待合室ルーレット

柚木 潤

待合室ルーレット

 四月、パタパタと小走りに急ぐ白衣の女性、松葉杖を上手く操る若者、白衣の前を開けながら胸を張って歩く青年、パジャマの男性の車椅子を押す中年の女性・・・


 毎月同じ場所に来ているが、見ている風景はほとんど変わることは無かった。

 コーヒーを飲みながら、白石健しらいしたけるは目の前を通り過ぎる人達を静かに眺めていた。


 そろそろ行くかな・・・


 コーヒーを飲み終えると、健は病院の外に向かった。


 健は病院とは長い付き合いであった。

 子供の頃からよく入退院を繰り返し、大人になった今でも毎月の通院は欠かす事ができなかった。

 とは言え、子供の頃と違い今は入院することもなく、仕事も問題なくこなせていた。


 だが、病気の事もあり積極的に行動するのは苦手で、人とのコミュニケーションを取る事も上手ではなかった。

 友人は数えるくらいで、もちろん彼女が出来た事は無かったのだ。

 

 そんな中、最近は病院に行くのも悪くはないと思うようになったのだ。

 通院している大学病院には、数ヶ月前からお気に入りのカフェが出店し、いつも診察が終わるとコーヒーを飲んで身体を休めていた。


 予約ではあっても、検査診察を含め半日近くかかり、会計が終わるまでにはかなり疲れる状況であった。

 そして今度は薬局でも30分くらいは待たされる訳で、その前に一度休憩を入れるのが常だった。


 病院の近くには何軒かの調剤薬局が立ち並んでいた。

 いつも行く薬局に処方箋を持って行くと、先月と同じメガネの受付のお姉さんが受け取ってくれたのだ。

 いつもそれなりに混雑しているが、投薬窓口が四ヶ所もあるため、思ったほどは待たされずに薬をもらう事が出来るのだ。

 健がこの薬局を選ぶ理由はそれ以外に待合室が広い事もあった。

 狭い所で長く待たされるのは苦手なのだ。


 いつものように、奥の水槽のある横のソファーに腰掛けて、名前を呼ばれるのを待つ事にした。

 まあ、今日の混み具合だと20分くらいかと思って、投薬窓口を見ると、いつもの薬剤師以外に見慣れない女性がいたのだ。

 まだ新人のようで他の薬剤師に色々聞きながら仕事をしているようだ。

 バタバタした動きが気になって、いつもなら待っている間は携帯に目を落としているのだが、今日は彼女に釘付けになったのだ。

 

 彼女は20代半ばくらいと思われ、まだ卒業して間もないのだろう。

 長い髪をひとまとめにしており、よく見ると大きく吸い込まれるような瞳をしていたのだ。

 マスクで目元しか見えなかったのだが、健を引き付けるには十分であったのだ。


 健は彼女が自分の名前を呼んでくれればと少しだけ考えていた。

 しかし、投薬窓口は四ヶ所もあるのだ。

 4人の薬剤師が順番に患者に対応しており、確率は25%と高くはない。 

 周囲を見ると、多分自分が呼ばれるまで、あと5人、あと4人・・・あと1人。


「白石さ〜ん」


 案の定、健の名前を呼んだのは、以前からいるおじさん薬剤師だった。


 やっぱりね・・・


 残念だが、健は彼女と話す事なくそのまま薬局を出ることになったのだ。

 そして薬局を出て、駅に向かおうと信号待ちをしていた時である。

 パタパタとサンダルの音が近づいてくるのが聞こえてきた。


「すみません〜、この携帯、忘れ物じゃないですか?」

 

 振り向くとさっきまで目を奪われていた彼女がそこにいたのだ。

 いつもなら携帯を離す事が無いのだが、今日は彼女をずっと目で追っていたため、座っていたソファーに置いて来てしまったのだ。

 それに気付いた彼女が声をかけてくれたのだ。


「あ、ありがとうございます。」


 携帯を受け取ると健はぶっきらぼうに一言だけ言って、そそくさと信号を渡ったのだ。

 まさか彼女が追いかけてくるとは思わず、彼女と話す準備が出来なかったのだ。

 だが、しっかりと彼女の名札をチェックする事は忘れなかった。


 宝田 愛美・・・たからだ まなみ かな?


