華、萬に咲く鏡

一ヶ村銀三郎

華、萬に咲く鏡

 呆れながらも僅かな親切心を働かせて難色を示したとしても、あの連中に妄言、戯言であると看做される以上、どんなに工夫して慎重に苦言を放ったとしても無意味である。最終的には噴飯物で不埒な虚言と捉えられてしまうのが目に見えているのだから、何も言いたくなくなる。……どうとでもなれば良い。今となっては、自己が知覚した情景を、徹底した外的焦点化によって語る事で、ある程度は見栄えのある物に変化すると祈るばかりで、実に視野が狭くなったと感じる所である。しかし、この企ての成功性に未だ実感を抱いた事はない。ただ、知り得た物事を茲に転じて誌す事で、その淡い希望じみた、救いようのない仮説を立証できるかも知れない。

 ……ここまで大仰な文句を迂蛇迂蛇と連ねてきたが、この紙面で行う事は、度の弱い安価な眼鏡を外してから、ピントを合わせるのにも骨を折る時代遅れのレンズ越しに行った地味で退屈な物体観察の作業記録である。意見統合にも右往左往して疲弊する俗人にとっては全く面白くない内容である事は充分承知しているし、忌憚なく言って取るに足らぬ、下らない代物である。今更基礎研究を押さえたとて、得られる値や状況は、既に黴に汚染されて久しい程に鮮度が劣った物であろう。それを、ここでやる意味があるのか。即答はできない。しかし、遣らざるを得なかったのだ。……腑に落ちる訳もないだろうが、こんな駄文の成立意義と原因を考察する事なんて、喩えるなら、そこに石コロが存在する事由を語るようなものである。懸命な読者には、まず、そうした無意味なる行為の価値を考察するとか言う非生産的で不毛な議論――議論ですらない難癖を行う必要性の正当性について、諒解していただきたい。

 実際、観察対象として、ある種の生物を選択する必要があったものの、忌憚なく本音を言ってしまえば、何でも良かったのだ。そこに物体が存在すると広く万人に知覚できると思われるから選択しただけであり、その上に追跡可能であったから、そいつを記録した。それだけのみすぼらしい動機にやたらと単語を用いて過剰に着飾って長ったらしい言説を行うのは、誰もが時間の無駄と認める所であろう。よって、ここでは削除する事に決めた。それが嫌なら始めから一銭にもならぬ執筆という徒労の産物である事を承知して、一切の文句を言わずに生きていくか、あるいはこんな物を読まないなりして欲しいものだ。

 さて調査対象に選んだのは何の変哲もない小さな池沼の水である。理由は、研究拠点の近辺にあったからだ。百㎖という世間一般では、やたらと切りの良い数値と持てはやされる例の質量数分を、その地点から汲み上げた。厳密に言えば、その液状の検体は百未満の容量である。水温が摂氏零度を正の方向へ大幅に超えている以上、既に蒸発が生じている。そのため本当の体積は幾つだと聞かれると応答に窮する。単純に採取した者に発生した水蒸気量を知る由がないからである。

 とにかくピペットでもってビーカーに移した検体を百分の一~五ほど取り出し、無色透明のガラスで出来た皿に移し、古ぼけたレンズを向けて、これを観察した。ここで用いた機材についてだが、近年では製造開発競争が激化し、年単位で新型が公開されている。こうした昨今の状況を鑑みて、情報等の開示については差し控えたい。標示上の権利やら販路拡大の妙術など、重箱の隅で一首を贈る方々の介入といった問題が生じて、後で色々と揉めるとなっては各方面に迷惑をかけてしまう。ここで一度どうでも良い情報を徹底的に封殺する他に手っ取り早い方法はない。

