記憶喪失から始まる物語

夕日ゆうや

怖い話

 記憶。

 それは今の自分を形作る大切な情報。

 大脳の海馬と呼ばれる部分が作用して記録されると言われている情報群。

 今の自分の行動原理に関わる大切なもの。

 その情報を失えば、人は変わってしまうもの。


▼▽▼


 俺は、誰だ……?

 目を開け、ゆっくりと立ち上がる。

 周囲に首を巡らせる。

 ベッドにグレーの絨毯、テレビ、ゲーム機、そしてテーブル。このテーブルは冬になるとこたつになるので重宝している。

 どうやら記憶の中でもエピソード記憶と呼ばれる個人的な思い出が失われているらしい。

 意味記憶、つまり一般的な知識は失われていないらしい。だからテーブルやテレビといった物体を理解できるらしい。

 ピンポーンとチャイムの音が鳴り響く。

 俺は立ち上がり、玄関へと向かう。

 ドアを開けると通路に冷蔵庫、洗濯機、台所がある。右手に風呂とトイレが見える。

 ドアのチェーンを外すと、ドアを開ける。

「昨日はごめんなさい」

 ドアの前には可愛らしい娘が一人。

 赤茶色の髪を長く伸ばし、くりくりとした水色の瞳がこちらを見据えていた。全体的にスレンダーな体型で、胸は小さい。小柄な彼女は、童顔も相まって、中学生くらいに見える。ともすれば小学生にも。

 でもそう思わせてくれないのは服装にある。

 ピンク色のブラウスに、黒いスカート。手首にはシュシュをつけており、おしゃれなチョーカー。

 少し大人っぽいメイク。

「誰?」

 俺は素直に漏らすと、その子は目を見開く。

「そんな冗談やめてよ」

「いや。本当に」

 目から涙がこぼれ落ちた。

「本当に忘れちゃったの……?」

「……すまない」

 俺は胸がズキズキと痛む。

「俺、自分の名前すら覚えていないんだ」

「わたし、小泉こいずみ音子ねね。あなたは狩野かりの健太けんた。わたしの恋人よ」

「そう、なのか……」

 確かに小泉さんは可愛い。

 でもどこか引っかかる。

「俺たちはどこで知り合ったんだ?」

「……」

 何かを考え込むように目をそらす小泉。

「小泉さん?」

 俺は怪訝に思い訊ねる。

「……あ。うん。ごめん。大学で出会ったんだよ? それに小泉さんじゃなくて音子って呼んで」

 涙ながらに言葉を紡ぐ小泉さん。

「う、うん。分かった」

 泣きつく小泉さんに言われたら俺は断れない。

「こ、音子さんはどうして俺を好きになったんだ?」

「それも覚えていないのね……」

 悲しげに目を伏せる音子さん。

「健太くんが好きになってくれたから、わたしも好きになったの」

「……そっか」

 俺、音子さんのことを好きではない。

 もちろん外見は可愛いし、衣服のチョイスも俺の好きなものだ。でもそれは外見だけでしかない。

 彼女の内面を何も知らないのだ。

「ごめん。今日は帰るね」

「え。ああ……」

 俺はそう答えると、ドアを閉じる。

 音子さんが去るのを待ってから時計を確認する。

 昼時。

 お腹の空いた俺は財布を握りしめ、コンビニに向かう。

 コンビニに陳列されている弁当を眺めて、一つに決める。

「今日もそれを買うんですね!」

 店員さんが嬉しそうにはにかむ。

 いつもの俺はこれを食べていたらしい。


 家に帰り空腹を満たすと、俺はなんとなしに日記やアルバムを開く。

 そこには音子への思いが綴られていた。

 だが途中でその記録が抜け落ちていた。

 俺は音子のことが好きだったらしい。

 が、今は……。

『人格破壊者!』

「なんだ?」

 音子の声が頭に響く。

『こんな奴のこと、好きになるんじゃなかった』

 なんだ。この声は。

 まるで音子の声のようだ。


 俺が自宅に戻ると、一件の電話があった。

『もしもし? 健太くん? ゼミ休んでどうしたの?』

 女の子らしい声が耳朶を打つ。

「あー。俺のことか? それ」

『え。ど、どうしたの? 健太くん』

 女の子が驚いたように息を呑む。

「俺、記憶喪失になったらしい」

 ガタッと地面にスマホが落ちる音がなる。

『ご、ごめんなさい。動揺して。今からそっち行くから待って』

「あ。君は?」

めぐみ相川あいかわ恵!』

 しばらくして恵がやってきた。

 烏羽色のロング。あどけなさを残した端正な顔立ち。

 おとなしめなメイク。

 胸も含めスレンダーな体躯。

「すまん、恵さん。俺、何がなんだか分からなくて……」

「あ。名前呼び」

 頬を赤らめる恵。どこか嬉しそうだ。

「ああ。すまない。相川さん」

「いえ」

 少ししんなりする恵。

「ささ。入って」

「お邪魔、します……」

 何やら抵抗があるのか、遠慮がちに入ってくる恵。

 俺は片付けが上手だったのか、部屋はキレイだ。

「健太くんは、成績優秀者だったの。だから大学院への進路を薦められていたし、健太くんもそれに納得していたの」

「で、でも。俺、勉強とか、忘れているぞ?」

「そ、そんな……」

 潤んだ瞳で、うつむく恵。

 そこでチャイムの音が鳴る。

「誰だろう?」

 俺はぎぃっとドアをきしませる。

「音子。どうした?」


























「死んで」

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記憶喪失から始まる物語 夕日ゆうや @PT03wing

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