空操リ旅行記

空操リ旅行記





 0/プロローグ





 鬱陶しい砂が絡みつく。

 その白さがやけに眩しく僕の眸を射た。相棒奈津は何にも気付かず、砂の上を行ってしまった。

 ……追わなきゃ。

 懸命にもがくけれど細かな砂は僕の足を埋め、脚を埋める。

 太陽が近い。

 決して朝日や夕日の近さではない。天頂にぶら下がっているクセに、辺りに何も無いから近く感じるのだ。銀色の日光に照射された空気は驚くほど澄んでいて、僕の肺は吸い込むことに躊躇いさえ感じる。だって、この暴力的な鋭さ。ひょっとして割れた硝子みたいに身体の中を傷つけるんじゃないかって思えるくらいだ。

 なんだか、酸欠になりそう。

 遠のく彼女の姿はマッチの先以下。でも忌々しいことに、着陸でもしない限りどんなに遠くに行こうとも姿が視界から消えることはないだろう。なんせ此処には障害物が何も無いんだ。

 知ってる? 見えているモノに手が届かないって結構苦痛。特に、それがすぐにでも必要な時は尚更ね。

 僕の馬。

 あーあ……なんで動かないんだ……?



×××××



 体中から水分が抜けるのを感じて、ハルは観念した。

 腰まで砂に埋まっている姿は、学校の連中……特に教師陣からしたらさぞ滑稽なものだろう。活発で止まるという事を知らない問題児が、両腕を砂の上に投げ出して身動きできないで居るのだ。さながら萎れたゴム毬のよう。

 仏頂面がまた見もの。

 ハルの担任教師がこの場に居たら、きっと嬉々として踏んづけてくるに違いない。ハルは教師の得意げな顔を想像して益々仏頂面に磨きをかけた。この状況を一刻も早く打破したいところだったが、如何せん乗り物の馬が動かないのでどうしようもない。

 今はまだ良い。埋まっている場所は塩が多分に含まれてはいるが、ただの砂の平原。特に危険そうな動物もうろついていない。しかし、問題はこの白い大地が本来の姿ではないという事だ。

 この瞬間にも、元通りに。……そう、海が戻ってくる危険性があった。もし戻ってきたらあっという間に全てを飲み込んでしまう。馬がなければ対岸になんて到底渡りきれない。

 そして頼みの綱の彼女、碓氷夏の辞書には、引き返すなどという言葉は載っていない。だから彼女がここに突然現れて、手を貸してくれるなんてことは考えられない。考えてはいけない。


「とうとう故障?……やっぱり?」


 シリアスな考えがハルの頭の中を占拠し始めて、2時間が経過していた。最初は立ったまま耐えていたのだが、足が埋もれた時点で歩くことが出来なくなった。

 お腹も随分空いていた。

 膝をついたら済し崩し、そのまま純白の地面に座り込んでしまった。そして今や腰まで埋まってしまっている。流砂ではないのがまだ救い。しかし、底の無い柔らかな砂の上でもがけば身体を沈めることは実証済みだ。せめて浮いていようと腕を投げ出したものの、その体勢も疲れてきた。

 このまま頬を地面につけて寝転がったらさぞ楽だろう。しかしその最終形態は避けるべくじっと耐えた。柔らかくも濃い濃度の砂は、ハルの体に含まれる水分を順調に吸っているようだった。

 手の中の馬を見遣る。

 もう何度目か知らず、彼女は作業のようにそれを振ってみたのだが、やはり反応はない。古い年式のSN3号は尻尾をしんなりさせて炎の欠片もなく横たわっていた。


「落馬しなかっただけマシか」


 二時間前、ポケットに入れていた手袋が落ちたので、探しに此処に降り立った。再び乗ろうと振り返ると、SNが徐々に縮んでいく姿が目に飛び込んだ。それと共に血の気が引いたが携帯モードへと勝手に移行したSNは、何をしてもぴくりとも動かなくなってしまった。

 


 ハルの頭を悩ませている事がもう一つ。

 ハルを置いていった張本人、奈津が、本人の知らぬところで小さな失敗をしでかしていた。

 彼女は、財布を部屋に忘れていった。

 ハルは奈津の財布を持って追い掛けたけれど、結局渡せずに今に至る。木から下りる前に気付けば良いのに、馬に内臓されているカードで交通費を払ったに違いない。彼女のUD45号は最新型で、多機能なのが仇となった。いくら馬が財布代わりになると言っても、それはハルと奈津のいる世界だけのことで、この地上ではまったく意味をなさない。

 ふと、古典の授業で習った「タイムマシーン」を思い出してハルは埋まりながらぶる、と身を震わせた。勿論ハルだって地上の人がモーロックだとは思ってはいない。しかし、財布を忘れた奈津が心配だった。

 彼女はどこか抜けている所があるから、払ったつもりで無銭飲食しかねない。代金の形に、どこかに連れて行かれてしまったらと思うと……。

 砂の海で盛大なため息をついて、ハルは今度こそへたりと砂に頬をつけた。


 どろどろどろ、


 音は遠く、それでも確実に聴こえた。

 余りに力強い低音なので、振動としてもハルの地面につけた右耳に伝わった。

 ヤバイ……。

 海が迫ってきている。

 水が遠く、知らぬ世界からやってきて砂の海を埋める。その前兆。


「こら、SN!起きろ、起きて」


 ハルは左手のカードキーに言いながら、右手で馬のストラップ部分を持って振り回してみた。辺りを湿った空気が流れ始める。先刻まで透明に乾燥していた空気は水蒸気でぼやけ始め、銀の太陽も揺らいでいる。砂の表面はまださらさらと流れているけれど、埋まっている脚に徐々にだが重さが掛かってきた。

 水蒸気があっという間に濃霧に変わり、ハルの視界を奪う。

 八方を文字通りつかみ所のない厚手のカーテンに覆われる。ふと、真っ白な砂の平原で自分が黒い点のような存在だったことが頭をよぎった。そう、この砂海には他に誰もいないのだ、誰一人助けてはくれない。

 ぴちゃ……。

 轟の正体が胸を濡らし始める。

 湧き出される水は地面の塩分を吸って塩水に変わり、ぐんぐん水高を上げている。

 背筋が凍る。この瞬間を想像しなかった訳では無い。けれど、想像で固めた覚悟は現実を前に脆くも崩れ去った。眼前に迫った恐怖にパニックを起こしかける。


「こら、SN……お願い、起きて……起動してッ……!」


 夢中で馬を振り回していると、突然。

 ハルは宙に放り出された。

 視界が真っ暗になり……

 蹴られたのだということは、

 後で知った。








1/




 

