後編 薔薇の名前
「この薔薇の名前はアレクシアというのよ」
私はディートリンデさんに連れられて、お屋敷の庭に来ていた。
庭にはたくさんの薔薇が植えられており、膨らみはじめた蕾はほとんどが赤か白だった。
しかし庭の真ん中に大事そうに柵に囲まれた薔薇の木についた蕾は、白に赤い斑入り。
「この薔薇、アレクシアは自然交配で生まれたの。庭には元々赤い薔薇しかなかったのだけど、ニコラは白薔薇が好きでね。私とカサンドラさんに直談判して、白い薔薇も植えさせたのよ。赤と白の薔薇が咲いたら絶対に綺麗だって譲らなくて。そうしてこの庭には赤薔薇と白薔薇が咲くようになって数年後に、アレクシアが咲くようになって⋯。最初は薔薇に名前なんてなかったけど、カサンドラさんが何かつけようって提案したの。それでニコラがあれこれ考えて『アレクシア』とこの薔薇につけたの。いつか自分に娘ができたら同じ名前を付けるなんて言ってたわね」
「曾祖母がそんなことを言っていたなんて初耳です」
私の名前は父がつけたものだ。
曾祖母ニコラには息子が二人いた。それが私の祖父と大伯父。祖父にできた子供も息子二人だった。父の元に生まれたのが私と妹。きっと『アレクシア』という名前をつけられなかった曾祖母に代わって、父が私につけたのかもしれない。
そのことをディートリンデさんに話すと、感慨深そうに静かに聞いていた。
「私がニコラに最後に会ったのは、ニコラが結婚する前日だったのよ。もう前のように会いに来れないからと、別れを告げに来て。あの日のことはまだ昨日のことのように思い出せる」
「結婚したら家のことで手一杯でディートリンデさんたちにはなかなか会いに来れないと思いますけど、わざわざ別れを告げるなんて曾祖母はどこか遠くで暮らす予定だったんでしょうか⋯」
落ち着いたらまたいくらでも会いに来ればよかったのに。
「そうね。ニコラはもう私とは会いたくなくなってしまったのよ。私のせいで」
「ディートリンデさんのせいで?」
曾祖母に何かしたというのだろうか。まったく想像ができないけれど。
「魔女は人間とは寿命が違うから、人間とは添い遂げられない。それでも私はニコラとずっと一緒にいたいと思ってしまってね。それを聞いたニコラを悩ませてしまって⋯⋯。それで彼女は結婚を決めてもう私とは会わないことも決めたの」
そう話すディートリンデさんの声は今にも泣きそうなくらいに、弱々しく、寂しそうに聞こえた。
「ディートリンデさんは曾祖母のことが好きだったんですね」
「そう。好きだった。アレクシアは驚かないのね」
「驚いた方がよかったですか? ディートリンデさんも曾祖母も女性ですけど、誰かを大好きになる気持ちに同性同士とか関係ないと思います」
それは私が今まで生きてきて女性にしか恋したことがないから、そう思うのかもしれない。でも私だけじゃなく、他の人だってそう思っていてほしい。半ばそれは私の願望ではあるけれど。
「私、ニコラとアレクシアが似てるって言ったけど、肝心な部分では似てないわね。それが分かっていたら、私はニコラに嫌われることなんてなかったかもしれない」
ディートリンデさんはその場にしゃがむと、そっと白に赤い斑の入った蕾を愛おしそうに撫でた。まるで大切な人に触れるように。その横顔は仮面に隠されて見えなかったけど、私はどんな表情をしているか目に見えるように分かった。
泣いている。きっと。
「曾祖母はディートリンデさんのこと、嫌いになったわけじゃないと思います。それに本当に嫌いになってたら、私の名前はアレクシアにはなってませんよ。曾祖母はディートリンデさんとの思い出の薔薇を忘れたくなかったから、ひ孫の私まで伝わって、そうして私の名前になったんです」
「ありがとう、アレクシア。貴女が⋯⋯、貴女が言ってくれるなら、ずっとわだかまっていた気持ちも昇華できるかもしれない」
「きっと曾祖母が私たちを会わせてくれたんです。間違いないです。私はそう信じます!」
私は自信を持ってはっきり言った。
本当のことなんて見ても聞いてもいない私には分からない。だけど、こうして私がディートリンデさんに出会えたのは、出会って
立ち上がったディートリンデさんが、私の腕を取る。一陣の風が吹いて、木々の梢が揺れる。私は気づいたらディートリンデさんの腕の中で。そっと抱きしめられていた。花の香り、薔薇の香りがした。私も彼女を抱きしめた。
その瞬間に私の頭がディートリンデさんの顔に当たって、コツンと小さな音を立てて何かが落ちる。私は思わず足元を見て、そこに白い仮面が落ちているのが目に入った。ディートリンデさんがつけていた仮面。
私は顔を上げた。そこには青い瞳の儚くも優しく美しい顔があった。あの応接室の肖像画の少女が年を重ねたらきっとこんな顔になるであろう、姿が。あの絵はディートリンデさんを描いたものだったのだと分かった。
「ディートリンデさんの素顔を初めて見られました」
「失望させてしまったかしら」
「どうして失望なんてするんですか?」