 彼女の『お大事にー』の声を背に受けてから一ヶ月経っても、その名前とその瞳を忘れることは無かったのだ。


 健は一目惚れをしたのだ。

 


 五月、今月はゴールデンウィーク明けもあり、病院はいつもより混雑していた。

 いつも行っているカフェも席がなかなか空かないため、健はこのまま薬局に向かう事にしたのだ。

 いつもの受付のメガネの女性に処方箋を渡すと、奥の定位置に座ったのだ。

 そして一ヶ月ぶりに彼女を見る事が出来たのだ。

 先月と同じように綺麗な黒髪を一つにまとめ、黒い瞳が輝いていた。

 以前と違い、宝田愛美たからだまなみのバタバタ感は無く落ち着いた様子であった。

 この一ヶ月でだいぶ慣れたのであろう。

 今日は薬局内もいつもより混雑はしていたが、彼女の働く姿を見ながら待つのは苦では無かった。

 その姿を見ているだけで十分だったのだ。

 だからこそ、月に一度の来局で彼女と話せる事は重要だったのだ。


 だが、いつものように投薬窓口は四ヶ所、確率は25%。

 今回こそは彼女に名前を呼ばれたい。

 祈りながら彼女の声を聞き漏らさないようにじっと見たのだ。

 薬局内は混雑していた為、自分が呼ばれるまでに何人いるかがわからなかった。

 携帯を手にしてはいたが、ずっと彼女の行動に注目していたのだ。

 そして、その時が来たのだ。


「白石さーん」


 よし!呼ばれた。

 そう、彼女に呼ばれたのだ。

 25%の確率に勝ったのだ。


「体調は変わらないですか?」


 愛美はそう言いながら、健の顔を見たのだ。

 

「・・・大丈夫です。」


 彼女と話せたら、先月携帯を渡してくれた事の感謝の言葉を言おうと思っていたのに、質問に答えることしか出来なかったのだ。

 

 ああ、いつもこうだ。

 大事な所で、言いたいことの半分も言えない。


「白石さん、お大事にしてくださいねー。」


 以前と同じように笑顔と爽やかな声で、会話は終了となったのだ。


 だが、よく考えたら前回に比べたらマシではないか。

 今回は顔を見て話すことが出来たのだから。

 健はそう自分に言い聞かせたのだ。

 会計を終え薬局を出る時に振り返ると、もう彼女は他の患者に笑顔を振りまいていたのだ。



 六月、ジメジメした梅雨の時期は本当に調子が悪い。

 健はコーヒーを飲みながら、目の前の風景をボーッと眺めていた。

 いつもなら月に一度の受診で良いのだが、今回は2週間後にもう一度来るように言われたのだ。

 新しい薬も増えて病気の具合が良くなかったが、彼女に会いに行ける機会が増えた事は楽しみの一つになった。


 今日もいつものように受付のメガネのお姉さんに処方箋を渡し、奥の水槽の横のソファーに腰掛けたのだ。

 投薬窓口を見ると、元気そうな彼女の姿が見えたのだ。

 先月と同じように彼女に呼ばれるのを心待ちにしていたのだ。


 確率は25%。

 あと3人、あと2人・・・ダメだ。

 自分の直前の患者に渡しているではないか。

 

「白石さーん」


 名前を呼んだのは綺麗なお姉さんではあったが、彼女ではなく、自分より少し歳上の女性であった。

 残念だが思った通り、彼女に当たることは無かったのだ。

 しかし、今月は2週間後にチャンスがあるのだ。

 