「で……、どうして私が財布を持ってでなかったことを知ってるのよ」

「だって、机に忘れてあったよ。引き出しン中ならともかく、上に乗ってるんだもん。見えるって。呼んだんだけど、行っちゃうしさ」


 麻生春と碓氷奈津はルームメイトだった。

 期末テストを終えて、そのお祝いに酒盛りをしようとして今回の事件は起きた。


「あー、もう……なんでこんな時期にレポートなんて……」

「泣きたいのは僕の方だよ……」


 まだ1年生の二人は許可無くして地上に降りてはいけない。仮に許可が下りて地上に行けたとしてもそれは、研究の範囲の事であり、売買を行うなどもっての外。地上の醸造酒を虎視眈々と狙って降りた結果、二人は謹慎処分。テスト明けの自由をあっさり剥奪された。

 レポートを放り出してハルはベッドに転がった。

 放り出された紙が空中を滑って、次々と床に落ちた。



×××××




 眼下に広がる海を確認し、自分が助かった事を改めて実感して、胸を撫で下ろす。

 ずぶ濡れの服の裾を絞ると、空気中の水分を蹴った。やっと動いたSNで都市と呼ばれる巨木の森の入り口に着くと、UDに乗った奈津の姿……それから仁王立ちの担任と、困り顔の校長の姿を発見した。

 罰則はレポート百枚。題目を自由に決めて良いのがまだしもの救いだろうか。

 兎に角、奪われた自由を少しでも多く取り戻すために早く書き上げなくてはならない。図書館で本を借りられるだけ借り、それでも足りない分はコピーをしているうちに、部屋は大量の資料に埋もれてしまった。

 燐光のカンテラの明かりを最大限にして二人はレポートを始めたものの、どうにも手につかない。一旦遊ぶ気でいただけに勉強用に頭を切り替えるのにはやや時間が掛かるようだ。

 担任の紅葉にしても、休み返上が決定。

 二人がいつ完成したレポートを提出しに来ても良いように、空操リの研究室に籠もるという。

 紅葉は、脚が不自由な割に二人の逃亡阻止率は学園1を誇る。名前通り紅葉のように赤い怒り顔を思い浮かべて、ハルは改めてペンを握りなおした。


 短い栗色の柔らかい髪をくしゃくしゃと掻き揚げてレポートに集中しようとするハル。

 レポート用紙は大半が白く、未だ「浅生 春」という名前しか記入していない。机が不自然に大きく感じるほど彼女は華奢で身長が低いのだが、これでもれっきとした大学1年つまり、18歳である。

 同じく「碓氷 奈津」としかレポート用紙に書いていないのは、ハルの同学年のルームメイト。肩より少し長いくらいの黒髪はそのまま下ろしている。椅子に腰掛けて脚をぶらぶらさせて明らかに集中していない様子。実際何度かキッチンに珈琲を淹れに立っていた。


 二人は都市の総合大学で知り合い、意気投合して一緒に入寮した。シェアすれば部屋代が安いということもあるのだが、単純に何かを企む時に都合が良かった。

 知り合って二人で為した大仕事は両手の指では足りない。取り扱い説明書が大学で出回るほどの要注意人物として見られていた。駆るのが難しい馬の免許を持ち、1年では唯一騎手の称号を持っているのも二人が悪目立ちする理由の一つだろう。


 巨木の森で最速の乗り物が馬である。

 乗り手を選ぶので、免許を取るには自分にぴったり合った馬を見つけるところから始めなくてはならない。事実、慣れない馬で騎乗をした為、二人は高校の頃に試験に一度落ちていた。



×××××



「ねえ、ハル……」

「ヤダ。僕ヤだかんね」

「そんな事言わないでよ、ドーナツ5個でどうだ」

「……ぅ」


 資料に埋まりながら奈津が不穏な取引を持ちかける。奈津の机の上は無駄に付箋のついた本が左右に積まれていて、今にも崩れそうだった。


「奈津、そんな事より珈琲危ないよ。図書館の本の上なんかに乗っけて汚したら……」


 本の山の上には、奈津のお気に入りのマグカップが鎮座していた。青い鳥が描かれているカップからは、まだ香気たっぷりな湯気があがっていた。


「6個」


 ふわふわと漂う珈琲の香り。甘いものが似合いそうな、その香り。


「……」


 ハルは甘いものが好きだった。

 甘いものを燃料にして生きていると言っても過言ではない。

 対して奈津は辛いものが好きなのだが、それは此処では関係のない話。


「それじゃ、10個でどうだ!」

「のった!!」


 UDはもともとハルの馬だ。しかし、相性が悪くとても乗れなかったので旧馬SNをもてあましていた奈津と交換したのだ。

 スペアキーは元の持ち主が持っている。これといって理由は無い。単に交換したときにスペアを一緒に渡すのを忘れただけだ。それでも、希少な馬を盗ろうとする不届き者もいる世の中、一人でキーを管理するよりは信頼する誰かに持っていてもらうのも防犯の手だろう。

 それにこのような場合にも。

 ハルはドーナツ10個でスペアを渡す約束をすると、きっちり締めていたネクタイを緩め、あっという間に上着を羽織った。短い茶色の乗馬用ジャケットだ。ポケットが沢山あるところがお気に入り。

 夜の23時、パジャマに着替える方が自然な時間、彼女は外出の支度をせっせと始める。帽子を目深にかぶり、カバンを斜めに掛けて件の手袋を嵌めて準備完了。


「さあ、奈津のスペアも渡してよ。下だったらまだドーナツくらい売ってるはずだしさ。置いてきぼりはなしだよ」


 笑ったハルはすでにSNを握り締めて窓辺に立っている。渋った割にはあっという間だ。前髪が下界から吹き上げる風に持ち上がって嬉しそうな表情が良く見える。


「ちょっと、スレイプニル今日は調子悪いんじゃないの?」


 奈津も元々だらしなく緩めていたネクタイを外し、ロングコートを着込むとグローブを嵌めた。眉間にしわを寄せて首を傾げている。


「地上までおっこちたいの?」

「落ちないよ。あれは、僕のミスだ。SNの状態しっかりみてなかった」


 カード状の鍵を入れた革ケースを奈津に放りながら、ハルは照れたように言った。本来の鍵は校長に没収されてしまったのでこうしてスペアを使うのだ。

 ハルは奈津から同じように放られた鍵を受けとるとにんまり笑った。


「昨晩、SNがテレビ観てたんだ。……コイツ、寝不足だったんだ」

「あんたんとこの馬って変わってるね。空操りのくせにテレビ見るなんて。ウンディーネはそんな事しないわ」

「本来奈津んとこの馬だろう? 変って言うなよ」


 奈津は髪を一つに縛りスタンド点けっぱなし、資料広げっぱなしのままUDを机の上から拾い上げた。窓辺のハルの横に立つと、はあ、と大きく息を吐く。

 吹き上げる風は強く、気を抜くと身体を持っていかれそうになる。本のページが捲れ、窓やドアが鳴る。二人の制服のスカートが闇に翻った。

 レポートなんか帰ってからやれば良い。

 担任はさぞかし怒るだろうが、そんなことを気にする二人ではない。


 窓の下は一面雲で覆われていて、地上の灯など見えはしない。

 仮に晴れていたとしても此処は巨木の森。太い枝や幹に邪魔されて下の景色を見ることなど出来ない。


 

