で、その原因というのは吐き気だった。


 大きなこいをまるごと煮つけ、自分の胃袋の容量の限界を考えもしないで食べつづけたものだから吐き気、それを感じたのだ。


 せつないので丁寧にえずいてみる。


 で、喉の奥から出てきたのは、こいの煮つけでも甘い煮汁でもなく、人間の人さし指であり、五本の指であり、てのひらであり、手首であった。といってそれらはすべて繋がっていたので一個体のそれであったのだが、それはいい、それはいいとしてだ、人間の手首が喉につかえているのでそれは苦しいのだが、僕としては、目の前のこの摩訶まか不思議な光景のほうが、喉が苦しがっていることよりもずっとリアルなので、それにともない頭のなかで起こるイメージのほうが大事に思えたし、宝物にさえ思えた。


 だから僕はイメージを幾重いくえにもかさねていった。


 イメージするイメージ。


 イメージしている僕自身のイメージ。


 誰かに見られているイメージ。


 僕のことをじっくりと観察しているその誰かのイメージ。


 その誰かがいま頭に浮かべているイメージ。


 やっぱりこれが一番なんじゃないかな、こいの煮つけが一番なんじゃないかな、僕たちが普段手にすることのできる物のなかで、人の皮膚ひふやお肉や骨や骨髄こつずいの食感を再現するには。


 ああ自分の鼻息がわずらわしくてしかたがない。鼻息に含まれる香気が変わってしまっているらしい。僕はその匂いに意識を集中している自分自身を強烈に意識した。すると、さっきまでのいいどろ臭さではなく、よくないどろ臭さに変わっているのがよくわかった。


 それはくさった君の吐息は生きていたころの吐息よりもおとるだろうけれど、それでもくさりかけたラ・フランスの吐きたくなるような甘さよりは数段上手うわてなはずなんだよ。


 とうてい思考とはいえない、連続体とはとてもいえない思いつきがつぎつぎあふれて僕の頭のなかはしだいにれてゆき、いつしか水びたしになった。が、そこに邪魔だてが入る。


 先ほど僕の口のなかから出てきた人間の手首が動きだしたのだ。


 手首はテーブルにてのひらをぎゅっと押しつけたかと思うと、まるでテーブルをみこむようにうねりはじめた。それはあたかも地をう緑の芋虫いもむしのような動きだった。そして手首は実際に、少しずつではあるが前進していった。


 それにともない喉を押しひろげる腕のけいが太くなるためなのか、僕の喉の苦しみが増してゆく。けれども細腕であるのがさいわいして耐えがたい苦しみとまではいかなかった。


 しかし、このままでは自分のイメージに入りこむことができないので僕はこれに対処しようと思った。


 呑みこんでしまうか、あるいは噛みちぎるか、ふたつにひとつだろうな、と、僕は思った。自分の考えにいやに納得してしまったので、思いこんだといっても間違いじゃないかもしれないな、と叫びたくなった。それはそれとして、僕は後者を選ぶことになる。そして僕は実際に、腕に軽く歯を立ててみた。


 二の腕だった。


 はむはむと何度かやってみると、ふっくらとした柔らかさを感じとることができた。それならと唇でもはむはむしてみると何やら妙なあんばいであった。


 僕の唾液だえきか胃液かはわからないが、とにかく細腕は熱い液体でれているが、そのわりに細腕自体は、冷え性の人間の指先のように冷たいのだ。こんなにも活きのいいようにぴちぴちとテーブルの上を跳ねまわっているというのに、生きている人間の肌のぬくもりという感がさっぱりない。にもかかわらず細腕は何かを探しもとめるように虚空こくうを掻いては、テーブルの上にてのひらを押しつけて僕のなかから出ようとする。


 僕は細腕のその懸命けんめいな姿になにか安寧あんねいのようなものを感じて和んでしまう。


 意図して受け身になり喉の苦しみを感じていると、吐き気は思い出に変わっていた。いい思い出。いい思い出はいい。いい思い出はいつ思い出してもいい。と、そんなようにありふれた日常のなかにある何気ない幸せに意識を向けていると、喉にぐっと来た。


 僕は実際に感慨かんがい深かったし、おなじ見られるなら無感情な僕じゃなく、感慨かんがい深く感じている僕の姿を見てほしいと思ったので、僕は意図してそういう顔をして、ゆっくりとまばたきをしてみた。どの程度ゆっくりだったのかは定かではない。それはそのはずでそのかん僕は自分の鼓動こどうをかぞえるということをすっかり忘れていたからだ。で、それが関係しているのかあるいはそうじゃないのかそれは定かではないが、とにかく、いつのまにか、細腕のその肩口までがあらわになっていた。それは事実だった。


 華奢きゃしゃな肩の感じからその人物が女性あるいは小柄な男性であるとわかった。生育のよい子どもであるかとも思われたが肌の成熟せいじゅくした感じからその線は薄いように思われる。


 それを確かめたいそれを知りたいという欲は、溜まりに溜まった性欲よろしく僕の視界を狭めつつ目に入る色彩を濃いものにして、世界というものを深遠で意義深いものであると思わせるのだった。


 すでにむさぼりつくした事柄のなかにも新しい感覚や感情はかならず見つけられるもので、それを手にしたが最後、その事柄をまたいちからむさぼらないではいられなくなるはずだ。と、そんな思いが起って、不覚にも僕は胸を踊らせてしまった。この感動はしばらくつづくのだろうなということを考えながら僕は、肩に歯を立て唇に力を込めてみる。


 おそらくは二十歳はたち前後の人間だと理解した。


 するとそのとき、いい思い出となったはずの吐き気が突然よくないものになる。


 視界の奥のほうがうるさいので目をやると、細腕の五本指がテーブルのはしで錯乱さくらんするようにじたばたしている。そうするうち中指がテーブルのふちにかかり、手はそこで我に返ったようにゆっくりとした動作でテーブルのふちをしっかりとつかんだ。で、肩口から先が一気に吐き出されるような気配を感じた瞬間、快楽か杞憂きゆうか感覚の限界なのか、よくわからないそれが僕を下から突きあげるもので、僕はたまらず意識を失ってしまった。生まれてきてくれて本当にありがとうね。

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こしき 倉井さとり @sasugari

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