アレクセイとゾシマ ぬきがき

りか

アレクセイとゾシマ ぬきがき


一 ゾシマ長老とその客

アリョーシャは胸の不安と痛みを抱きつつ、長老の庵室へ入

った時、驚きのためにほとんどそのまま入口で立ちすくんだ。

もう意識を失って死に垂んとしているに違いないと恐れ危ん

でいた長老が、思いもよらず肘椅子に腰をかけているではな

いか。

病苦のために衰え果ててはいながらも、やはり元気のいい愉

快そうな顔をして、まわりを取り囲む客人達を相手に、静か

な輝かしい談話を交換しているところであった。


『長老は今一度ご自分の心に親しい人たちと物語をするためG

に、必ずお目覚めなさるに違いない。ご自分でも今朝がたそ

う言って約束なされました。』と固く予言したからである。


パイーシイ主教はこの約束を長老のすべての言葉と同様にど

こまでも信じて疑わなかったので、


たとえ長老の意識ばかりか呼吸まで止まってしまったのを自

分の眼で見ても、もう一度目を覚まして別れを告げるという

約束を聞いた以上、彼は死そのものさえ信じようとせず、死

にゆく人がわれに返って約束を果たすのを、いつまででも待

っているに違いない。


実際、今朝ほど長老ゾシマは眠りに落ちる前、彼に向かって、

『わしの心に親しいあなた方と、もう一度 得心のゆくだけお

話をして、あなた方のなつかしい顔を眺め、もう一度わしの

心をすっかり広げてお目にかけぬうちは、決して死にはしま

せんじゃ。』とはっきりした調子で言ったのである。


アリョーシャが入口に立ってもじもじしているのを見て、長

老は悦ばしげにほほ笑みながら、その方へ手をさし伸べた。


「よう帰った、 倅、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰

って来たな、わしも今に帰って来るじゃろうと思うておっ

た。」

アリョーシャはそのそばに近寄って、額が地につくほどうや

うやしく会釈したが、急にさめざめと泣きだした。何かしら

心臓が引きちぎれて、魂が震えだすように思われた。彼は慟

哭したいような気持ちになって来た。


「あなたのお言葉はあまりに漠然としております……一体どの

ような苦患が兄を待ち伏せしているのでございましょう?」


「好奇心から訊くものでない、昨日わしは何か恐ろしいこと

が感じられたのじゃ……ちょうどあの人の眼つきが、自分の運

命をすっかりいい現わしておるようであった。あの人の眼つ

きが一種特別なものであったので……わしは一瞬の間に、あの

人が自分で自分に加えようとしている災厄を見てとって、思

わずぞっとしたのじゃ。わしは一生のうちに一度か二度、自

分の運命を残りなく現わしているような眼つきを、幾たりか

の人に見受けたが、その人達の運命は、悲しいかな、――わし

の予想に違わなんだ。


わしがお前を町へ送ったわけはな、アレクセイ、兄弟として

のお前の顔が、あの人の助けになることもあろうと思うたか

らじゃ。しかし、何もかも神様の思し召し次第じゃ。われわ

れの運命とてもその数に洩れぬ。『一粒の麦地に落ちて死な

ずばただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし。』

これをよう覚えておくがよい。ところでな、アレクセイ、わ

しはこれまで幾度となく心の中で、そういう顔を持っている

お前を祝福したものじゃ、今こそ打ち明けて言ってしまう。」


「わしはお前のことをこんなふうに考えておる、――お前はこ

の僧院の壁を出て行っても、やはり僧侶として世の中に暮ら

すのじゃぞ。いろいろ多くの敵を作るだろうが、その敵さえ

もお前を愛するようになる。


また人生はお前に数々の不幸をもたらすけれど、その不幸に

よってお前は幸福になることもできれば、人生を祝福するこ

ともできるし、また他の者にも祝福させることができるであ

ろう――それが何より大切なのじゃ。よいか、お前はこう言っ

たふうな人間なのじゃ。皆さん。」と彼は悦ばしげにほほ笑

みつつ、客人達の方を向いた。


( あなたの今やっていることは、無駄じゃないよ。いろいろ

のことがあって人からいろいろ言われようとも。ありがとう。

さぁこれからだ!)