 何時の頃からか人は地上と巨木とに棲む所を分かち、それぞれ独自の歴史を辿ることとなった。ハル達巨木に住む人々は木に寄生する技術を身につけ、地上の遥か上空で暮らしている。

 巨木の森を覆う雲の群れの更に上、星のように街の明かりが煌く世界が2人の故郷だ。



 二人は巨木の梢の間を流れる雲の河に向かって身を躍らせた。

 落下する。

 見る見るうちに、二人の後ろで寮の部屋の明かりが小さくなっていく。同時に複数の部屋の光が現れて遠のき寮全体の輪郭を彩る。

 ケースの上からスイッチを探り当てて押す。


「SN起動……今度はちゃんと起きてね」

「ウンディーネ起動……」


 声紋を記録してあるキーは持ち主の声に反応する。スイッチは携帯モードの解除。風を切って落ちる中、空気の抵抗による音以外は音らしい音をさせずに二頭の馬は起動した。

 SNは尾と鬣、そして蹄を火のような揺らめく光に変え嘶くように首を振ると、ハルを背に受け止めた。

 落下する。

 巨木の枝に到達する直前、ハルが振り仰ぐと折りしも月が梢の間から顔を出し、空に浮かぶUDと、それを囲む学園都市の姿をありありと照らしだした。

 UDは長い身体をうねらせながら奈津を銜えて背に乗せる。透明な鰭が月影を反射させて一瞬光り、ハルのSNのように重さに任せて落下してくる。

 SNの四つの蹄が重量を押し付けると、鈍い音がして巨大な枝がしなった。巨大な葉が背に乗るハルのすぐ傍を掠めてまた元の位置に戻っていく。

 地上までの道は覚えている。

 ハルはUDの鰭が空気を震わす甲高い音を聞きながら、早くも巨木の幹に沿った道へと走り出していた。


 身体を馬に固定すると、ハルは早速感覚を馬の身体へと切り替えた。

 自身の体が徐々に木偶へと変わる。途端に道がはっきりと見えた。

 SNのようなまさしく馬の形の「馬」は今生産されていない。しかし走る姿は他の、機能を重視した「馬」よりも美しいと騎手であるハルは思っている。

 炎の残像を残しながら枝々を走り回るSNは確かに見るものの目を奪っていたから、それはあながちハルの思い込みではないのだろう。


 UDの枝を滑るように動く姿が何時の間にかあった。

 SNの傍で蒼い胴を器用に動かしながら枝を走っている。


『ハル、聞こえる?』


 SNの耳にUDからの声が聞こえてきた。


『何?』

『最短距離で行きましょう』

『……短気だなぁ』


 SNは地団駄踏むように脚音を乱した。馬に乗ることが好きなハルは、枝を通り、幹を伝っていく方法を好んでいた。遠回りで、ゲートで交通費が掛かるけれど、長距離の走れるコース。幹に付いた螺旋状の道を他の馬と速度を競って下まで降りる、そのスピードとスリルが堪らないのだ。

 一方で奈津は目的地にいち早く着くことを好む。

 彼女が面倒臭い事が嫌いな性格である事は知り合ってすぐに知った。此処で彼女の言うところの最短距離とは、例え馬を駆ることの出来る学生や教師がいたとしても、絶対に追いつけないコースの事だ。

 そう、例え紅葉が追いかけてきたとしても逃げ切れるだろう。

 何故なら彼らはそんな無茶、しないから。


『先に行くわよ』


 UDが突然枝から消えた。

 仕方無しにSNも飛び降りる。

 迷路のように入り組んだ枝の間を走るのではなく落ちる行為は、恐らく二人にしか出来ない。蒼と赤の線が一直線に落下していく。


 馬の上に乗った体が枝にさらわれたら、その時点で騎手の生命は無い。暫らく馬は走るけれど、それは馬に残った意識がそうさせるからで、騎手の身体が死んでしまったら馬も止まる。

 そうした事故が馬を導入した時点で大量に発生した。身体が死ななかったり、それが最初の頃に作られた馬だったりした場合は、乗り手が落ちて尚暫らくの間、騎手を持たずしてその辺りを走り回っていた。

 しかし如何せん大きな乗り物の事である。勝手に走り回る危険な彼らを街に入れる訳にはいかなかった。

 巨木の森の一角に騎手のない馬を繋いでおく墓地が作られたのは、自然な成り行きだったと言える。

 昨今では馬の免許を取るのは大の大人でも難しくなった。技能でも学科でもその難易度は国家試験の中でも一、二を争う程に高い。

 落下の事故は、必然的に減った。

 皆無茶な運転をしなくなったから当然の結果だった。


 SNの視界は速度で急激に狭くなっている。

 現れては即座に消える障害を一瞬の判断でかわす。

 感覚を移した筈なのに内蔵がせりあがるようで、動悸が一段と早くなった。どきどきと、SNの耳ではなく、自分の身体の耳の内を血液が流れていく。全身の筋肉がぎゅっと萎縮する。

 しかし、緊張によるものではない。


『ああ、楽しいッ!!』


 UDから声が聞こえてきた。奈津が、普段すました顔をくしゃっとさせて喜んでいる姿が目に浮かぶようだ。ハルも大きな声で叫ぶ。それはきっとUDの耳にしか届いていないだろうけれど。木の枝の間に隈なく行き渡るように目一杯声を発した。

 事故なんてものは考えられない。

 まるで自分の足に感じるように四つの蹄が宙を蹴る感触が心地よかった。

 SNの警鐘。

 地面まであともう少し。

 極限まで狭まった視界に地上が見えた。未だ片付けられない瓦礫の山が広がる。此処は昼間の砂海に一番近い海岸だろう。


『何処行く?』


 普通の人ならば勢いを殺し損ねて墜落しかねない速度だと言うのに平然とした奈津の声が聞こえてくる。


『んー……そうだな……』


 ハルは心の中で腕組みして考えた。

 馬の着地に備える。ぐんと首を上げさせて空を向かせ両前脚に負担が掛からないようにぐるりとU字を描くような軌道を取らせた。SNが斜めに傾ぐのを確認してから返事をする。


