猫と婚約者

宮前葵

猫と婚約者

 最近、婚約者の様子が怪しいのです!


 私、伯爵家の第一令嬢であるマリエル・フラゾンヌの婚約者である、ケルッセン・グリューネクス次期公爵は、それは素敵な方です。


 短めの金髪に鋭い青の瞳、精悍なお顔は流石に騎士団の長として何度も戦場を駆け巡った威厳に満ちておられます。体格も大きく筋肉隆々で、見るからに頼もしい。私など片腕で持ち上げられてしまいます。


 現在ケルッセン様は十八歳。私は十六歳。去年婚約して多分来年には結婚になります。


 親が決めた婚約ですが、私には全く不満はございません。いえいえ、むしろ大歓迎でしたわ。ケルッセン様はちょっと貴族としては逞し過ぎるお方でしたから令嬢からの人気第一位ではありませんでしたけど、それでもコアなファンが多く付いていました。私もその一人でしたの。


 ですから婚約が決まった時には浮かれ騒ぎましたわ。やったー!って感じですわ。同じくケルッセン様を狙っていた同好の令嬢が悔しがるのを横目に、無事婚約式も行われ、逞しいケルッセン様に抱き寄せられて私は夢見心地でした。


 ケルッセン様は逞しい方ですが、性格は極めて紳士で、騎士らしい乱暴な所は一つもございませんでした。常に婚約者である私をエスコートしてくださり、まるで王女であるかのような気分にしてくださいました。


 心優しいところもおありで、二人でお散歩している時に、道で泣いている庶民の子供がいれば優しく理由を尋ね、迷子のその子を親元に連れて行ってあげていました。


 子犬がお腹を空かせていれば出店で串焼きを買ってあげていましたね。大きな体を丸めて子供や子犬を撫でるケルッセン様の笑顔に、私はキュンとなりました。心からこのお優しいケルッセン様の婚約者になれて良かったと思ったものです。


 ところがです。この半月ばかり、ケルッセン様のご様子がおかしいのです。


 ケルッセン様はお忙しい方ですから、毎日はお会いできません。それは分かります。ですから私たちは週に一度のケルッセン様のお休みの日は、朝からお会いして一緒に過ごすことになっております。


 しかしこの大事な逢瀬に、ケルッセン様は時間ギリギリに待ち合わせ場所に現れるようになりました。以前は少し早く来て下さっていたのに。


 そして、お会いしている間、気もそぞろです。何だかぼんやりして、私と一緒に居るのにどこか上の空なのです。おかしいです。以前は私の事だけをしっかり見て楽しそうになさっていたのに。


 いえ、以前と同じようにお優しいですし、しっかり私を見守っていては下さるのですよ?でも、それでも何だか、私と居ながら、私以外に気が行っているようなご様子が見受けられるのです。


 むぅ。私は不満です。どうしたのでしょうか?私が飽きられてしまったのでしょうか。いえ、最初から親同士が決めた結婚ですもの。熱烈に恋愛していたわけではございません。


 この婚約期間中に、お互いを知り合い、絆を深め合い、生涯の伴侶となるべくお互いをなるべく好きになる。そのために貴族の婚姻には長い婚約期間があるのです。


 ですから飽きるというのはおかしいのです。実際、ケルッセン様は最初は私にかなりよそよそしく、おっかなびっくり接していらっしゃったものでした。それが次第に打ち解けて、今では将来の妻として尊重して大事にして下さっています。


 それは今も変わりません。別に私を妻にするのが嫌になったとか、そういう事ではないようなのです。単に何か、私以外のモノにも気を向けている。私以外にも愛するモノが出来た、という風情なのです。


 ・・・私以外に愛する者・・・。


 つまり浮気ではありませんか。そう考えると、その上の空加減がしっくり来ました。そうです浮気、つまり他に好きな女性が出来たに違いありません!


 何という事でしょう。まだ結婚もしない内に浮気をされてしまうなんて!