「だって私は南の魔女みたいに若くはないから⋯⋯」
「若いかどうかなんて、私には関係ありません」
ディートリンデさんは人間なら三十代半ばというところだろうか。確かにまだあどけなさも残る南の魔女に比べたら若くはないかもしれないけれど、それがマイナスになるだろうか。
「むしろ魔女は年を重ねるごとに魔力も知識も増して、より素敵な女性になるじゃないですか。ディートリンデさんは十分素敵な魔女ですよ」
「ありがとう、アレクシア。最近は南の魔女があまりに皆に人気だから、私は魔女としての自信もだんだんとなくなってしまって⋯⋯」
「もしかして、だから仮面を⋯⋯?」
「自信のなさがそうさせたのかも」
「腕がいいんですからもっと自信を持ってもいいくらいです。見た目も大事な要素かもしれませんけど、魔女は腕が立つのが一番ですからね。もしまた困ったら助けてくれますよね?」
「それは、もちろん」
ほころんだ花のように笑うディートリンデさんは、私の心の中を春にする。
「そうだ、ディートリンデさん、私今悩んでいることが一つあるんですよ」
「悩み? それは私で解決できること? それならいくらでも力になるけれど」
「私の中で何かが始まりそうなんです。いや、もう始まってるかも。あの時から⋯」
「始まる⋯⋯?」
「そうです。恋が!」
「恋⋯⋯。アレクシアは誰かに恋をしているのね。もしかして媚薬を作ってほしいってお願いかしら?」
「媚薬なんて本当にあるんですね。あれって噂だけかと思いました」
魔女が作る媚薬はどんな男女も
「媚薬と言っても、物語に出てくるような相手を虜にするようなものは魔女にも作れないわ。その人をより魅力的にできる『香り』を作れるってだけで。それだって効果が出るとは断言できないし。恋は魔女にもどうにもできないのよ。私がニコラとの恋をどうにもできなかったようにね」
「でも『香り』を作ることをお願いしたらできるんですか?」
「それは、まぁ⋯⋯、アレクシアの頼みなら作るけれど⋯⋯」
「ありがとうございます、ディートリンデさん。ところでその『香り』は魔女に効きますか?」
「残念だけど魔女にはあまり効かないわね。魔女は色んな香りに慣れてるから。あらあら、アレクシアは南の魔女のことが好きなのね」
「違いますよ、鈍いですね、ディートリンデさん」
私がそう言うと目の前のディートリンデさんはきょとんとした顔をして、私を見ていた。
「どういうこと?」
「そこまで言わないと伝わらないですか? 私が気になってる相手は今私の前にいる魔女ですけど?」
はっきり言うと、ディートリンデさんは目を真ん丸にして驚いている。
「ニコラのことで気を遣っているの、アレクシア」
「曾祖母のことは関係ありません。私がディートリンデさんのことを気になっているということです。曾祖母のことが好きだったならちょっとは望みあったりしないかなーって」
「な、何を言ってるかよくわからないわ、アレクシア。魔女をからかうなんて趣味が悪いわよ」
私から目を逸らしたディートリンデさんの顔は赤くなっている。
「からかってなんていないです。私もディートリンデさんのことは知ったばかりだし、今の気持ちは恋というより好奇心かもしれません。けどディートリンデさんのことをもっと知りたい気持ちがいっぱいあるんです」
「本当にアレクシアは不思議な人ね。他の人が言わないことばかり言う」
ディートリンデさんは私から離れると、地面に落ちていた仮面を拾った。そしてその仮面を顔に被せる。
「私、変ですか? いつも本当のことしか話してないですけど。顔、もう隠さなくてもいいじゃないですか。私はディートリンデさんの顔を知っているんですから」
「仮面がないとなんとなく落ち着かないから⋯⋯」
せっかく知ることができた顔が見えなくなるのは残念だ。ディートリンデさんは意外と恥ずかしがりやなんだろうか。でも距離が縮まったら素顔のままでいてくれるかもしれない。
「ディートリンデさん、私毎日会いに来てもいいですか? 取り敢えずまずお互いのことを知って仲良くなりたいです!」
「押しが強いところはニコラにそっくりね。⋯⋯アレクシアがどうしてもというなら構わないけれど」
「やったー! それじゃ毎日来ますね!」
「好きにすればいいわ」
ちょっと呆れているようだけど、ディートリンデさんは笑ってもいるようだった。
北の魔女を知りたいというこの気持ちのたどり着く先はまだ分からないけれど、私はディートリンデさんとの物語を綴っていきたい。
いつか私がいなくなった後も彼女の心に残るような、長い魔女の刻に寄り添えるような私になりたい。
「私、ディートリンデさんに会いに来てよかったです」
「そうね、私もアレクシアに会えてよかった」
春の優しい風がいつまでも私たちを包んでいた。
北の魔女と私が出会った話 砂鳥はと子 @sunadori_hatoko
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