『僕、甘いもののあるところなら何処でもいいよ』

『そうですか』


 UDの鰭も目一杯広げられて着地の準備に掛かっているのが分かる。

 落下する勢いを、宙を上る軌道を取る事で殺す。二頭の速度はだんだん落ちてきた。完全に殺しきってから、空気中の水分のクッションを踏んで再度地上に向かった。

 地面に散らかるガラクタを蹴散らしてSNが着地する。雨が降っており、砂埃は立たずに割りと静かな到着だった。傍から見れば何かが爆発したのではないかと勘違いするほど派手に色々なものが飛び散ったが、まあ、それは夜中のこと。夜の海岸では見る者も居らず事件にはなりそうもなかった。

 蹴られたガラクタが金属の虚ろな音を立てて転がった。

 UDは少し宙に浮いたまま止まった。

 ハルが意識を自分に移す直前、UDから奈津の声が聞こえた。


『あ……財布忘れたわ』



×××××



 地上の町は古風だ。

 人の姿は巨木の町と変わらないのに、建造物が鉄筋コンクリートで出来ている。最初二人で地上に降りた時は、歴史の教科書や図鑑、はたまた映画の世界に入り込んだようだと思った位だ。

 良く晴れた空に、鉄塔やタイヤのついた金属の乗り物の残骸が光っていた。罅割れた壁にトキメキを感じながらふらふら歩いていると、何時の間につけて来たのか、当時はまだ担任でなかった紅葉にとっ掴まり、記念すべき初の謹慎処分になった。

 今日は雨。

 古風なコンクリート群は罅に殊更水分を含ませて佇んでいる。馬を携帯モードにしてハルは腰のベルトにスペアキーと一緒にぶら下げた。巨木を歩くのとはまったく違う地面の感触。

 コンクリートの建物に人が殆んど居ない事は、別に不思議ではない。上から見ていても町の灯はもう少し海岸から離れた所に固まっていた。


「ハル、いい加減機嫌直してよ」


 UDをブレスレットのように手首に巻きつけて奈津が後ろから追ってきた。折角地上まで来たというのに、財布を忘れたら何もすることが出来ない。ハルはつんと上を向いて奈津を無視して進んでいった。


「ていうか、お金貸して」


 髪を雨に濡らして二人、灯りのある町の中心へ進んでいる。奈津の無責任な声に、ハルは思い切り足元の石を蹴った。

 怒り爆発というヤツだ。


「ドーナツ奢ってくれる約束はどうなったのさ。僕もうお腹へって死にそうだよ!!奈津の馬鹿、馬鹿、馬鹿!!!」


 食って掛かるハルはまるできゃんきゃん鳴く子犬のようで、奈津は思わずその頭を撫でた。


「いい子ねー……上に戻ったらお姉さんがドーナツ12個買ってあげるからね。だから大人しくお金貸してね」

「うちら、同い年じゃん!ガキ扱いすんなよ!」


 その約束も当てにならなそうで、しかも全然悪気なさそうで、ハルは奈津に抗議しようと腕まで振り上げたのだが……。


「待った」

「むぐぅ!!」


 手で口を塞がれて動きを止めた。奈津が鋭い視線を向けた先を見る。頭上から見たことのない馬が海岸に向かって落ちていくのが見えた。その馬はまったく生気なく雨を白く引っ張りながら落ちてきた。宙をばらばらに蹴っている。……随分古い形の馬だ。


「……誰、だろ」


 奈津が呟く。


「逃げる?」


 手をどけて、ハルは奈津に訊いた。腕時計を確認すると24時半。かなり遅い時間帯だ。ずん、と遠くで音がした。二人とも身を硬くする。方向から降りたのは、恐らく二人が着地したのと同じ海岸だ。着地の跡が騎手の目に止まる可能性は大きい。

 町まで行ってしまえば雑踏に紛れることが出来るから、こんな訳の分からない時間に落ちてきた相手に会う可能性は少なくなる。


「UD起動」


 小声で奈津が自分の馬を起こす。手首に巻かれたUDは伸びをすると見る間に大きくなって石ころだらけの地面に浮いた。


「乗って。UDなら音しないし、目立たないから」


 ハルは頷き、奈津の手を借りてUDの上に飛び乗った。



 馬は機械ではない。「空操り」と呼ばれる巨木の森で開発された機構を使っている。物が持つ心を引っ張り出すのだという説明を教習所で二人は習った。

 だからハルはSNがテレビを見ていてもそんなに驚かなかった。

 UDと違ってSNは我侭で、持ち主をたまに蹴り上げたり寝不足で起動できなかったりとなかなか扱いづらい。


「いいなあUDはいい子で」


ハルが以前言うと、奈津は


「スレイプニルってあなたにそっくりよ」


 と笑って言って携帯モードのSNを撫でて……指を噛まれた。以来彼女は滅多なことがないとハルが誘ってもSNの背中に乗ろうとはしない。


 蒼い身体は滑るように道を進んだ。

 奈津は安全運転のため意識をUDに移している。ハルは後部座席に座りコアラのように、固定されている奈津だった木偶を抱きしめていた。温かさはないが、雨の中彼女の香りがした。

 力なく垂れ下がった腕が時折揺れる。

 目を閉じて頭を垂れる彼女は起きている時よりも素直そうに見えた。

 思わずふふ、と笑って頬をつついてみる。


『私の身体に悪戯しないでよね』


 UDが首を擡げてハルに言った。

 ハルははいはいと返事をしながら、それでも落書しようかなと奈津の長い睫毛を見ながら思った。


 先ほどから後方で未知の馬の脚音が聞こえる。

 地上に暮らす人の安眠をまったく考えていないようで、規則的にビル群の地面を揺らしている。その音にハルは不安を覚えた。


「ねえ、」

『なに?』

「僕の馬にさ、脚音似てると思わない?」


 真っ暗な中、沈黙が降りた。絶え間なく聞こえてくるそれは確かにSNの早駆けを崩したようなバランスの悪い音だ。なんとなく、虚ろな……先ほどの着陸時にSNが蹴り上げたガラクタのような響きをさせている。すい、と首を擡げてUDは後方を見つめた。

 暫くそのままの体勢で脚音を聞いていた。

 突然雨音が脚音に勝った。

 UDは思い出したようにびくりと身体を震わせると急に速度を上げて闇の中を突き進んだ。





2/





 電飾が輝く場所。

 雨の中、それらは光源を中心に球状に光を放っている。様々な色が昼間のように道や壁を照らしている。それでも、樹上の燐光のように温かみが無いのは何故なのだろうか。

 足を踏み入れてしまえば雑踏に混じるからか照らされる事に抵抗は無くなるが、絢爛な光の群れはどうにも物質的だ。派手な光。馴染んでしまえば、その灯さえ町と同じ古さであると感じる事が出来る。埋まっていた半世紀前の硝子細工のようなものだ。掘り出したら案外新しく見えるというもの。

