御岳山のお犬さま
篠川翠
第1話
面倒なことになった。
「ねえねえ。伊藤くんは
丈留はため息をついた。大学のゼミで、武蔵野の山岳信仰をテーマとして扱うことになったのだ。
わざわざ御岳山の宿坊に行くのは、正直億劫だ。だが、ゼミの先輩の頼みを断れるはずがない。
「はいはい。わかりましたよ。宿坊とフィールドワークの下見をしてくればいいんでしょう?」
丈留はもう一度、大げさにため息をついてみせた。
次の週末、丈留は自宅近くにある青梅駅から青梅線に乗った。毎日乗っている新宿方面とは反対方向の、奥多摩方面に向かう下り路線。地元民とはいえ、丈留もこちらに来るのは中学生のとき以来だ。
新型車両の大きな窓からは、うららかな陽射しが降り注いでいた。
御岳口で下車し、そこからバスとケーブルカーを乗り継ぎ、山頂へ向かう。
あっという間にケーブルカーが山頂に着くと、丈留はそのまま予約を入れておいた宿坊に向かった。
宿坊では、人好きのする中年女性が応対してくれた。この宿坊の女将だろう。
女将は、一人でやってきた丈留を気に留める風でもなかった。
「――へえ。大学のゼミで、ね」
やってきた事情を説明すると、女将は少し考え込むような表情を見せた。
「御嶽神社は、お犬さまを祀っているんでしたっけ?」
丈留の質問に、女将は「そうそう」と肯いた。
「今では聞かないけれど、このあたりにも鹿や猪がいてさ。それを餌にしていたんだよね」
確かに、奥多摩の山々は自然豊かだ。野犬がいたとしても不思議ではないのだろう。
「でも、鹿や猪って、犬の獲物にしては大きすぎませんか?」
女将は呆れたように人差し指を振ってみせた。
「違う違う。ここで言うお犬さまは、狼のことよ」
「オ、オオカミ?」
丈留はぎょっとした。それを見た女将がぷっと吹き出した。
「心配しなくたってさすがに今はいないよ。もっとも私のひいばあさんは、子供の頃に狼を見たことがあったらしいけれどね」
「それ、いつの時代です?」
「うーん、明治くらい?」
思わず胸を撫で下ろす。
「御嶽神社の御祭神のお犬様は、大きな白狼と言われているんだよ。昔の修験者達を災いから守っていたらしい。あんたも後でお参りしておいで」
なるほど、それは興味深い。
「他に、どこか見どころはありませんか?」
丈留が再び質問すると、女将は近隣地図を持ってきて、一点を指し示した。
「ここがいいだろうね。
ふうん。それも面白そうだ。一応山歩きも想定して、靴は山歩きにも耐えられる登山靴を履いてきていた。
「歩くいてどれくらいですか?」
「三十分も歩けば着くよ」
結構な距離だ。地図を見ると、この宿坊からは二キロ余り。もう昼を回っている。男具那社に出かけるならば、急がなければ。
丈留は、女将の勧める男具那社に出かけてみることにした。
男具那社の案内板によると、日本尊命がこの奥の院に武具を納めたことが、「
これだけ読めば、十分だ。手早くデジカメに案内板の写真を納めると、今来た道を引き返すことにした。
あの険しい山道を戻らなければならないのかと思うとうんざりするが、仕方がない。
持ってきた水筒のスポーツドリンクを口に含み、口元をシャツの袖口で拭ったときだった。
「タケル?」
唐突に呼びかけられ、ぎくりと身を強張らせた。
振り返ると、境内の石段に美女が腰掛けていた。いや、美女と言っていいのかどうか。
なりは人間の形をしているのだが、耳は頭の上の方についていて、その形は三角形。そして、尻には大きなふさふさとした銀白の尻尾まで生えている。
顔は色白の瓜実顔で、やや切れ長の目。印象的なのは、その眼差しだった。
「お主が再び武蔵を訪のうてくれるのを、永らく待っていた」
物言いまで、現代の人間ではない。
丈留の頭は、ますます混乱した。
「……誰?」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。丈留の言葉に、女は若干傷ついたような顔を見せたが、すぐに態勢を立て直した。
「わらわはこの地を司る者。同族の者はわらわを姫と呼ぶ。そなたはタケルに相違ないな?」
なぜこの女は自分の名を知っているのか。ぞっとして、丈留は思わず後ずさった。
「逃げるな」
相手が鋭くそう言うと、丈留の足がその場に止められた。
何だ、これは。相手は一体ナニモノなのか。
「そなたは日本尊命の血を引く者。もう