 さて、枕が長くなってしまうと、きっと、敬虔なる読者は魅力的な睡魔に襲われてしまうだろう。どうせ、読んでいる奴なんか居ないのは百も承知だが、好い加減に記述を始めないといけない。とにかく、ビーカーの中には微生物が無数にあった。厳密には数は有限であるが、そのくらいの修辞くらいは理解していただきたい。その一つ一つをつぶさに見てやると、身体を萎縮させ捩じらせているものもあるので、その大部分は運動を行っている。少なくとも死んでいるとは言えなかろう。今回の調査対象とした生物の、肝心の種類だが、現時点においても呼称は不明である。事典を探って、それらしい種族・種別を見つけたには見つけたのだが、どうにも確証が持てない。候補は十種を下らないが、ラテン語の素養が乏しいため、どうにも学名の指し示す意味内容を推測できない。そのせいで姿と名が一致しない。だからといって紙面を割いてまで、聞き慣れないどころか、直感的に冗長で意味内容すらまともに想起できないラテン的な名称を羅列する訳にもいかなかろう。この微生物を仮にQと呼称したいと思うが、別段こんな風に主語を明示する必要もない。暫定名称の由来は単にAとかIなどの母音に変換するのが途轍もなく面倒なだけなのだ。

 ご存じの通り単細胞が主として蔓延る微生物ばかりの世界であるが、今回注目したQについてもその例から漏れず単細胞である。一個体の理不尽な役割分担でもって平気で同胞を数百匹以上も秒殺するような無責任な体組織とは訳が違って、彼らは摂食から生殖まで一手に担うフリーランスと比喩できよう。しかし保健衛生の概念からは程遠い雑菌の温床たる池沼の環境には確定申告も六法全書もへったくれもない。手垢のついた表現だが、結局は混沌たる弱肉強食の世界である。

 問題の生物は確かに細胞核を所有している。酔狂や伊達と言った一過性の朧げなる流行で入れている筈もなかろう。同時に収縮胞も認められるが、何と言っても特徴的な鞭毛が生えていた。そしてこれが重要な事であるが、葉緑体を持っていた。緑虫の類と言ってしまえば良かったのだが、残念ながら、肝腎たる筆者はこの方面に明るくない。微塵子だの、青味泥だの、草履虫だの、三日月藻だの……。聞いただけで蕁麻疹が出てしまう。まして学名やら、生態やら、体構造なんて物はこれっぽっちも暗記していない。

 だからこそ事典類を用いての下調と文献調査が重要であったのだが、あいにく思い出すのも苦痛なほどに残念な結果となってしまった。用いている機材が中古ですらない骨董品である以上、止むを得ない事なのかも知れない。こうした財源、環境、人材などに起因する稚拙な基礎研究の悲劇的な顛末について、ここから六千五百万段落を費やして詳細に梗概を記しても良いくらいだが、いかんせん当方には先立つ物が不足しているし、時間的、肉体的都合も著しく悪い。とにかくその個体は、いかにも鮮度の良い核と細胞質を所持していた。この段落では、それだけの事だけでも諒解して欲しい。

 さっきからツラツラと詰まらない事を書いてきたが、未だにAlphabetの一文字しか登場していない点に、既にお気づきの方もいるだろう。先に述べた通り、便宜上用いているだけの記号に過ぎない。実際は二十六種どころか約八十種類以上、数万匹を超える微生物がシャーレ内を縦横無尽に泳ぎ、漂流し、遊離し、絶命と生殖を反復していた。異様にも見えようが、その根本の性質は現代社会と似たようなものなのだから、想像も難くない。穏やかな植物性もあれば、アミノ酸などの有機構造が多分に含まれた水々しい別個体を貪る他に成す術の無い動物性も少なからず生存していた。

 鞭毛を傍若無人に振り回して推進力を付けて移動する個体の他に、生きているのか疑わしいほどに沈黙を貫く個体もあったが、往々にして静止と動作を幾度となく繰り返す単調な個体ばかりだった。よくある水辺の風景を十万倍に拡大しただけの光景である。

 魚類、両生類といった脊椎を備えただけで図体ばかりが大きい定型物体からすると、矮小かつ不気味で、場合によっては不定形のこの連中は、理解に苦しむ生態系をしていてもおかしくないと勘繰りたくなる事と思われよう。しかし冠婚葬祭やら慣例の一切を無視した無節操な行為に忙殺され、自身より高次の概念に救いを求めるような代物とは訳が違って、この得体の知れない微細な生き物は基本に忠実であり、基礎をしっかりと踏まえている。それ故、足元を掬われる事も少ない。