 二人は町に着くと、入り口付近にあった飲食店街に転がり込んだ。

 広々とした空間に幾つもの店が入っている建物で、看板ばかりで店内の明かりは暗く、巨木のフードコートと比べると余りにも汚い。ずぶ濡れの二人が入っても気にする人は居なかった。

 天井には剥き出しの配管が突き出ていて、そこからまるで氷柱のようになんだか判らない物が沢山ぶら下がっている。姿は見えねど小動物の気配を感じる。時折かさこそと予想外の所から音が聞こえてくる。

 テーブルも汚れているし、ベンチは錆びていて座るとみしみし音を立てた。しかし、整然とした景色よりもずっと面白味がある。どんなに夜遅くても営業していて、誰かしら人が居た。沢山の話し声と割れた音で流れる音楽が入り混じって一つになって、空間を満たしている。時折、ざわめきに混じって食器をひっくり返す音。でも誰も振り向こうともしない。

 ごたごた散らかる一部になってテーブルに突っ伏している姿もある。


 大きな窓から見える景色はガラクタをひっくり返したようで、見ていて楽しい。雨だというのに、往来は大変繁盛している。地面には油が流れるように表面が鏡となっていた。街灯を反射させてまるで金属のように鈍く輝く。

 濡れた為、肌が冷えていて二人は温かいものを求めて各店の読み辛いメニューを覗いて歩いた。

 昨日の朝刊を読んでいる人や、テーブルゲームを行っている人の間を縫って進む。こうしてみると普通の人達で住む場所が違うだけ。皆、する事は一緒。ハルと奈津と同じ。食事を主な目的としてここに居る。


「ケーキとドーナツとお汁粉……そしてとどめはココアね。マジ気持ち悪いんですけど」


 奈津がハルのトレーを見てげんなりした顔で言った。


「君は……ハンバーガーとサラダか。いたって普通、つまんなーい!」


 ベンチでハンバーガーを頬張りながら、奈津はハルの食べ物をなるべく見ないように目を逸らした。しかし、甘ったるい匂いはベンチを包み込むように、寧ろ食べているハルから匂うのではないかと思うくらい容赦なく奈津のもとまで漂ってくる。気のせいか、二人の周りのテーブルから人が去っていくように奈津には思えた。


「泊まるとこ、どうしよう」


 ハンバーガーを食べ終わって、包み紙を丸めながらぼそりと奈津が言った。満腹になると眠くなるのが自然の摂理というもの。寮の窓から落下してもう随分たっている。

 二人は地上を楽しむのは明日にすることに決めた。物価が安いので、(ハルの)手持ちの金だけで結構色々な事ができるのだ。


「僕、今は金持ちだけど安いトコがいい」


 ハルはそう言うとぐびりと残りのココアを飲んだ。



 町の宿にチェックインすると、二人は馬を外して小さなテーブルに乗せた。二頭はとことこ(UDはくねくね)歩き回って場所を確認すると睡眠モードに勝手に移行した。奈津は靴を脱いでベッドに転がり、ハルは冷蔵庫の中を覗いて明日の朝飲めるものがあるかをチェックした。


 歯を磨き、交互にシャワーを浴びることにしてジャンケン。

 最初に奈津、次にハルの順番で風呂に向かう。

 シャワーは熱く、冷えた身体を芯から温めるようでぼんやりとした眠気の膜が全身を包み込む錯覚を覚える。

 ハルは短い髪をタオルでごしごし拭きながら下着だけの姿で部屋に現れた。部屋の床は薄いカーペットで覆われており、お湯で柔らかくなった足の裏に心地良い。空調も音は気になるが、室温は具合良く保たれている。宿の埃と黴と洗剤の混じった不思議なにおいが微かにハルの鼻をくすぐった。

 奈津は既にうとうとしており、時折スタンドの明かりに眩しそうに目を瞬かせる。


「ねぇ、奈津」


 ハルは彼女が寝てしまわないうちに声を掛けた。


「UDでなんか見たでしょ」


 そう、雨が強くなった直後にUDの身体が不自然に震えた。ハルは馬と同化していなかったからただ闇ばかりが目に映ったけれど、奈津はUDに感覚を移していた。彼女だけはあの時、暗闇でも昼間と同じように景色を見ることが出来た。


「……んん……別に」


 奈津はさもスタンドの明かりが眩しいのだという素振りで、寝返りを打ってハルに背を向けた。ハルはため息をつき、布団に潜り込むとスタンドを消した。

 ……あの馬は何処へ向かおうとしていたのだろう?

 眠りに落ちる直前、彼女は虚ろに響く足音を思い出して身震いした。乗り手は、どうしてハル達と同じ海岸に下りたのだろう。リアルに想像した音は、実は窓の外から聞こえてきたものだったのだが、半ば夢の世界に旅立っていたハルは本物だと気付かないまま意識を手放した。



×××××



 ハルと出会ったのは図書館だった。

 馬の免許を取る為勉強をしに入った先で、分厚い本を熱心に眺めるその少年に目が吸い寄せられた。難しい題の本を周りに山と積んで、他のものは全く目に入らないかのように夢中で読み漁る、その真剣な眼差し。

 向かいに座って奈津は勉強道具を開くと、取り敢えず眼鏡をかけた。ノートに公式を書き込んで暗記しようとしたのだが、まったく集中できずに無為に時を過ごした。

 いつの間にか目の前の本が次々に読破されているさまを呆れて見ている自分に気が付く。


「ボク、難しい本読むんだね」


 小声で話しかけると、きちんとした身なりの少年はきっと顔を上げ、怒って睨んできた。

 同じクラスの麻生春だと知ったのは、目ががっちり合って数秒たってからのことだった。

私服だと彼女は余計に幼く見える……それは奈津の言だが大多数の意見を代弁している。

 二人で免許を取った日に、お互いの馬を見せ合った。学科試験会場で会って話しているうちに、何となく意気投合したのだ。一度家に帰って奈津は引き出しを開けると、箱に入ったままのスレイプニルを持ち出した。イワク付きだと聞いていたスレイプニルがハルに懐いたのを見た時、奈津は本当に驚いた。また自分の持っていた最新式のウンディーネをハルが惜しげもなく自分の手に握らせたことに彼女は二度吃驚して声も出なかった。


「一目見たときから、こいつ良いなって思ってたんだ。君のSNと交換・・・UDは僕に全然合わないから」


 まるで、UDと奈津の相性が良いことを最初から知っているような口ぶり。

 確かに、技能試験会場でUDを見た時に奈津は乗ってみたいと切実に思った。透ける鰭と蒼い身体が美しく、こんな素敵な馬は何処を探してもいないだろうと見惚れていた。

 二人とも技能試験は余りいい成績で通らなかった。

 お互い意識を移せるほど自分の馬と相性良くなかったのだ。奈津はそれを悔しがったが、ハルは取り敢えず受かったことに満足して、ボーダーラインぎりぎりであるという事実は気にも留めていないようだった。