 ケルッセン様は先ほども言った通り、貴族令嬢からはなかなか人気がありました。ですから、婚約者である私を差し置いた、御令嬢のアタックに、つい心を動かされてしまったのでしょう。


 くくくくっ!悔しい!私というものがありながら!


 とは思うのですが、仕方が無い事ではあります。貴族男性が妻以外にも愛妾を作るのは当たり前の事だからです。特にケルッセン様は広大な領地を持つ公爵家の跡取りです。妻である私以外にも愛妾を娶り、どんどん子供を作って子孫繁栄を目指さなくてはなりません。


 私が妻になる事は家同士の決め事でもう動きません。後は誰がケルッセン様に気に入られようとそれは愛妾です。貴族の正夫人には、夫が愛妾を何人作ろうと笑って許し、むしろ愛妾が家の名誉に関わるような事をしでかさないよう指導するくらいの度量が求められます。


 私は未来の公爵夫人です。ケルッセン様が愛妾を何人囲おうが、眉一つ動かさない度量と余裕が求められます。そうです。婚約期間中とはいえ、将来当然あるべき事態が前倒しになっただけです。


 私は内心不満ではありましたが、伯爵令嬢として、次期公爵夫人として、そんな不満はケルッセン様の前ではおくびにも出さないようにしていましたよ。


 ただ、それはそれとして、どこのどいつが、失礼、どこのどなた様が私の大事な婚約者に手を出したのかは知っておく必要があります。愛妾の管理は妻の仕事ですからね。


 私は召使いに頼んでケルッセン様のご様子を調べさせました。ケルッセン様の浮つき具合は日増しに酷くなり、逢瀬は早めに切り上げ、一緒に出る夜会さえ挨拶もそこそこに引き上げてしまう有様になっていました。これはもうどう考えてもおかしいです。浮気だとしか考えられません。


 ま、簡単に証拠は見つけられるでしょう。何しろそのお方に会いたくて早く帰られるのです。その時に追跡すれば、そのお方のお屋敷なり逢瀬の場所なりにたどり着く筈です。そうすれば簡単に相手が分かる事でしょう。


 ところがです。帰ってきた召使いは困惑してこう言うのですわ。


「そのケルッセン様は真っ直ぐにお屋敷にお帰りになりました。その後一切外に出ておりません」


 何ですって?私は驚きました。自分のお屋敷に帰って出てこないとなると、浮気では無かったのでしょうか?いえ、そんなはずはありません。


 召使いには何度もケルッセン様を追跡して貰ったのですが、どうしても尻尾が掴めません。必ず真っ直ぐお屋敷に帰って出てこないらしいのです。


 私は、もしかしたら私が浮気を邪推していたのかしら、とちょっと反省し始めておりました。何か家で用事、もしかして公爵邸に同居していらっしゃるどなたかがご病気なのかも。そんな事を考えましたわね。


 しかしある日、ケルッセン様と並んで王都の通りを散歩していた時の事です。私は彼の腕に腕を絡め、寄り添って歩いていました。ケルッセン様はお優しく、私への扱いは丁寧です。相変わらず心ここにあらず、という感じはあるのですが、私は貴族の結婚なんてそんなものなのかな、と諦め始めてもいました。


 その時ふと、彼の肩に何か付いてるのが見えました。何でしょう。私はそれを、何やらキラキラ光る細長いものを手に取ってみました。


 糸かな?と思ったのですが、どうやらそれは毛のようです。茶色の、長さはせいぜい五センチくらいの毛です。


 ・・・ケルッセン様のものではありませんね。彼の毛は金髪ですから。私でもありません。私の髪は銀ですし、長さがもっと長いです。誰の髪の毛なんでしょう?