 応用こそ不得手であるが、彼等は堅実かつ確実で明快な方法でもって悠久の日々を送ってきた。言わずと知れた生存競争である。具体的に言えば己の姿形を数百世代の犠牲を支払い変化させる事となるが、これが最も効率的な方法であった。その証左として現在においても多大な進化の生贄が徴収されている。……思い出すのも嫌だが、その中で様々な迷走も生じてきた。苦悩する途上で、摂食、排泄、睡眠が不可欠な肉体を志し、より良き遺伝子を残すべく両性生殖を選択した祖先を一方的に呪うのも烏滸がましい事であろう。

 そんな嫌気が差す宿命を背負っているのは何もQだけではない。その界隈を宛ても無く浮遊しているRの集団や、静止して孤独を愉しんでいるΣは勿論の事、番で生きている暴走気味のД、ボルボックスと同様に数の暴力を為す丙、活動を停止して久しい10111と言ったように、識別可能な記号などが暫定的に付与された名無し達もまた不条理な責めを負っている。

 勿論、そうした生物に関する細々とした補足情報なんてものを本文中で徹底して列叙する必要はほとんどない。それこそ別紙の図二を参照していただければ充分であるし、仮に文章に織り込むとしても骨が折れるし、原稿の嵩増しと言われたら肝が潰れかねない。浅薄な知識の持ち主が読者ならば、とにかく汲み取った泥水の中には数え切るのも億劫な程に多様な生物が潜んでいると思ってくれて差し支えない。事実、我々も資料を確認しないと正確な総数が言えない。

 先に語ったごとく君臨も革命も何もなく、ただただ喰らいて喰らわれるだけの、おおよそ猿人の延長線上に存在する生き物からして見れば殺伐たる状況である事に変わりはない。それは動物的な性質を持つ個体に分類できる単細胞生物Ⅴにも当てはまる。

 この一個体に注目する必然性もまた皆無である。完全なる無作為抽出に他ならない。ただそこに存在して目前を通過し、捕捉可能であったから注目したに過ぎない、としか言いようがない。それよりも重要な点は、なぜ、そんな物に注目するのかという理由に拘る点にある。必要性が衣類としての地位を獲得した以上、いくら喚いても価値は低下しなかろう。だが連中を見よ。何一つ纏っていない。裸単騎である。その癖、現生人類よりも逞しく植物をも蹂躙している。果たして必然は美徳であろうか。

 聡明な読者は生殖によってⅤが存在しているのは当然であると理解する筈である。この場合は、つがいなどといった貧弱な制度に拠らず、単性生殖を愚直に繰り返して、理不尽かつ不可解なる世を延々と生き続けるである。こんな事は良悪で測れる代物になく、第一に誰もが認めなければならない特性と言う物でなければならない。

 さてこのシャーレ内で植物性の微生物であるのは、何もQばかりではない。年表では亜種として紹介されるC、Ⅾや、別の分類法では近種となるL、M、一説には遠縁であるらしいW、X。擬態するJもない訳ではないが、ひとまずはこの辺りも該当する事は間違いもない。今まで注目してきたⅤとの物理的距離で言えば、最も近い存在と言えた。概ね二十三㎜は下らなかろう。

 葉緑体所有者特有の超然的な身体から生じる植物的余裕が、Qに泥水を優雅に闊歩する慢心を与えたのかどうか、未だに分からない。ただ少し焦点のズレ掛かっている中古のレンズが放つ像からは、動きが病でも得たかのように鈍く、鞭毛の動作にも今一歩切れがない姿だけが確認できた。おそらくは光合成がうまい具合にいかず、日光を求めていたのだろう。

 調査員が池水の採取に努めたのは暁直前の午前四時頃であった。中規模の都市ですら眠りこけている時間帯に、微生物が勤勉に活動しているかは甚だ疑問ではあるが、未明の事であるために日光浴にありつけず、暗い保冷バッグに入れられて地味な白亜の空間に来た以上、頭でっかちな連中のお眼鏡に適う目ぼしい活動は望めそうもなかった。

