炎に覆われ立ち上がり慌てる小太郎。葉子は、そんな彼に声をかけた。


「落ち着きなさい。それ、そんなに熱くないでしょ?」


「えっ!? ……あ、本当だ……」


 とても優しい熱だった。蒼く揺らめくその炎は、暖かく、心地良い。

 そして炎が陽炎となって消えた時、まるでシャワーを浴びた後のように、体にあった汗や汚れから来る不快感のようなものは消え去っていた。


「浄化の炎よ。妖狐私達は炎を司る妖怪だから、そういう芸当もお手の物ってわけ。応用すれば傷を治したりすることもできるけど、それはちょっと燃費が悪いのよね。でも体の汚れを落とすだけなら、大した妖気も使わないから問題ないわ」


「あ、ありがとうございます。おかげで、スッキリしました」


「別にいいわよ。それより、早く続きをしましょう。今のところ順調だし、何としても今日中に終わらせるわよ」


「は、はい! 頑張りましょう!」


 そして二人はシャープペンシルを走らせる。

 だがこの時、小太郎と葉子は知らなかった。


 この課題を終えるのが、朝方になるということを……。







 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖狐の葉子さん @jambll

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