 2週間後病院に行くと体調が改善したため、次は一ヶ月後に来るように言われたのだ。

 いつものように薬局に行くと、あの笑顔の彼女を見ることが出来たのだ。

 どうも今日はいつも来ていた時間帯と違うせいか、待っている患者は健の他には一人しかいなかったのだ。

 薬を渡してくれる人も彼女といつものおじさん薬剤師だけとなっていたので、彼女に呼ばれる可能性は50%だったのだ。

 今回こそは少し雑談が出来る様にかまえたのだ。


「白石さーん。」


 思った通り、彼女に呼ばれたのだ。

 よし、半分の確率に勝ったのだ。


「お薬が減ってよかったですね。

 調子はどうですか?」


 愛美はそう言い、健を見て微笑んだのだ。


 仕事だと言うのはわかっているが、自分に微笑んでくれる事がとても嬉しかったのだ。

 今回はいつもと違って、積極的に話す事が出来たのだ。

 意を決して前回言えなかった携帯のお礼を言うと、彼女は驚いた表情をしたのだ。


「ああ、白石さんだったのですね。

 あの時は、この店舗に来て間もなかったので、名前と顔が一致してなくてすみません。

 今は大丈夫ですよ。」


 そう言ってまた微笑んで健の顔を見たのだ。

 前は一致してなかったと言う事は、今はちゃんと自分を認識してくれているという事がとても嬉しかったのだ。

 そして、短いながらも楽しく話が出来て、健はとても満足だったのだ。


 七月、最近は体の調子もよく天気のように気分も晴れやかであった。

 相変わらず、月に一度の受診は同じだが、また彼女に会いに行くのが楽しみであったのだ。

 だが、いつものように処方箋を持っていくと、そこには彼女の姿が無かったのだ。

 たまたまお休みなのかと残念に思ったが、そう言うこともあるだろうと深く考え無い事にしたのだ。

 

 八月、相変わらずの病院受診だが、今度こそ彼女に会えるのではと楽しみに薬局に行ったのだ。

 しかし、その日も彼女を見る事は無かったのだ。

 彼女は他店舗に移動したか辞めたのだろうか。


 健はおじさん薬剤師に薬をもらったが、そのおじさんが悪い訳では無いが、ほとんど話をする気になれず無愛想な態度で薬局を出たのだ。


 いつものように信号を渡り、駅に向かおうとした時である。

 前からあの宝田愛美が歩いて来たのだ。

 だが、その表情は健が知っている彼女ではなかった。

 暗く、思い詰めたような表情であったのだ。

 愛美は健に気付く事なく、病院に入って行ったのだ。

 なぜ彼女が病院に入っていったのかが気になって、健はつい彼女の後を追ったのだ。


 遠くから彼女を眺めると、どうも入院している誰かに会いに行くようなのだ。

 この時間の外来はすでに終了しているため、そう考えるのが自然であった。


 エレベーターに乗るのを見ると、健はその場所が見えるいつものカフェに行きコーヒーを注文して、彼女がまた現れるのを待ったのだ。

 もちろん、いつ来るかもわからないし、別のところから帰るかもしれないのであるが、健は待ちたかったのだ。


 30分くらいすると愛美が降りて来たのだ。

 しかし愛美は一人ではなく、中年の女性が乗る車椅子を押しながら現れたのだ。

 どうもその女性の顔つきを見ると、彼女の母親なのだろう。

 売店に連れて行ったようで、少しするとまたエレベーターに乗るのが見えたのだ。

 暗い顔は病気の家族がいるからなのかと想像できたのだ。


 健はどうしてもその場から離れる事が出来なかった。

 追いかける訳では無いが、彼女が出てくるまでは居ようと思ったのだ。

 