 活動が微弱なのはⅤも同様であった。最後の晩餐が何時かは知らないが、おそらく午餐、または朝餐からずっと摂食は行ってこなかったのかもしれない。彼らにとっては踊り食いが原則であって、鮮度が非常に重要である。というのも単細胞生物の身体は、絶命すると勝手に自壊してしまう。その周囲に散らばり薄まって純度の低くなった体液や、分子レベルの残骸を啜るのも問題ないことだが、やはり取りこぼす事もあって非効率だった。一気に一個体にかぶり付いて己が組織で徹底的に賞味し吸収する方が手っ取り早かろう。

 彼らに美食へ溺れる程に過剰な感覚があるかは不明である。だがⅤは摂食を行うと大方の予想が出ていた。その可能性に賭ける者も多く、オッズが偏り賭博として成立しない程であった。今思えば呑気な現場である、仮に外れたとしても何かを失うという訳じゃないのだから。そんな下馬評が出ていたものの、この動物的で微細な生き物に薄情な観測者どもに対するサービス精神なんてものはない。雁字搦めな生命の責務とやらに縛られていく呪われた有機物の一種である以上、悠々自適に泥水を遊離するだけで一生を送る訳にはいかなかった。敢えて擬人法を用いるならば空腹だったのだ。

 鏡面越しに秒速九㎚の速度で徐々にQへ近づいているのが確認できた。一方で遅れを取っているかのように見える植物性単細胞生物は、鞭毛で泥水の軽微な変化を察知しているように見えた。今までは猫じゃらしで遊ぶ暇潰しのごとく左右にクネクネとゆっくり動かしていたのが、Ⅴの接近によって異常を察知したのか、電波受信機よろしく直線的に逆立ち、ゼンマイのように蜷局を巻き始めた。

 相手は二十一㎜まで迫っていた。捕食される蓋然性は距離と比例して益々上昇していく。鞭毛から、それが彼の物にヒシヒシと伝わってくるのは時間の問題だろう。事実Qは立派な鞭毛を振り回して推進力を得ようと努め始めた。大型船舶のスクリューのごとく、しなりを加える形で硬そうな毛を重々しくグルグルと激しく回り始めたのである。

 内燃機関などの精密機械を突然に始動させると、不具合が発生する場合がある。何事もない事例もあるかも知れないが、それでも不調を来たしたり、動くのに時間が掛かったりする。状況によっては暖気運転を行って、ある程度暖めた方が良いのだ。先述の単細胞を機械と見立てるのが不適切かは分からないし、中古か新品であるかについても知る由もないが、始動してからの時間が多く航続可能な状態が持続し、安定している個体は、どちらかと言えばⅤの方であった。

 こうしたちっぽけな事態から端を発する、細胞の追跡と逃亡は実に一瞬の事だった。既に両者を隔てる物理単位は十九㎜まで縮んでおり、初動が遅れたQにとって不利な情勢であった。しかし光合成で得たエネルギーでもって懸命に鞭毛を振り回して推進しているためか、Ⅴとの距離は目に見える形で変化せず、まさしくアキレスと亀と言えよう。

 けれども大きく離されていない以上、獲物にあり付けない可能性が全くないとは言い切れない。考えてみれば、彼の追跡の継続は現金護送車を自転車で追い駆けるより遥かに確実で美味い話だった。そうと決まれば、前方で闇雲に毛を振り乱している植物性単細胞に焦点を当て、その他に知覚し得る一切の情報を遮断し、自らの偽足でもって一心不乱にアメーバ運動を行った方が良い筈である。実際に獲物を追う細胞は、焦点のボケ掛かっている古いレンズの前でそうしていた。

 間接的ながらも、そうしたⅤの行動が今回の終焉に至った原因だと思う。繊毛を揺らして開いた口に向けて肉眼では捕捉できない微粒子を流し込もうと企んでいたのは、何も植物的な微生物を追い回す単細胞だけではなかった。Qは万難を覚悟してか、別の動物的個体がいる方面へ走っていたのだった。それがⅤよりも一回り大きいƷである。だいたい動物的な単細胞生物は植物性しか狙ってはいけないという条項が存在する訳ではない。古典的な法典の一つすら制定されぬ無法かつ不毛な泥水下では共喰いが日常的に横行するのも道理であろう。

