《伍》 結-ムスビ-

君と共に紡ぐ明日



 薄紅の花弁が、ひらひらとひさしの上へと舞い落ちる。そのうち一枚が入り込んだ酒のはいを、そのまま春明は口元へ運んだ。


「大樹帝は近ごろ、大臣おとどを『じぃじ、じぃじ』と慕って、よちよちと後追いされるらしい。嘘か本当か知らんが、慶長よしなが殿めが自慢してきた」

「わぁ、もうおしゃべりもあんよもなさるのかぁ。確かに、そろそろお生まれになってから、二年ふたとせ経つものね。大臣おとどは目に入れても痛くないってところなのかな」

 しみじみと感じ入りながら、子遠しえんが春明から酒杯を受け取る。


 春明邸の桜は、今年も鮮やかに盛りを迎えた。

 子遠には春明が、去年に引き続き今年も、と、声をかけたのだ。おととしまでいた誰かのように、勝手に上がり込んで一杯やっていたわけではない。それがないのが寂しいのは――不本意ながら、確かだが。


藤壺皇太后ふじつぼこうたいごうが、実に渋い顔をして『帝に唐菓子からがしはまだ早い』と太政大臣おおきおとどから取り上げさせたのを見かけたことがある。あれはむやみに構い過ぎて、大きくなられたら煙たがれるやつだな。すでに姫宮の方は、皇太后を真似て、その気がある。いまから見ものだ」

 ちくちくと慶長に棘をさす春明に苦笑しながら、もっともだと子遠はうなずいた。


「唐菓子は幼児にはちょっと、ね。母君の皇太后様がしっかりしていらっしゃるようだから、よかったけど」

 乳母めのとごときでは太政大臣の暴挙を止められなかっただろう。


「十四で突然、夫を亡くし、幼子ふたりの養母ようぼにさせられたというのに、実に立派なお方だよ、藤壺皇太后は。太政大臣の娘とは思えん」

 戻された酒に唇をつけながら、春明はそう賞賛した。


 二年前の夏越なごしの大祓おおはらえの直前。都はおろか、世のすべてを揺るがす大厄災が巻き起こった。空は赤く膿み、地は裂け、烏の羽根が黒く舞い落ちる中、人々は意識を失い、倒れていった。亡くなった者もいく百といたという。


 狐の大化生だいけしょうが、人の世を手にしようと引き起こした災いだった。

 それを、時の大樹帝が、双璧と謳われた力ある陰陽師ふたりを引き連れて、祓い、鎮めたのである。

 そうして都は安寧を取り戻した。しかしその安寧と引き換えに、帝と陰陽師のひとりは、命を落としてしまったのだ――ということに、世の中的にはなっている。そう、慶長が事を片付けた。


 当の大樹帝が、世を滅ぼそうとした張本人――と、知られるわけにはいかない。事の真実と、大樹帝をそうまで駆り立てた願いを知るものは、春明と、慶長、そして定周さだちかだけだった。


 帝の権威は利用する。けして己が一族の繁栄は諦めない。そう強かに宣言した慶長は、しかし、そのために――と、桐壺皇后腹きりつぼこうごうばら皇子みこを、次の帝に押した。


 己が栄華は手放さない。が、大樹帝の無念もすくい上げようとしたのである。


 そうして新しい大樹帝が即位し、それにともなう大赦たいしゃで、その叔父たる定周の罪は赦された。けれど、彼は彼で、慶長との密約のため、自ら望んで、遠い南の果て、太宰府だざいふの地へと赴任していった。


 定周たち一族がまつりごとの中心から身を引く代わりに、皇后のふたりの子は、必ず幸せにしよう――そう、慶長が約したのである。それを、信じることにしたのだ。慶長は狡猾で貪欲だが、帝が命をかけて憂いた明日を、踏みにじる男ではない――と、悔しいながらも、定周には分かってしまったのである。


 兄の決意にならって、桐壺皇后もまた、内裏での影響力をなくすため、神宮へと入り、俗世とのかかわりを断った。そのため、幼い姫皇子ひめみこと親王は、大樹帝のもうひとりの正妻格。藤壺中宮の養子とされたのである。


 少女のよわいで夫を亡くし、幼い帝の母となった藤壺中宮は皇太后として、父を制しながらよく都を治めていた。時々、私的に元桐壺皇后と子どもたちのことでやりとりをしているとのうわさもあるが――それはあくまで、春明たち臣下のあずかり知らぬことだ。