 それから1時間くらいした後、愛美がエレベーターから出て来た。

 意外な事に健のいるカフェに向かったのだ。

 愛美はソイラテを頼むと、偶然にも健の座っている外が見えるカウンターの席の方に歩いて来たのだ。

 それも健の席の一つ空けた隣にソイラテを置き腰掛けたのだ。


 健は気づかれないようにチラッと彼女を見ると、その横顔はやはり曇っていたのだ。

 母親のことで気になる事があるのだろうと思ったが、今の自分に出来る事は何も無かったので、そっとその場を去ろうとしたのだ。


 しかしその時である。

 タイミング悪く、健は携帯を愛美の方に滑り落としてしまったのだ。

 『ガチャン』という音に反応して愛美は落ちた携帯をすぐに拾ったのだ。


「・・・あ、白石さん。」


 健の顔を見ると、一瞬戸惑いを見せたが、すぐに薬局で見ていた可愛らしい笑顔になったのだ。

 健は携帯を受け取ると、勇気を出して話しかけてみた。


「あの、薬剤師さん・・・ですよね。

 最近は薬局にいらっしゃらないかと・・・」


 愛美は笑いながら答えた。


「ああ、私用で数ヶ月お休みいただいてるんです。

 またそのうち復帰しますので、その時はよろしくお願いしますね。」

 

 そう言った直後、愛美の笑顔が崩れたのだ。

 目に涙を溜めているのをわからないように下を向いたのだ。


「・・・失礼します。」


 そう言ってソイラテを手にとり、カフェを出ようとしたのだ。

 

「あの・・・来たばかりなのですから、そこで飲んでいって下さい。

 私はもう帰りますから。」


 健はそう言い、普段見せない精一杯の笑顔で愛美を見たのだ。

 すると愛美は健をチラッと見ると、下を向きながら一言だけ言ったのだ。

 

「・・・じゃあ、私もいますから、白石さんもそのままお茶しててくださいね。」


 愛美は真っ赤にした目を隠しながら、同じ席に座り直したのだ。

 それを見て、健も席に座り冷えきったコーヒーに口をつけたのだ。


 その後二人は一つ席を空けたまま、お互い干渉する事なく、携帯を見たりコーヒーを飲んだりして過ごしたのだ。


 彼女が今どういう気持ちなのかは分からないが、健は彼女の言う通りにしてあげたかったのだ。

 だから、健にとっては、別に居心地が悪い訳では無かったのだ。

 そして愛美はソイラテを飲み終わると、席を立ち健に話しかけたのだ。


「では、白石さん、お先に失礼しまーす。」


 もうその顔はいつもの薬局で見せる顔だったのだ。

 私も頭を下げるだけで、それ以上声はかけなかった。



 九月、いつものように月一回の受診日が来た。

 半日近くかかるため、いつものカフェでコーヒーを飲み休んでから薬局に向かったのだ。

 受付のメガネのお姉さんはいつもと変わらずであった。

 一番奥の水槽の横のソファーに座ると投薬窓口に目を向けたのだ。

 すると三ヶ月ぶりに彼女の働く姿が見れたのだ。

 

 あの時、何があったかわからないし、今どう言う状況なのかもわからないが、彼女は戻って来たのだ。

 健はそれだけで嬉しかったのだ。

 そして、以前と同じようにまた彼女に呼んでほしいと思い、目と耳に神経を集中させたのだ。

 確率は25%といつもと変わらない。


「白石さーん」


 しかし呼んでくれたのは、いつもいるおじさん薬剤師だった。


 はあ、負けた・・・。


 そう思いながら席を立った時、他の患者を呼ぶために出てきた彼女と目があったのだ。

 すると彼女は微笑んで声をかけてくれたのだ。


「こんにちは、白石さん。」


 健は頭を少しだけ下げて彼女に反応したのだ。

 そして健は、おじさん薬剤師ではあったが気分良く話をする事が出来たのだ。


 会計を済ませチラッと投薬窓口を見ると、彼女がにこやかに他の患者と話すのが見えた。


 ・・・来月こそはこのルーレットに勝つぞ。


 そう思い、健は薬局の外に出たのだ。


 外はまだ日差しが強かったが健は気にすることもなく、足取りは軽やかであった。

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