 葉緑体の色彩が新鮮に見えるQに釣られて、絶食状態にあったƷが動く。すると、その眼前に遅れている飢えたⅤが飛び込んできた。吻周辺の繊毛が異なっている点で異種と断定できる動物的な二個体は、目前で逃亡している光合成が得意な生物を平らげたいという点で志を同じくしていると言えるだろうが、そう単純ではなかった。焦点こそ同一であるが、物理的に向いている双方の角度には若干のズレが生じていた。確かにƷは初動こそQ同様に遅かった。しかし先発の追跡者Ⅴが、彼の目の前に飛び行ってしまう失態を冒してしまった。

 繊毛の生えた細胞口がⅤの全身を捉える。この世から消滅するのは、あっと言う間の事だった。胴元が不在である故に賭博が成立せず有耶無耶になって良かった。最悪の場合、破産していたかも知れなかった。何にせよ最後に登場したƷにとって、Ⅴのヒストンや核小体、核酸の固い粒などは、水々しい細胞質の弾力とは異なる食感上のアクセントになったに違いない。

 思い返せば、全くありふれた摂食の光景であったが、想定外の方向からやってきた結果に気を取られてしまって、問題のQを見失ってしまった。植物的であろうと、いつかは捕食されてしまうか、死んでしまうだろう。それを裏付ける証拠として、勝者になったと思われたƷは、この二日後に自壊した形で発見された。おそらく寿命と思われる。そんな事が繰り返されているだけの空間で、生命の反復性やら宿命などを考えるのは赤子でも可能だろう。

 ただ摂食と被摂食の役割だけが入れ替わり立ち代わりで変化するばかり。交互に分担していくだけで、本当は何一つ変化などしていない。変化に乏しい生命活動を送らざるを得ない点を考えると、知的生命体を標榜する何某かと同様、やはり自己の限界に囚われた存在であると推測される。そうした限界によって設けられた単調な循環と、不注意による事故こそが生命の本質なのだろう。

 この考えは、いくらでも応用が利く。例えば一般に人生とか呼ばれるこの珍妙で不可解な容易ならざる時間そのものについても言えるだろう。だいたい、そんな物は単調な循環でしかないのだから、変幻自在で面白い代物ではない。仮に面白いと感じたとしても、それは、その途中の憂さ晴らしで行う娯楽であって、そっちの方が奇抜でずっと面白い筈である。

 どうにも思い違いを引き起こしている者が多いのだが、人生なる生存という行為そのものは吃驚するほど変化に乏しく下らない虚無に等しい。そこに無理矢理に意味を持たせようとするから、矛盾が起こるのであり、拭こうも多々生じるのである。尤も、あなた方聡明かつ博学な読者は、こんな事くらいは既にご存じの筈であるから、今更になって、こんな屑のごとき紙面で詳しく言及する必要もないだろうが。



 暫く時間を空けてから、またしても懲りずに安物で融通の利かぬレンズを覗き込む。矮小な世界を覗いてやる方が性に合うのだが、最近じゃ何一つ理解できない深淵を観察するのにも慣れてきた。少なくとも現実よりか遥かにマシだ。しかし実態は暗黒の虚無が広がるばかりで全く詰まらない。こんな殺風景な世界の中で生きる身にもなって欲しいと思う中に、一縷の望みのごとく瞬く星雲がある。方面は……第一、宇宙に方面なる概念があるだろうか。未だかつて中心を見た事がないし、周縁も聞いた例もない。端があったとしても、延々と広がり続けるのか、はたまた縮んでいくか。心臓の拍動のごとく繰り返される気もするが、それすら分からない。他の恒星系を尋ねる事すらも叶わない大いなる引き籠りである以上、一生を賭けたとしても理解できなかろう。ただその程度の代物でしかないと認識するだけだ。

