悲伝の夏

しぎ

中学二年生、夏休みの顛末。

「この森には、まだ里山がある」

 埼玉県所沢市。この街で生まれ育った子供なら、必ず地域についての学習でその言葉を聞くだろう。僕の父さんやおじいさんが関わったという、自然保護運動のキャッチコピー。

 ……しかし。僕は目の前の、手入れはされているだろうがうっそうとした木々が立ち並び、月明かりなど届きそうもない広がる闇を見て、ここにあるのは里山だけじゃないのかもと、その時初めて思った。

「景、ほら、行くぞ」

 秋也が僕の右腕を掴んで引っ張る。その声は、ほんのちょっとだけ震えていた。


「秋也、お前が言い出したんだろ。さっきまでの威勢はどうしたんだ」

 雑草の生い茂る中を僕らは進む。さっき、石垣と低い金網を乗り越えた。ここは多分立入禁止エリアだ。歩きやすくしてくれるようなものは何もなく、スマホのライトを頼りに進んでいく。

 僕は薬師やくし けい。中学二年生。今僕らがいる八国山はちこくやまのすぐ麓にある住宅地に住む普通の人間であり、このような場所を歩くのに適したスキルなど持っていない。

「警戒、してんだよ」

 そう言って周りを落ち着かなく見回すのは、今日僕をここに誘い出した張本人である、クラスメイトの諏訪すわ 秋也あきや。僕とは中学に入ってからの付き合いであるが、行動力があってなんにでも首を突っ込みたがる性格は小学校から変わっていないらしい。

「だからと言って僕の後ろを歩くことはないだろ。森に入るまでは早歩きで来てたじゃないか」

「良いだろ。それに……暑いし、体力も温存しなきゃだし?」

 そう言って秋也は右腕で汗を拭う。今日は8月25日。昼間の最高気温は37度。太陽がとうに落ちた午後10時過ぎとはいえ、ちょっと歩けばすぐに身体のそこかしこから汗が吹き出てくる。

「サッカー部のエースが何をいう。というか怖いんだろ」

「お? 景、お前も信じる気になったか?」

「ちげえよ。ただ、雰囲気はあるな、って思っただけだ」

 僕は後ろを振り返る。まだ十分ぐらいしか歩いていないが、結構来たようだ。家の明かりははるか向こうで、周りを覆い尽くすのは緑ではなく黒である。

 心霊スポットと言われても、確かに違和感はないな……そう思うと、汗が少し引いた気がした。



「景、肝試ししようぜ」

 昨日の夕方、僕はテニス部の、秋也はサッカー部の練習で学校で会った際、唐突にそう誘われた。

「はあ?」

「他のやつも誘ったんだけど予定合わなくてな、どうだ。面白いだろ?」

「僕、そういうの信じないんだけど」

「まあまあ。夜の探検だと思えば」

 ……気分転換には、悪くないのか……?

「どこ?」

八国山はちこくやまの下のところに、悲田処ひでんしょ跡ってあるだろ?」

「ああ。なんか遺跡かなんかだっけ?」

「そうそう。あそこはな……」

 秋也の話によると、悲田処ひでんしょというのは平安時代初めに作られた、旅人のための救護宿泊施設だという。正確な場所はわかっていないが、僕の家のすぐ近くの山の麓がその跡であるという言い伝えがあり、公園やバス停にその名が残っている。

「で、その悲田処ひでんしょで死んだ当時の旅人の霊が、八国山はちこくやまに出るらしいんだ。心霊写真界じゃ有名なスポットらしいぜ、あの辺」

 そう言って秋也はスマホを取り出した。画面に映っているまとめサイトを見ると、確かに心霊写真っぽいものと一緒に八国山撮影などの文字が並んでいる。

「えー。こういうのって、なんかカメラの不具合とかそういうじゃないのか?」

「やっぱ景は夢が無いな。布施さんとは違……」

「いや、別にそういう……」

 布施という言葉が出てきて、僕の心の中のどこかを刺激する。裁縫針で指を刺してしまったときのような、微かな痛み。

「あっ、わりい……」

 秋也がバツの悪そうな顔をする。僕の顔を見て何かを察したのか。

「気にするな。別に布施さんが転校するのは、ほら……」

 僕は言葉の続きを探る。が、駄目だ。どうも冷静になれない。彼女の顔が浮かび上がる。

 彼女の名は布施ふせ 梅華うめか。僕や秋也と同じクラスの……有り体に言えば、僕の幼馴染である。そして、僕が最も長く接してきた女子といっていいだろう。

 布施家は周りの家より一回り大きく、気の遠くなるような昔からこの地域に住んでいるらしい。親同士が仲良かったこともあって、僕は小学校入学以前から度々布施家に遊びに行き、物置の中の古めかしい品々を見てその歴史を感じていたものだ。

 そしてその幼き僕に、自分も両親から聞いただけだろうに、熱心に品々を解説していたのが梅華だった。自分自身も覚えたての言葉を使いながら、一生懸命身振り手振りで話してくれた。今考えると、うんうんと頷いていただけの僕がちょっと恥ずかしく思える。でも多分、照れ隠しだったのかもしれないが。