 私が謎の毛を摘んで首を傾げていると、ケルッセン様がその様子を見て驚きました。


「あれ?そんなものが着いていたか?済まない!」


 と言って私の指先からその謎の毛を引き抜くと、ポイッと放ってしまいました。


「気をつけてはいたんだけど」


 そう言ってケルッセン様はニッコリと笑われました。


 ・・・これは・・・。私は胸の動悸が早まるのが自分で分かりました。これはもしかして、ケルッセン様の浮気相手に辿り着いてしまったかも知れません。


 貴族令嬢は髪を短くすることはあり得ません。前髪でさえ五センチという事はまぁありませんね。ですからあの毛が貴族令嬢の物では無い事は確実です。


 しかし、庶民の女性には髪を短くしている者もおります。働く時に邪魔にならないようにとか、虫が湧かないようにとか、手入れにお金が掛かるのが困るとかいう理由で短くするようです。


 そういう庶民出身の召使い、メイドには髪の短い者もたまにおります。


 そうです。盲点でした。ケルッセン様の公爵邸にだってメイドはたくさんいるではありませんか!


 ケルッセン様はそういう髪の短い庶民出身のメイドと浮気をしているに違いありません!


 そう気がつくと、私の心には怒りと屈辱がない混ぜになったドロドロした感情が沸き起こりました。ゆ、許せません!私を差し置いて庶民出身のメイドなどにうつつを抜かすなど!


 これは貴族令嬢に浮気されるのとは訳が違います。貴族男性が貴族身分を持たない庶民女性に懸想するなどあってはならない事です。単に遊びで手を出して肉体関係を結ぶことすら推奨されません。社交界にバレたらスキャンダル扱いです。


 庶民と恋愛関係になったなどとバレたら、本人だけでなく一族郎党全員の恥になります。もちろん、婚約者の私を含めてです!私は「庶民などに婚約者を寝取られた女」として大恥をかくことになるでしょう。


 大問題です!私はその場でケルッセン様を問い詰めることを考えましたわ。ですが、事が事だけに迂闊な事は出来ません。問い詰めてもケルッセン様が白状するとは限りませんし、ケルッセン様が認めなければ私がケルッセン様を一方的に侮辱した事になってしまいます。


 問い詰めるには証拠が必要でしょう。しかしながらそれは簡単ではありません。


 何しろケルッセン様は公爵邸にお住まいです。公爵邸には私の家の召使いは立ち入れません。私の家は伯爵家。身分が下です。そんな家の者が公爵邸に無理やり立ち入ったら大問題になってしまいます。


 公爵邸の家臣に尋ねるのも無理でしょう。主君の事情を他家の者にバラすような家臣が公爵家にいるわけがありません。何しろ事が事ですもの。公爵家でもトップシークレットになっている事は間違いありません。


 私は考えに考え抜きました。方法は一つしかありませんね。


 公爵邸には我が家の家臣は勝手に立ち入れません。お父様でも無理でしょう。ですが、ケルッセン様の婚約者であり、半分以上すでに公爵家の人間であると見なされている私なら、アポなしで入る事が出来るのです。


 私がケルッセン様が浮気のために急いでお帰りの所を追跡して、私が自ら乗り込んで現場を押さえて差し上げるのです!もしも私が自ら行っても入門を断られた場合は、それ自体が公爵家が不貞を隠している証拠だと見なせましょう。


 婚約者に庶民のメイドと浮気されたなぞ大恥です。十分に婚約解消の理由になり得ます。そうです。私自ら公爵邸に乗り込み、ケルッセン様が不貞を働いている現場に乗り込み動かぬ証拠を掴み、そしてその場で叫ぶのです。「そのような汚らわしい事をなさる方と結婚するなど願い下げです!婚約解消させて頂きます!」と。


 正直、以前から憧れていたケルッセン様との婚約を解消するのは悲しく辛い事でした。ですがそれより怒りの方が上回ります。私は高貴な伯爵家第一令嬢として誇り高く生きて来たのです。婚約者が庶民相手に浮気したのを笑って許すなぞ、私の誇りが許しません!