 SNは奈津の曽祖父が所有していたもので、処分出来るようなら早めにすること、という遺言と共に残されたものだ。碓氷家は今や奈津だけになってしまったので、SNの所有者(処分者)も奈津ということになる。


「いいわよ」


 SNを渡しながら、奈津は総合大学での生活が百八十度変わる予感で胸が一杯になった。

 二頭の馬は交換され、ここから二人は急速に仲良くなっていく。



×××××



 サイレンの音でハルが目を覚ますと、奈津が半身を起こして窓の外を眺めている。


「ん、どしたの?」

「しっ」


 振り返って人差し指を唇に当てて何も言うなという仕草。

 彼女の後ろを何かがゆらりと通り過ぎた。オレンジの街灯が遮られ、奈津の姿が突然影に沈む。

 そのまま身体をぴくりとも動かさず、呼吸まで止めて二人部屋で凍っていた。脚音が通り過ぎると、重いカーテンを静かに閉めて漸くぷはっと息を吐き出してベッドに身を沈める。

 ハルはすぐさまきっちり畳んだ服を着込んだ。


 「今の馬、だよね」


 気味悪そうに、奈津に言う。奈津は何かを考えながらこくりと頷いた。

 何故町に、乗り入れたのだろう。

 禁止されている事項だった。

 サイレンは絶え間なく鳴っているけれど、窓の外に人影は見えない。

 奈津が脱ぎ捨てたままになっていた服を纏うとほぼ同時、部屋のドアがノックされた。サイレンの鳴る中ノックの音は不自然に部屋に響き、中の二人は一瞬間をおいてやっと返事をすることが出来た。


「緊急事態ですので、地下室へどうぞ」


 ドア越しに淡々と従業員らしき人物が説明をする。二人は顔を見合わせると馬を持って廊下に出た。


 廊下は非常灯しか点いていないようで薄暗く、服の襞にさえ濃い影が出来ている。奈津は暗い照明に照らされたハルの背中がまるで友人のものではなく、別の……例えば人形のように感じられて不安になった。

 従業員は陰気な顔の男で、出てきた二人を見ると此方です、と言ったきり後は無言で狭い廊下を案内した。階段を下りている時、別の客も合流した。


「よくこういう事あるんですか」


ちかちかする黄色い灯りの下、ハルは男に声を掛けた。


「ええ……あれは良く来ます」


 あれ……おそらく窓から見えた奇妙な馬のことだろう。馬は見たこともない形をしていた。

 歪で、空虚な感じがする。


「空操りの世界から玩具がやってくると、姿を現すのだと聞いております」


 地下室に着くと毛布を渡されて、簡易ベッドに案内された。

 低い天井の割りに地下室は居心地よく誂えてある。それは宿だからなのか、その家が個人的にそうしたからなのかは分からないが、無機質な二人の借りた部屋よりもよほど部屋らしかった。ベッドは簡易なものだが定期的に日に当てているのだろう、毛布や枕はふっくらして寝心地がよさそうだ。壁に絵までかけてある。


「空操りの世界はいいとして、玩具ってさ」

「うん、馬のことだよね……僕も思った」


 一つのベッドを二人で半分ずつ使いながら、周りにばれないようにひそひそ話し合う。二人分の体温はすぐに布団を暖めた。


「もしかして、僕らを追って来たのかな」


 一番の可能性をハルは臆することなく口に出して言った。言葉にしてしまうと、それが紛れも無い真実であるようで、奈津には恐くて出来なかったのだ。

 奈津の顔が強張った。

 今度は寝たふりをして誤魔化すようなことはせず、しっかり頷いた。奈津がUDで見たものはビル群の影に見え隠れするぼろぼろの馬の姿だった。UDはワザと蛇行して走っていたのに、その道筋を狂い無く辿ってやって来た。


「ねえ、奈津」

「ええ、町に被害が出ないうちにアイツを連れだしましょう」


 外はまだサイレンが鳴っていた。

 この世界の乗りものである自動車が、宿の前で豪快に引っ繰り返されていた。重くて硬いこの手の乗り物を幾つもひっくり返しながら歩くなど騎手はやはり普通ではない。

 霧雨の薄いヴェールが建物を包み込み、オレンジの街灯と相俟って町は幻想的に二人の目に映った。


「どうやって見つける?」


 ハルが奈津を見上げて言った。


「……大丈夫よ、ほら脚音が」


 奈津の言うとおり、サイレンが響く中馬の脚音がだんだん大きくなってくる。ひょっとしたら自分達の所為ではないのではと思っていただけに、ハルの胸は痛んだ。二人が地上に降りる度、あの馬も下りて来たのだろうか。


「……見えた……!」


 奈津の言うとおり、二階建ての建物の半分の位置から頭部が覗いている。目に当たる部分から燐光が静かに漏れて地面に滴り落ちていた。しかし、頭部は半ば崩れて骨格の木が見えている。

 ずん、と足元のコンクリートが揺れる。距離はまだ十分に離れているのにこの揺れ。近くまで来たら地面が波打つように感じられるだろう。突然、スピカーから漏れる音に雑音が混じるとぶつ、とサイレンが途切れた。

 オレンジの街灯も一斉に消えて、建物の中からか無数のどよめきが二人の耳に伝わった。馬は電線を身体に絡み付けて町の蓄電器を今まさに引き倒そさんとするところだった。

 白い強烈な光が細かく馬を飾る。その度ぱっと白い煙があがる。

 胴や首の焦げる匂いが雨の中控えめに漂ってきた。

 感電する。

 馬は光が爆ぜる度に身体をびくびくと痙攣させ、ついに大きく身震いすると地響きと共に地面に崩れ落ちた。


「……騎手、が……」

「助けなきゃ」


 霧雨は、呆然と立ちすくむ二人と空操りの馬の上に柔らかく降り注ぎ、サイレンの消えた町は穏やかな夜に戻ったように静かな様相を呈している。


 地面に横たわる馬は近くに行くと、半壊していることが分かった。しかし、騎手の乗る背中の部分は位置的に建物もあって回り込まなくては見えない。切れた電線から火花が散っていて、細かな雨に濡れてしゅうしゅうと音を立てていた。ぐっしょり濡れた靴に足を突っ込んだことで、忘れていた寒さが再び二人を襲う。


 ハルは馬の頭部に近付いてしゃがみこんでそれをじっと眺めている。


「ねえ、騎手のトコに早く行かないと」


 奈津は友人の上着を引っ張ろうとして、それを止めた。

 ハルは手を伸ばして壊れた頭部の鼻面に手を当てて、奈津の声に反応を示さず瞬きもせずに居た。その様子はまるで馬と対話しているようで――。


「ハル?」


 彼女の肩を掴んで揺らそうとしたその時、

 転がる馬の頭部に青い燐光が再び湧き出した。濡れた木の擦れる音がしてくる。ぎしぎしと、馬の口が開かれた。息のように燐光が吐き出されて、生暖かい空気が足元を埋めた。

 噛み付かれる!!