「――こうした明日を、一番見たかっただろうお人だったのにな……」

 亡き大樹帝の最期の憂い顔がしのばれて、春明はこぼした。最期まで、悲しい明日しか見つめられなかった聡い瞳に、見せつけてやれればよかったのだが。


 春明と子遠のあいだに、しんみりとした空気がけぶった――瞬間。どたどたと簀子すのこを駆ける足音が響きわたった。


「師匠! 春明師匠!」

 滑り込んできたのは、長い黒髪をうしろで一括りにした狩衣姿。まだ少年の齢の細い身体は、その大人の装いに着られて見える。


秀玄しゅうげん、客人がいる」

「あ、すみません。こんにちは……って子遠さんじゃないですか。じゃあ、別にいいじゃないですか」

 ちょこんと下がった頭ににこやかに子遠が手を振れば、そう開き直る。春明は太い眉を思わずしかめた。

「お前、師匠の客人だぞ。その図太さ、本当にどこの誰に似た?」


「そんなことより、師匠、ひどいです! どうして俺の直衣のうしだけ干しておいてくれなかったんですか! 今日お仕事でえらい人のところに行くのに! 師匠が行けって言ったのに! 着るものがない!」

「やかましい、それぐらい適当に術を使って自分でなんとかしろ。出来る程度の術は教えてあるはずだ」

「いやです! なんか洗濯干すのに術使うの、かっこ悪い!」

「どんなこだわりだ。言っておくが、お前の憧れの玄月。あいつは日常生活のありとあらゆることに、かっこうも分別もなく陰陽術を使いまくり、怠惰な生活を貪っていたぞ」

「げ、玄月さんは、そんなんじゃないもん!」


 濡れた直衣を引っ掴み、秀玄はまだ幼いかんばせをぎゅっとしかめた。

 彼は玄月が都に来る前世話になっていた、女陰陽師の息子だそうで、去年の秋ごろから、春明の弟子となって共に邸で暮らしている。

 玄月が都に出てからも、なにかとやりとりしていたらしく、どうもずいぶんと――間違った方向に玄月の薫陶を受けてしまったらしい。


「玄月さんは、かっこよくて、真面目で、きっちりしてて、いつもきりっとお仕事をこなす完璧陰陽師なんです!」

「あいつ、本当に幼子にどんな教育を施してここまでにしてしまったんだ……」

「重症だね……。どれだけキラキラして見えてしまってたんだろう……」

「あんまりな言い様! いいです、自分でかっこよく乾かしてみせます!」


 不憫がる春明と子遠のまなざしに耐えられなくなったのか、勝気に言い捨てて、秀玄はまたどたどたと簀子すのこを走り去っていった。そのあとを、隣のつぼねから出てきた女房姿の式神たちが、おろおろと追いかけていった気がしたが、見なかったことにしてやる。どちらにせよ、上手く直衣を乾かせるといい。かっこよさは、いらないから。


 春明は、あたたかなため息をついた。

「騒がしくて悪いな、子遠」

「いいじゃない、にぎやかで。正直、春明が弟子を取ったって聞いた時は、どうなるかなって心配してたんだけど、楽しそうでよかったよ」

「まあ、確かに、他人と共に暮らす気がなかったのは事実だが……玄月を慕って京まで来たと言われたら……追い払うことも出来なくてな」

 そうして結局、うまい具合に収まっているのだから、どこかで彼も満足げにほくそ笑んでいよう。


「秀玄もそうだが、定周もな。太宰府から堂々と私に助けを寄越せと便りをしてくる。玄月めがなにかあった時に開けと託した手紙に、困ったら私を頼れと書き残してあったらしい。己が名を出せば、絶対に私は断らない、とな」

「う~ん、死後なお甘やかしてもらえることが見透かされている」


 頭を抱えるわりに、忌々しげな春明の口調はどこか嬉しそうだ。「無逸むいつも笑ってるだろうね」と、子遠は傍らへ笑んだ視線を落とした。そこには彼らが回すのとは別の酒杯が、酒を満たされ、白木の小太刀とともに置いてある。


「おまけにこの譲り受けた射干玉の瞳がよく見えるせいで、仕事が増えに増えてな――悲しむいとまもない」

「玄月らしい」


 子遠の隣で桜を見上げるのは、懐かしい黒い夜空の瞳。花びらを散らす風が少しさびしさを運んできた気がして、子遠はそれを大切に抱きしめながら微笑んだ。

「いつまでも、君を飽きさせない男だね」

「本当にな。つまらぬ世も……面白くなるわけだ」


 この花の春も、共に見たかくなかったといえば嘘になる。その姿形のない日々に、喪失で胸を焼かれる日もあった。けれど、それでも――

(共に紡ぐ明日を、求めている……)


 桜の花弁に混じって、ひらりと一筋、紫の光の糸が空を舞って春明の手に落ちてきた。春明が都に放っている符のひとつだ。

 やれやれ、とそれに彼は緩慢に手にした杯を置く。


「またどこかで厄介ごとが起きたらしい。……仕事だ」

「お疲れ様。天下一の陰陽師は休みなしだね」

「仕方ない。これが私の勤めだ」

 ねぎらう友の姿に、春明は肩をすくめた。


「明日の安寧のために――力を尽くそう」

 彼方を臨む射干玉の瞳は、いつかの誰かと同じように、楽しげに細められた。




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陰陽双璧異聞奇譚 かける @kakerururu

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