 私は計画の実行を決意しました。



 カルッセン伯爵家で開かれた夜会。私はケルッセン様と出席いたしました。濃い青の騎士礼服に身を包んだケルッセン様と、薄黄色のドレスを着た私は如何にも婚約者同士。愛し合う二人に見えたでしょうね。


 実際ケルッセン様は私の装いを褒めて下さいましたし、丁寧に慎重にエスコートして下さいましたわ。その辺りには何の不満もございません。


 なのですが、この日もやはり気持ちは他に行っているようでした。ダンスをしたり、お食事をしたり、お話をしている時は良いのです。それ以外の、二人で並んで歩いている時ですとか、他の方と談笑してちょっと話題が切れて飲み物を飲んでいる時ですとか、そういう時にケルッセン様は何んだか締まらないお顔でニヤニヤしておられるのです。


 おのれ!また浮気相手の庶民出身のメイドの事を考えているに違いありません。私は私といる時は私だけを見ていて頂きたいのに!私は悔しくて悔しくて手が震える思いでした。


 今日こそは!今日こそは浮気の現場を押さえてやるのです!そしてこの不実な男に婚約破棄を突きつけてやるのです!


 案の定ケルッセン様は、失礼にならないギリギリで夜会を中座致しました。


「君はまだ楽しんでいると良いよ」


 などとおっしゃいます。入場してダンスも終えて皆様に一緒に挨拶も済ませていますから、二人でしなければならない事はもう終わっております。


 このままいても、ケルッセン様は、カードですとかお酒ですとか葉巻ですとかチェスですとか、そういう男性社交に行ってしまいます。私は女性同士のおしゃべりをしていますので、別々の行動をする事になります。ですからケルッセン様が先にお帰りになってもおかしくはありませんし、周囲に私たちの仲が疑われることも無いでしょう。完璧なタイミングです。


 そうはいきません。私を置き去りにお屋敷に帰って、庶民のメイドと逢瀬を楽しむおつもりでしょう。今日こそはケルッセン様を追って公爵邸に押しかけ、浮気の現場を押さえて婚約破棄を突き付けるのです!


 私はケルッセン様が退場なさるのをお見送りして、少し待ってから自分も退場致しました。そして馬車に飛び乗ると公爵邸へと向かいます。ガラガラと走る馬車の中で、私は不安でした。


 公爵邸に行っても入門が許可されないのではないか。門は潜れてもお屋敷には入れないのではないか。何しろ私はまだ婚約者です。拒否されてもおかしくはありません。


 お屋敷に入れてもケルッセン様のお部屋に押しかける前に止められるかも知れません。その場合は静止を振り切って走るつもりですが、護衛の兵士に力ずくで取り押さえられるかも知れません。


 そうなるとケルッセン様を問い詰めることは出来なくなり、私の失態だけが残る事になります。そんな事になれば逆に私が騒ぎを起こしたとして婚約解消されてしまうかも知れません。


 むむむむ。でも、もうこれ以上はっきりしないで、ケルッセン様を疑いながら過ごすのは嫌なのです。ケルッセン様は素敵な方です。婚約者としても過不足分無く私を扱って下さっています。浮気は男の甲斐性と言います。本来なら見て見ぬふりすべきかも知れません。


 ですが、それはやはり私が嫌なのです。せっかく婚約したのですもの。せめて結婚までは私の事だけを見て欲しいのです。ましてケルッセン様の失態に繋がりかねないメイドとの浮気など許すわけにはまいりません。何としてもこの私が、彼の婚約者である私が、彼を正しい道に引き戻さなければなりません。


 グリューネクス公爵邸に到着して門番に来訪を告げます。門番は突然の来訪に驚きましたが、婚約者は事前の連絡無しに押しかけても問題は無い筈です。事実、快く通してもらえました。ちょっと拍子抜けです。