そう言うと、彼女は訥々と語り始めた。
「――あの人が西からやってきたのは、いつのことだったか。
この御岳から西北に進もうとした時、深坂の邪神が白鹿に化け道を塞ぎおった。尊は山蒜を以てその大鹿を退治したが、邪神の祟りで山地が鳴動し、辺り一面に雲霧が湧いた。尊は道に迷い、危うく崖から真っ逆さまに落ちるところだった。
そこでわらわは、尊の前に姿を見せ、甲斐への案内を務めた」
その話なら、今しがた読んできた。
だが、白狼が女性だったとは書いていなかった。
「尊はわらわに『
彼女の横顔は、寂しげだった。
「その言葉をずっと守られていたのですか?」
「愛しき男の言葉に従わねばと思うのは、おなごの性じゃろ」
彼女は微かに唇を歪めた。その言葉に、はっとする。
「日本尊命がお好きだったのですね」
好きになったのなら、一緒についていけばよかったのに。そう言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
ふっと思い出したのだ。授業で古事記を習ったときのことだ。伝承によれば、日本尊命が武蔵の海を渡ろうとした際、海は大いに荒れた。それを見た妃の
彼女は日本尊命の妻への思慕の念を知っていたのだろう。だから、自分の思いを口にはできなかった。まして、異種との媾合などできるわけがない。彼女にできたことは、忠実な「白狼」として日本尊命を次の地へ導く案内人となり、彼の言葉を守ってこの地の守り神となることだけだった。
「わらわは尊の言葉を守り、永いこと邪なモノからこの地を守ってきた。だが、おなご一人で守るには力の限りというものがある。どうか、今度はタケル、そなたがわらわに力を貸してたもれ」
そう言うと、彼女はじっと丈留を見つめた。その瞳はどこまでも真っ直ぐだった。
「俺でよければ……」
ためらいながらも丈留がそう言うと、彼女は豊かな白銀の尻尾を一振りした。
「うわっ」
びゅうっと一陣の風が舞い上がる。刹那、二人の身体もつむじ風に舞い上がった。
ふと気がつくと、二人はふわりとした香気に包まれた地にいた。先程までの御岳山の静謐な空気とは反対に、温もりに包まれている。
(梅の花……?)
眼の前には、白梅の枝があった。どうやら、この甘い香りの源は梅の花だったらしい。恐らく、ここは
「タケル……」
彼女が目を閉じて、顔を近づけた。彼女の妖艶さに思わず息を呑むが、心を決めて唇を重ねた。
口づけた瞬間、脳裏に様々な場面が激流の如く流れ込んできた。
邪神の禍々しい匂いや、日本尊命の凛々しい姿。数多の生き物の生命の香り。時には里人の畑を荒らす狐や熊を喰らい、里人らの命を守ってきた。
だが、彼女は日本尊命の頼みに応えて神として崇められるようになっても、ずっと孤独だった。心の底から彼を慕っていたから、元は同族であったはずの狼と契りを交わすことも拒んだ。
二千年以上も、彼女は一人だった。
「長いこと一人にして、すまなかった」
自分の口から滑り出た言葉に、丈留は驚いた。今の自分は、伊藤丈留なのか。それとも日本尊命なのか。
どちらでも良い。大切なのは、眼の前にいる女の願いを叶えてやることだ。
古来、男女の情事は神事の一つだったという。丈留は全身で相手の身体の温みを感じ、新しい生命の誕生を予感した。
二人が一つになったとき、再び一陣の風が吹いた。
翌朝、丈留は下山して自宅に戻った後、午後からは都内にある大学へ向かった。午後イチでゼミが入っていたのだ。
中野で下車し、キャンパスへ向かう。キャンパスに植えられた桜は蕾を膨らませ、いくつかは薄紅に染まっていた。
「丈留君!」
向こうから、大きく手を振りながらやってくる人物がいる。ゼミの先輩の犬飼だ。犬飼が近くまでやってくると、ふわりと甘い香りが鼻先を掠めた。その香りは、吉野梅郷で漂っていた梅の花の香気の記憶を呼び起こした。
丈留の思いには構わず、犬飼が下から丈留の顔を覗き込んだ。
「うん?今日の丈留君、妙に男っぽい?」
「男っぽいって何ですか。元々、俺は男ですけれど」
そう言って、丈留ははっとした。
犬飼の顔は、御岳山で見かけたあの「お犬さま」にそっくりだった――。
御岳山のお犬さま 篠川翠 @K_Maru027
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