 そんな事を考えても、世界規模とか言う取るに足らぬ極めて狭小なスケールに収まっている救済なる陳腐で貧弱で手垢に塗れた狂宗的発想が成就するどころか、明日の糧を得る方法の一端すら担わないと盲信されてしまっている。それ故に考えようともしない。それが誤解ならまだ良かったが、本当にそうなのだから実に始末が悪い。かくなるべきか、どうしてかと、事物を思考・考察する以前に、今日の昼食はどうしようか、中華がいいか、はたまた洋食かという具合の事で頭を悩ませてしかない。それ以外の連中に至ってもドングリの背比べである。ちっぽけな玉コロ――または青い球状シャーレの表面上で、拝金するしか能がない売僧風情が鼠みたく繁殖する限り、そんな事を言っても永久に無駄である。苦言を呈する訳ではないが、どうにも報告を書くのが嫌になってくる。どうせ正確に伝わる筈がない。一言一句が悉く曲解の一途を辿るのみで仕方ない。阿呆らしい。

 そんな狭苦しく、閉塞的な球体から程近い四百光年先にMという星雲がある。この記号もまた、例に漏れず便宜を図るための仮称に過ぎない。天体に命名する行為自体に問題はないが、神話だのを引用したり、研究所の名称や地名を典拠としたり、場合によっては個人名や固有名詞などを用いてくる。売名寸前の物も含まれてくると鬱陶しい事この上ない。今回提示した仮称に特に深い意味など有りはしない。諸君等、考えても無駄だぞ。

 そして星雲という言い回しだが、現在では銀河と称した方が適切だろうか。しかし今回は、そんなのどうでもいい、そこが話の中心ではないのだから。それに今回は雲を掴むような絵空事に過ぎないと理解されても致し方がないような内容である。要は読者にあまり期待していないのだ。

 おおよそ六千から八千程の恒星から成る小さな星雲であり、赤いガス状の得体の知れない代物が、光の粒が散らばった虚無の空間にくっきりと入り込んでいた。黒い絨毯に赤ワインを溢して真珠などの微細な宝飾類をまぶした格好をした綺麗な天体であり、まさしく赤々しい気体の漂う妖しい星雲であった。

 しかし、これ単体は何の変哲もないガス状星雲であるから、我々の間でもあまり話題になった事がない。だいたいこんな物に注目したからと言って、昇給するとか、名誉が得られるとか、何かが好転するという訳でもなかった。しかし文献を漁ると別の何かが見えてくる事もある。これも時間が掛かるだけの非効率な方法と毛嫌いされているが。

 その位置からさらに七、八㍶移動した虚無の領域にもう一つ大型天体が確認できる。青白い星々の集まった星団である。若いながら短命そうな星が十二、三個はっきりと見えるものの、とてもじゃないが青いだけで詰まらない第三惑星から肉眼で観測すると輪郭はおろか、その皮膚に光子が降り注ぐまでに数十種類もの知性的な生き物が絶滅していそうな程、奥まった所にある地味な代物であった。仮にPと呼ぼう。

 低温の恒星を巡る例の地点から見る事ができる特徴を除くと、何の脈略もなさそうに見える二つの天体であるが、これでもまだ遠くない位置関係である。尤も海水が目に染みて、節穴も同然になった有機体風情が奥行の勘定を忘れて近いだ、遠いだ、言っているに過ぎない事は重々承知の上である。

 約八㍶はちょっとした誤差の範囲に収まる距離である。勿論、先に触れたQとかⅤとか言う得体の知れない生物の距離感や関係性とは訳が違う。彼らは細胞としての構造を有していたからこそ尊大な霊長もその行動原理――この単語は厳密には不適切で厳密には本能、性癖、傾向、習性、慣例などの概念を含み得る――という代物を想起して理解しようと試みるのだった。

 それでは今回はどうだろうか。

 控えめに言って卑しい人体特有の俗物的な知覚の限界を大幅に超えてしまっている。未来完了進行形でもって表現しても良いくらいである。つまり数十世代を賭けても馴染めないという事である。この界隈では現象の事例も少ない。ちょっとした一般論も、ある種の仮説に立脚している可能性がある。要は、不明・未詳の部分が多過ぎるのだ。

 ここで言いたい本題は実に単純である。どこにでもある宝玉の輝きにも似た短命な星々を寄せ集めて溌溂と光るPという天体集団は、数学の動点Pよろしく移動しているのだ。それも赤い霧を侍らせて一㎝たりとも身じろぎしないように見える星雲Mに向かって。その速度たるや、おおよよ地球上の代物では喩えようもないのだが、簡単に言えば地球の自転速度を階乗して足りるくらいである。遅い方だと思って良い。