「わかってるよ。病気なんだろ? 俺たちは布施さんが帰ってくるのを待つしか無いんだ」

 それはわかっている。どうすることもできない。梅華の転校はすでに決定事項だ。ただ、それなら……

「暗くなりそうだから、話戻すぞ。景、肝試し行こうぜ?」



「景、いつもどおりだな」

 秋也がそう言ってくる。相変わらず僕の後ろを歩いているが。

「いつもどおりって……何が」

「いや、昨日ほら……布施さんの……」

「ああ。別に気にしてないよ。梅華の転校はもう決まったことだし」

 そう笑顔を作りながら、僕は梅華と学校で会えなくなる事実を噛みしめる。


 梅華はあの布施家の物置とともに成長して、歴史や伝承が好きな女子になった。派生して、幽霊とか妖怪とか、そういう類にものめり込んでいった。小学校の自由研究では地域に伝わるダイダラボッチ伝説について50ページ以上の大作でまとめ、市の賞かなんかをもらっていた。

 その熱は中学生になってもとどまることを知らず、クラスの友達の輪にも積極的に入ろうとせず、ずっとその手の本を読みふけっていた。資料がたくさん読めるという理由で文芸部に入り、図書委員になり、読みすぎて目が悪くなったといって眼鏡をかけ始めた。腰まで伸びる黒髪と目が隠れそうな前髪も相まって、梅華のイメージはどんどん固まっていった。

 ……だけど。布施家は代々、病弱な血筋でもあった。梅華には喘息の持病があって、今も少し会話や運動をすれば咳が多いことが容易にわかる。梅華の弟で、小学生のひとしはもっとひどい喘息と、他にも病気を併発しているらしく、入退院を繰り返していた。

 そして、仁を手術しながら長期入院させられる病院が千葉に見つかったとのことで、仁は母親とともにその病院へ。ついでに梅華の喘息も完治させるべく定期通院させることになり、梅華は転校することが決まった。

「布施さんは……ご家庭の都合で、八月末に引っ越すことになりました」

 七月の初め。担任からそう言われたクラスの皆は、一様に悲しみを広げていた。深い付き合いはなかったが、クラスの皆にとって梅華は確かにこのクラスの一員だった。

 でも、僕はそれだけじゃ治まらない。


「そうか……」

「でも秋也、梅華と話したことないだろ」

「そんなことないぞ。俺、布施さんの前の席だったからな。プリント回すときに……」

「……ときに?」

「……」

「ほら。梅華は基本無口だからな」

 彼女が声を張り上げるのは、好きなものについて語るときぐらいだろう。大声を出すとすぐ咳き込んでしまうので、自然と声を出すことが少なくなっていったのだ。

「はあ。やっぱり布施さんに関しては、お前には敵わないな」

「そう……なのかな」

 目の前の闇のように、黒のイメージが合う梅華。その黒の前に、僕はまだ何かを発することができていない。

 スマホのライトで照らされる楢の雑木林は、何だか僕に圧力をかけてくるかのようである。行く手を阻む雑草も。時々現れる崖も、急斜面も。



 だから、僕は最初に気付けなかった。先に気づいたのは秋也だった。

「おい……景、あそこ……」

「どうしたんだよ。まさか本当に出たのか?」

 僕の右腕を掴む秋也の震えが大きくなる。

 僕は軽い気持ちでスマホのライトを秋也が示した方に向ける。

「……」

「……」

 ――いた。


「わあっ!」

「待て、落ち着け。あれは人だ」

 後退りしようとする秋也を掴む。よく見れば――草木に隠れ、目を凝らさないとわからないが――人間である。木の根元に腰掛け、膝を抱え、うずくまっている……それも、長い髪の人だ。

「あの……すみません。大丈夫ですか……?」

 僕は近寄って、声をかけ……



「けい――くん――」

 虫の鳴き声よりも微かな声。

 梅華だった。そしてそれっきり……

「梅華? 梅華!?」

 梅華は、事切れた。





 その後は、救急車を呼び、僕と秋也で両肩を抱えて梅華を山の麓まで下ろした。そして僕らは、立入禁止区域に入ったことをそれぞれの親からこっぴどく怒られた。

 そして翌日。気温は今日も37度。僕は、普段梅華がお世話になっている病院を訪れた。

 小さな病室に入ると、ベッドの上で梅華が窓の外を見つめていた。住宅地の中に、ポツンポツンと緑地が広がる。自然保護運動の末に開発の手から守られた場所たちだ。

「梅華、大丈夫か?」

「問題ないわ。念の為、今日いっぱいはここにいなさいって言われたけど」

 相変わらずの小さな、どこか儚げな声。

「良かった……で、どうしてあんなところに」

「最後にもう一回……悲田処ひでんしょの霊を調べたかったから……」

 なんてこった。僕らと同じ目的だったのか。

「でも……急に苦しくなって……」

 梅華は、体育の授業をずっと見学するぐらいには喘息の症状が残っていた。僕らでも汗をかきながら登るような場所を歩いていったら……

「ごめんね。最後まで迷惑かけちゃって」

「いや、大丈夫だよ」

 梅華のこういうことは一度や二度じゃない。だからこそ、今までは僕がついてられたが……

「梅華――大事にしてる」



 ……言ってしまった。

 「……わたしも」

 そして、白い日光のなかで、梅華の黒髪がきらりと輝いた。

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悲伝の夏 しぎ @sayoino

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