 奈津はハルの肩を思い切り揺らして我に返らせると、UDを起動させた。


「ハル、早く!」

「ぇ……あッ!」


 SN起動!

 ハルはその背中に乗ると、UDの後を追って駆け出した。電線を避けて道路を走っていく。町の人々にはきっと突然二頭の化け物が増えたように思えたことだろう。コンクリートに蹄の痕をつけながらハルは心の中で何度もごめんなさい、と繰り返した。

 みしみし音をさせて、後ろからあの馬が追ってくる音が聞こえる。

 なんて虚ろな響きなんだろう。

 どういう心境で騎手が馬を走らせるのかが全く読めない。

 寂しい音、

 寂しい声。


『ハル……このまま海まで行きましょう。あの馬は私達よりも随分速度が遅いから、遠くまで引き付けて置いてきちゃいましょ。大丈夫、あれだけ走れるなら騎手は無事よ』

『う、うん』


 ハルの目には、背後の馬はまるでSNのゾンビのように見えた。

 生きたSNは炎の鬣を闇になびかせながら、町の外に出る。


『……待ッテ』


 どれくらい走っただろう。海はタールのように黒く、底が見えない。その上を四つの蹄を炎に変えてハルの馬が音も無く飛んでいた。鬼火のように炎を引っ張りながら、幻のような景色を作りだす。

 海面に炎に吊られて魚が顔をだす。大きな波が立つこともあった。

 その下にどんなに多くの生き物が居るのか二人には想像もつかない。

 ハルの耳が声を拾った。


『なに?』


 奈津はハルの先を走っている。UDはまったく振りかえる気色を見せなかった。SNの蹄は炎に覆われて、海面を照らしながら飛んでいた。


『奈津、なに?』


 UDからの返事が無いので、再度ハルは言う。しかし、どうしたのだろう、奈津からの返答は無かった。それどころかだんだん彼女の馬とSNとの距離が開いてきている。SNの速度が落ちているのだと気付いたのは、後ろの歪な馬の姿が目視できるようになってからの事。


『待ッテ……』


 まるで母親に置いていかれた子供のように待ってと繰り返すその声は、後ろの馬から聞こえてきた。

 ハルの脳裏にある光景が浮かぶ。




 数頭のSNそっくりの馬が、工場の中に並んでいた。

 ハルはそこに自分の姿を見つける。

 彼女はSN3号と蹄に書かれている馬に近寄り、そっとその鼻面を撫でる。他の馬にもそれぞれ人がついていて、恐らく持ち主なのだろう、馬との相性は非常によさそうだった。空操りの馬は、まるで生きているかのように傍に寄り添う人々に懐いていた。

 

 ――空操り同士は相性が良いようですね……


 不意にその光景を壊すような声にハルは背を震わせた。


 ――空操りは馬のみだ。他はただの玩具だよ。


 別の声が返事を返した。

 工場で、SNと自分は目を見合わせ……そしてそれを傍観しているハルの方へ視線を向けてきた。

 何故見ているの?

 その目はハルに問うている。

 他の人はどうしたの?

 その、何の邪気の無い目はハルの心に波紋を投げかけた。これは何時の記憶なのだろう。混乱し、平衡感覚をなくしてぐらぐらする。

 工場の天井が回った。


『ハルッ……!!!!!』


 奈津の声を耳に感じながら、自分が落下していることに気が付く。でも、落下している自分をSNに乗った自分が冷静に見つめている。

 漸く気が付く、

 SNに意識を移したまま、馬の背から落ちてしまったのだということを。


「あーあ、こんな何にも無いところでミスっちゃった。奈津に笑われるな」


 ハルは落下しながら苦笑した。

 UDが鱗を煌かせて近付いてくる。空操りの馬の中で、炎が消えていくのを感じた。自分の心もそれと共に虚ろになっていくようだ。

 恐怖は、無かった。



×××××



 振り返るとSNの炎が遠くの海上に燃えているのが見えた。

 幾ら話しかけてもまったく応答しないので、不安になって暫し自分の馬を停めてSNの揺らめく炎を見た。炎の大きさは変わることなく、ハルはどうやら馬を走らせていないらしい。

 もう大分離してしまったのであの馬の姿はまだ見えなかったけれど、まるでハルの馬があの馬になってしまったような錯覚を受ける。

 来た道を全力で戻りながら、奈津は嫌な予感が湧き上がるのを抑えられなかった。

巨木の枝から地上に落ちるルートは、奈津とハルの二人しか行くことが出来ない。それでは、同じルートを来た騎手は一体何者なのか……。

 UDの視界に落ちていくハルの姿が映る。

 ハルの名を叫びながら奈津は全力で馬を走らせた。海に落ちてしまえば探すことは出来ない。

 もう彼女に会うことが出来ない。

 砂海の水は何でも沈めてしまうから。

 UDの鰭が音が空気を切り裂いた。


「……ッ!」


 間に合わない、いや、間に合わせてみせる。

 SNの炎が消えていく。

 行くな、逝くな。

 見る見るうちにSNが虚ろな塊になるのに全身が粟立った。雨が針のように奈津の肌に刺さる。

 海面にハルの身体が落ちる、その瞬間。



 奈津の目に半壊した馬が燐光を発し、そこに居たのが目に入った。



 馬はがばりと口を開け、海面すれすれに壊れた頭部を垂れている。

 頬まで裂けた口からは絶えず燐光が漏れ出て、海面に流れていた。

 壊れた馬は首を振ると、躊躇無くハルの身体に喰いついた。


 UDは途端に力をなくして、嘆くように首を擡げると胴をうねらせて今や完全に炎を消したSNの傍で静止した。







×××××



 雨はやんできている。

 雲の切れ間から、薄明るくなった空がまるで光沢のある布のように姿を現した。ぐっしょりと髪を濡らしながら奈津は俯いてUDの背に乗っていた。

 一瞬の出来事だ。

 空操リが、ハルを食べてしまった。

 水平線と雲の間から銀の太陽が顔を出し、三頭と一人に光を投げた。塩辛い雫が顔を濡らす、その判然としない視界の中を、みしみし音をさせながら壊れた馬が遠慮がちに動き出す。