 いくら天文学的数字を持ち出されても、時速という定義に括られている以上たかが知れている。しかも暗黒で虚無が広がる真空空間には等速直線運動しか働かない。減速しないが加速するという訳でもない。重力が強く働く大型天体に差し掛かりでもしない限り延々と等速を保つ。非言語やら計数の便宜で考えれば、全く理想的なPであった。

 一方の星雲はどうだろうか。確かに、どこか曇っているような旧式レンズ越しからは静止しているように見える。望遠鏡の内部構造こそ金に物を言わせて市販品よりか上等な物にしたが、肝腎の覗き穴は市販品であったし、しかも廉価なアクリルに凹凸を付けた程度の物だった。そんなもので観測しても天体の輪郭と大まかな位置関係と色彩が分かるくらいで、詳細な光線の変化といった年々微妙に推移していく観測データの認識には向いていない。

 そうなると各地に点在する大小様々な天文台が編纂した記録、及びそれに基づく論文に頼る他に、このM星雲の実像を考える手立ては少ない。無論、筆者は自身の可能性を狭める程の阿呆ではないと思われる。そんな報告書の群れの共通点は一つである。透けている赤い絹のベールを巻いて、真珠や珊瑚、岩緑青を散りばめた頸飾りを身に着けているあの不思議な星雲から発される艶かしい光線には特徴があるようで、僅かながら光量に変化が見られるという事だ。

 要するに、これも移動しているのだ。その速さはPよりも遥かに遅い。ざっと秒速十京の四乗㎞となるか。しかし先に述べた単細胞の逃避行と追跡みたいな状況とは違っていた。赤い霧の立ち込める星雲の向かう方向は、例の動くネックレスのような星団の方面であるからだ。分かりやすく言うと、この二つの天体は衝突するかも知れないし、そのまま素通りして行くかも知れない。いずれにせよ擦れ違うのは確実視されている。

 但し無傷で済む確証はなかった。太陽が百個束になっても太刀打ちで敵わない巨大な恒星群同士が離合しようと言うのだ。互いの引力がどのように作用するのか、もはや脳裡は小難しい公式を用いて概算を弾き出すのに精一杯となり、一切の想像も付かなかろう。大掛かりな電子計数機で演算して、画像を作ってもらった方が効率も良かろう。

 第一、いかばかりの重力が恒星の集団から生じているのかを算出するのにも一苦労だ。一地方の小規模な科学館に取って付けたような天文台風情にできる事なんかじゃない。赤字を補填するための行動だったとしても割に合わない。その後の両者については苦難ではあるが想像してみよう。

 仮に衝突した場合は詳しく分からない。この観察を行っている主体が、観察内容について全く門外漢であるからだが、素人でも恒星系レベルにまで影響を及ぼすと推測するのは容易である。恒星同士の衝突が発生したならば、途方もない融合現象が生じてしまうだろう。より巨大な恒星が出来上がると思われる。勿論、惑星に至っては堪った物ではない。岩石型惑星は泥々に溶け、分解されて小惑星になってしまうだろうし、ガス質惑星に至っては蒸発するか、第二の恒星となるかでもするだろう。ある種の世直しと言えよう。しかし修繕は新調よりも高く付く。どちらかと言うと既存の鋳物を改鋳する作業と思ってくれても差し支えない。

 第二に擦れ違う場合。これも憶測に過ぎないが、重力によって何らかの影響が生じると思われる。平然と生き残る恒星もいるだろうが、星雲、星団ともに甚大な損害を被るだろう。特に惑星では地盤やプレート、核、海水、大気などがズタズタに破壊されてしまいかねない。磁場の発生している天体なら尚更に悪影響が出てくる。磁気の停止、宇宙線の侵入、死の星と化す。だいたい1光年を切った辺りから、こうした現象が起こると考えられるが、実験でもしない限り断言は難しい。あくまで距離は目安でしかないし、ひょっとすると三~五㍶程度で、悪影響が生じる可能性も充分発想できる。そうそう単純に考える事などできないのである。