「この若者の顔がわしの心にとって、なぜこれほど懐しいも

のになったかというわけを、いままで当人のアレクセイにさ

え一度も言ったことがない。今はじめてこれを打ち明けます

じゃ。


この少年の顔はわしにとって、まるで追憶と予言のように思

われる。わしの生涯の曙に、わしがまだ小さな子供の時、一

人の兄があったが、花の盛りの十八やそこらの年に、わしの

目の前で死んでしまいましたじゃ。


その後自分の生涯を送って行くうちに、わしはだんだんこう

いうことを信じるようになった――この兄はわしの運命にとっ

て、神の指標とも予定ともいうべき役割りを勤めたのですじ

ゃ。もしこの兄がわしの生活の中に現われなんだら、もしこ

の兄という人がまるっきりなかったら、わしは決してこんな

ことを考えるようにならなかったのみか、僧侶の位を授かっ

て、この尊い道へ踏み入ることもなかったに違いない。


その出現はまだわしの幼い頃のことであったが、今わしの旅

路も下り坂となった時に、その再来ともいうべきものが、ま

ざまざと現われたのじゃ。皆さん、不思議なことに、アレク

セイは顔からいえばさほどでもないが、精神的になみなみな

らず似通うておるように思われて、わしは幾度この若者を、

あの年若い肉親の兄と信じようとしたかしれぬほどですじゃ。

わしの旅路の終わりになって、追憶と接心のために密かにわ

しを訪れたのではないか、というような気がしてなりませぬ。

まったく、我とわが奇怪な空想に驚かるるばかりですじゃ。


ポルフィーリイ、今の話を聴いたか?」彼は傍らに侍る見習い

僧に問いかけた。「わしがお前よりもアレクセイの方をよけ

い愛するために、お前の顔に悲しみの影が現れるのを、わし

は幾度となく見受けたが、今こそどういうわけか分かっただ

ろうな。わしはお前をもやはり愛しておるのじゃ。それは承

知しておってくれ。わしもお前が悲しむのを見て、ずいぶん

辛い思いをした。


そこで皆さん、わしは今、この若者のことを、――わしの兄の

ことをお話ししようと思います。何故かと言うと、わしの一

生涯のうちであれ以上に尊い予言的な、感動的な出来事はな

いからですじゃ。わしの心は歓喜の情に震えました。今この

瞬間わしは自分の生涯を、まるでもう一度あらたに経験して

おるかのように、まざまざと思い起こすことができますじゃ

......」


ここで 断っておかなければならないのは、長老が生涯の終わ

りの日に客人達と試みた談話は、一部分覚書となって保存さ

れていることである。これはアレクセイ・カラマーゾフが長

老の死後しばらく経ってから記念のために書き留めたのであ

る。しかし、これがその時の談話そのままであるか、それと

もアレクセイが以前の談話の中からも何か抽き出してこの覚

書につけ加えたか、そこはなんとも決し兼ねる。


のみならず、長老の談話はこの覚書で見るときわめて流暢に

でき上っていて、さながら長老が友達に向かって自分の一生

を小説体に述べたかのように思われるが、事実つぎの物語は

いくぶん違ったふうに述べられたのである。


なぜならば、この晩の談話は一座の全体に亘っていたから、

客人達もあまり主人の言葉を遮ろうとはしなかったが、それ

でも自分たちの方からも談話に口を入れたばかりか、何かの

報告や物語さえ試みたほどである。


その上、この物語がああ流暢な形を採り得るはずはない。な

ぜといえば、長老はときどき息がつまって声が出なくなるの

で、休息のため床に就いたことさえあった。もっとも、長老

の方でもすっかり寝つきはしなかったし、客人達も自分の席

を捨てて、立ち去るようなことはなかった......一度か二度、

福音書の朗読のために、談話の途切れたこともある、読み手

はパイーシイ神父であった。


なお注目すべきは、客人達のうち誰一人として、長老がこの

夜死んでしまおうとは夢にも思わなかったことである。昼間

深い眠りに陥ったこととて、彼はこの生涯の終わりの夜、友

達を相手の長物語の間じゅう、自分の体を支えるにたるほど

の新しい力を獲得したかのように思われた。それは彼の体内

に、ほとんど信ずることができないほどの活力を維持してく

れた最後の法悦であった。


しかし、それも長い間のことではなかった。何故かと言うと、

彼の命の綱は不意にぷつりと切れてしまったからである

......が、このことはまた後に語るべき時が来る。今は談話

の始終の顛末をくだくだしく述べないで、ただアレクセイ・

カラマーゾフの覚書によって、長老の物語を伝えるにとどめ

ておこう。これだけは読者に知っておいてもらいたい。その

方が比較的簡潔で、読むにも骨が折れまいと思われる。もっ

とも、今一度断っておくが、アリョーシャが以前の談話の中

からも多くのものを取って来て、打って一丸としたのはもち

ろんである。


(A)ゾシマ長老の年若き兄


『僕はこの世に住むべき人じゃないですよ。多分一年とあな

た方の間で暮らすことができないでしょう。』と言ったこと

があるが、それが予言のような具合になってしまった。三日

ばかりたって、神聖週間がやって来た。その火曜日の朝から

兄は精進するために、教会へ赴くようになった。『これはね、

お母さん、ただ、あなたのためにするんですよ。あなたを悦

ばして安心させるためなんですよ。』と兄は母にこう言った。

すると母は悦びと悲しみのあまりに泣きだした


『ああ、お上げ、ばあや、お上げ、僕は前にお前たちのする

ことをとめたりして、本当に罰当りな人間だったねえ。お前

がお灯明を上げながらお祈りすれば、僕はお前を見て悦びな

がらお祈りをするよ、つまり、二人とも同じ神様に祈ること

になるんだ。』


『お母さん、泣くのはおよしなさいね、』と彼はよくこんな

ことを言った。『僕はまだまだ長く生きていられます。まだ

まだ長くみんなと楽しむことができます。ねえ、人生という

ものは、本当に人生というものは楽しい愉快なものじゃあり

ませんか?』

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