 奈津は

 その馬が口に銜えた何かをSNの背にそっと乗せるのを見た。


 顔を上げて、SNの背を見る。

 朝日の中、砂海の水が引き始めた。




×××××



 翌日、チェックアウトすると強烈な日差しの歓迎を受けた。

 目を擦りながら朝ごはんの事を考える。

 実際はもう昼近くで、体内時計が随分狂っているのを実感したがそれも休暇らしいといえばそれまでのこと。昨夜の馬の事は一言も話さずに二人、歩いて市に向かう。地面に蹄の後が残っていたので、なかったことには出来なかった。二人は自分の馬を意識する。

 簡易なテントが幾つも出ている広場に出た。

 巨大な鍋から湯気がもうもうと上がっている所が食堂。折りたたみ式のテーブルと椅子が鍋のまわりに置いてある。

 パンとスープを頼んで二人は青空の下、巨木の森を望む。巨木の森は、青いシルエットとなって聳えていた。ハルはつつ、と自分達が降りてきた辺りから海岸までをなぞる様に、人差し指を動かした。

 食べ物がテーブルに置かれる。

 人の良さそうなおばちゃんがニコニコと笑いながら二人を見ている。野外で食べる食事というのは何時も不思議な感じがする。木の焼ける香ばしい匂いは巨木にいる時はあまり良い気分はしないが、ここでは心が落ち着く。鍋の下に静かに焔が揺らめいて、白い煙と湯気が混ざり合って昇っていく。


「なんで、動いてたのかな」


 ハルが巨木の森を眺めながら言った。砂海から風が吹いてくる。そろそろ水が完全に消えて白亜の世界が現れる頃だ。


 馬には騎手が乗っていなかった。


「さあ……」


 馬は崩れてぼろぼろだった。

 騎手が落ちてすぐの馬とは到底思えないほど、それの形は壊れていた。

 ハルのSNや奈津のUDと違い、生気の無い虚ろな塊。

 奈津が言う。


「何処かに騎手の身体があるのかな」


 奈津の言葉を良く考えてから、ハルは返事を返す。玩具が騎手? 空操リのような、玩具とは。


「多分、ね」


 そう言った。

 ぐらぐらするテーブルの間を潮風が嫋々と通り抜ける。「あれ」はよく来るのだといっていた。玩具が来ると、それを追いかけるように。

 飛び魚の群れが空を渡っていく。

 普段は巨木の枝から覗き込むようにして見るその魚達を、今二人は見上げている。鱗をきらきらさせて鳴きながら餌場に飛んでいく。


「今日はさ、砂海を見て帰ろう」

「うん……」


 身体をなくした騎手の意識は、馬の中でどうなってしまうのだろう。

 その一歩手前を垣間見たハルは身震いした。考えてみると馬の墓地とはなんて残酷なところなのか。

 騎手の最期の意識ごと葬ってしまう……。

 白亜の砂海に向かって降りてくる乗り手の無い馬は、何故動くのか。

 思い当たるのは馬が「空操リ」だという事実とあの記憶。


 テントの布が風を受けてばたばたと大きな音を立てている。カラフルな服を売っている店の看板が引っ繰り返った。木の看板は軽い音を立てて地面に倒れ、店員が慌てて起こしている。

 工事が早くも行われていた。

 手馴れた様子でなぎ倒された電柱を起こし、電線を張り替える住人達。


 碌に買い物もせず町を出ると、二人は馬を起動させた。コンクリートの地面を思い切り走って砂海に向かう。もう完全に水は消えた頃だろう。

 SNの鬣と尻尾は食堂の鍋が掛かっていた火と同じように昼間の空気を透かして、穏やかに風に靡いている。


『僕さ……今日図書館に行ってレポート仕上げようと思うんだ』


 SNは完璧な早駆けで疾走した。


『あら、奇遇。私も野暮用で図書館行こうと思ってたのよ』


 UDは鰭を畳んで空気の抵抗を出来るだけ少なく、殆んど一本棒のようになって走る。 ビル群が突如開けた。

 目映いばかりに輝く白い砂が眼前に広がる。

 と、

 砂の海から身体を崩しながら一頭の馬が巨木に向かって昇っていった。SNにどこか似ている。表面の剥げた黒い塊は徐々に上昇して飛び魚の群れを潜り抜け、遠く小さくなっていく。まるで巨木に拾い上げられているような光景だった。


『……』


 砂の中SNは立ち止まり、ぼろぼろの馬が巨木に吸い込まれて姿を消しても暫らく空を見上げていた。あの馬は乗り手である玩具を探して彷徨っているのだろう。

 ありがとう、助けてくれて。ごめんね、僕じゃなくて。

 ハルは心の中で言った。


『ねえ、ハル。SNに乗るの、止めない?』


 鎌首を擡げる格好でUDも巨木の森に頭を向けている。

 その口から今とんでもないことが飛び出てきた。


『はぁ? 冗談でしょ』


 笑いを含んだ口調でSNが言うと、UDは口を噤んでしまう。


「……」


 奈津はUDから自分の身体に意識を移した。途端に全てのものが生々しく五感に訴えかけてくる。この感覚の鮮明さはやはり自分の身体でないと味わえない。




 SNは旧馬だ。

 馬と呼ばれる所以は、最初に作られたモデルが馬の形をしていたから。つまり、UDのように色々な形が現れる前はSN形のものしかなかったということ。走るときの振動が激しい、また、騎手の墜落が相次いで起きたということでSN形の馬は随分前に生産中止になった。

 奈津は、以前UDに乗って気が付くことがあった。


 SNは他の馬と違い勝手に動いている。


 それは奈津の予想が正しければ、騎手不在でも動く彼の馬の謎を解く鍵となる発見だった。馬を導入した当初は「空操リ」を完全に制御できていなかったのではないだろうか。

 UDのような最新の馬は持ち主に従順だが、制御できていないSN形の旧馬は勝手に動く。その為、何か特殊な方法、或いは部品でその馬の舵をとっていたのではないか。

 もともと騎手がいなくても動くのならば、騎手が身体を失った後も馬だけが動くことは有り得る話だ。ただその場合、馬の意識なのか騎手の意識なのか判断をつけることは難しいけれど。

 もし、騎手の意識ならハルが事故を起こしたとき、彼女の意識はSNに押し込められてしまう。

 奈津は、そんなのはどうしたってイヤだった。




 後日、奈津は「空操りの構造」というタイトルのレポートを制作、評価された。

 また、ハルは「砂海の仕組み」はナツのレポートと共に好評を喫し、長期休暇あけ二人は飛び級することになる。黒のネクタイに青のラインが入った総合大学3年。それは研究の為に自由に地上に降りることの出来る学年だ。

 今回の旅行はほんの先駆け。二人の「空操リ」旅行は今後ますます奔放に行われていくのだが、それはまた後日。

 

 3年になって何度目かの謹慎が解けたら、きっと快く語ってくれるに違いない。










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