 星雲ですら直線的に動き続けなくてはならない不可抗力を受け続けるというのに、惑星の表面で寒暑飢病を耐え忍んでいる生物が一体何の手を打つというのか。とにかく生命は徹底的に失せてしまう。石にしがみ付いて生きる連中からして見れば、実に不条理と感じる事だろう。しかし等速運動を停める手立てはない。それよりも衝突前に勝手に自滅している筈だ。百年が後も、二百年が後もなく、薄氷の上で踊り狂って納得と同情を得ているだけである。しかし新しくないレンズを覗く者は、それを非難できる立場にはいない。日和見主義者には花が咲くものの、同様の愚者でも乱舞した方が得であると先人は言うのだから、何人も否定する資格を持たなかろう。

 こうしたP星団とM星雲の関係は実は突飛な物ではない。現在、万物の霊長とか言う阿呆が巣喰う例の渦巻状銀河と彼のアンドロメダ銀河は約二百三十万光年離れているが、その距離は年々縮んで行くばかりである。よく未来に託すとか軽々しくほざいてくれるが、今後発生する虞の全てを考慮し始めると、絶望的な閉塞感に陥る筈である。そんな鬱蒼とした状況下を闇雲に進む。その先に何があるというのか。考えるだけ莫迦らしい。



 安物の眼鏡を元に戻して執筆に戻る。しかし、莫迦なものだ。根拠のない希望に縋りついて、徒然な日々を送り、薄給に酔い痴れている。下書きとは言え、公に晒されるかも知れぬ物に自己を仮託するとは、どういう了見か。清書の段階で自我に依る検閲を被るから、無問題とは言え、最早精神困憊の証左である。

 ――観察する職に携わっている以上、客観なる抽象的概念の徹底を要求されるのは当然である。しかし、客観とは何だ。所詮は第三者の主観じゃないか。旧型で調整を必要とするレンズを覗く度にそんな感情が生じてしまい、とうとう、このような物を書いてしまったと言う訳だ。……賢明なあなた方ならば、この観察する主体がまともに物を見られなくなったと気が付いている事であろう。実際、そんな感じがすると最近になって感じるようになったのだ。

 外に出てみたとする。するとどうか、確かに鉄面皮の者が大半を占めているが、完全に統一されている訳ではない。眼の血走っている者や、言動に何らかの違和感を覚える者も少なからず混じっている。元を糺せばコンマ数㎝の有機体だった筈の微物が、結局他の者とのを望みつつ、不協和を面前に垂れ流しているのである。案外世間は、異質な物を取り込んで経営されているようだとさえ考えるようになった。それ故、永久に支障を来たし続ける機関となっているのだなと考えるようにもなった。これでは、こちらが完全な異質であるし、支障を来たした部品である。

 ……貧乏しているせいで、こうした不如意で融通の利かぬ濁流に身を置かねばならない。変化させる事なんか出来はしない。この状況を拒む立場にもないのである。不本意ながら、言いたい放題、やりたい放題で、ちっとも責任を取ろうともしない、野放しになって久しい蒙昧なマトンやラムの群と戯れる生活を送っているが、実に詰まらない。そこで愚にも付かぬ筆者は、長年放置されてきた酒瓶の底みたく、くすみ切ってしまったレンズの向こう側に広がる、現世よりも面白く可笑しい未知の世界と、他人に厳しく地球に易しいだけで崇善揚美も知らぬ痴れた無智無恥連中よりも上品で機知に富む洗練された物体を克明に描いてやろうと画策したのだが、結果は斯くのごとく惨々たる物である。

 残念な事に、天体よりも矮小で、微生物よりも肥大なわたくしには華咲き乱れるように虚ろなレンズを覗くしか行うべき手段が存在しない。思う事の十分の一も表せず、また徒に何らかの代物を傷つけようとする。職務の高貴性に影を差すような、後ろめたく陰湿で異常なるこの怪文を美しく閉じるべきであろうか。

 何にせよ、こんな報告書、何の役にも立たないのは明白である。あなた方読者が本当に懸命だと言うのならば、さっさと破り捨ててしまうが良い。

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