 中庭を馬車は進み、車寄せで馬車を降ります。お屋敷の執事が走ってきてエスコートして下さいました。


「これはマリエル様。ようこそおいで下さいました。しかし、このような夜分に突然どうなさいましたか?」


 それは不審がられるでしょう。私は呼吸を整えて思い切って言いました。


「ケルッセン様の寝室に通して下さいませ!」


 私が決意の表情も露わに言うと、執事、そして侍女達は驚き、顔を見合わせ、そしてああ、と何故か合点のいったような表情を浮かべました。???何でしょう。その顔は。


 執事も侍女もなぜか微妙な生ぬるい笑顔を浮かべています。お屋敷の侍女長。四十過ぎの、ケルッセン様の教育係でもあったという太った女性がやはり微妙な笑顔のまま私に言いました。


「そうですね。マリエル様に叱って頂くのが一番でしょうね。おいで下さい」


 ???叱って頂く?訳の分からないまま、私は侍女長の案内を受けてお屋敷の中を進みました。


 広大なお屋敷です。その東棟はケルッセン様に与えられており、私も結婚したらここに住む予定でございます。既に私の私室は私の指示でほとんど整備されています。


 その二階の一番奥が寝室です。ここは夫婦の寝室でもありますから、結婚後は私もここで寝る事になるでしょう。


 その大きな扉の前で、侍女長は私を促しました。


「聞き耳を立ててみて下さいませ。面白いものが聞こえますよ」


 面白いもの?そ、それはまさか、浮気相手とケルッセン様の睦言では?私は流石に怖気付きました。愛するケルッセン様が浮気相手に愛を囁くのを聞くなんて、流石に勇気がいる事です。


「そ、それは。その、はしたなくもありますし・・・」


「大丈夫ですよ。ほら」


 侍女長が生ぬるい顔で更に促します。何でしょうその顔は。どうもケルッセン様がけしからぬ事をしていて怒っているというお顔ではありません。


 このままいても仕方がありません。私は思い切ってドアに自分の耳を押し付けました。


『ああ、かわいいよマリアンヌ』


 ケルッセン様の甘いお声が聞こえて私は総毛立ちました。な!何ですと!


『かわいいねぇ。可愛いよマリアンヌ。その可愛いお口、お腹。どうしてそんなに可愛いんだい?』


 私の身体ははワナワナと震え出しました。や、やっぱり浮気ではありませんか!しかもどうやら行為の真っ最中のようです。でなければ、お、お腹など見えますまい。


 しかも何ですか!可愛いとは!私だって「綺麗だね」とか「美しい」とか「凛々しい」とは言われた事はあっても、可愛いなんて言われたことがありませんのに!


 誰ですか!マリアンヌ!微妙に私の名前と似ているのは何の嫌がらせですか!


 しかもそこは、私が結婚したら一緒に使うベッドではございませんか!そこに浮気相手と寝るとはどういう了見なのですか!許せません!


 私が我知らず両手を握りしめているというのに、侍女長は苦笑しているだけです。何ですか!貴女もグルなんですか!お屋敷の皆で私を笑い者にするつもりなのですね!


 私は悔しくて悔しくて涙さえ出ないほど怒り狂いました。そして怒りに任せて寝室のドアをドカン!と押し開けました。


「許せません!」


 私の吠えるような怒鳴り声に、流石に驚いたのかケルッセン様がベッドの上で身体を起こしました。そこにいましたのね!この浮気男!ついに現場を押さえましたわよ!


「許せません!私を差し置いてそんな卑賎な女と浮気をするなんて!侮辱です!屈辱です!そんな男はこちらから願い下げです!婚約は破棄させて頂きます!」


 私が泣きながら叫ぶと、ケルッセン様は飛び上がった。


「こ、婚約破棄?というかマリエル?どうしてここに?」


「貴方の浮気を突き止めるためです!貴方とそこのメイドのね!」


  ケルッセン様は何だか呆然としています。


「う、浮気?メイド?一体何が・・・」


「しらばっくれないで下さいませ!そのご様子が何よりの証拠・・・。あれ?」


 私は勢い良く指差したのですが、途中で指が曲がってしまいました。


 あれ?あれれ?ケルッセン様は良く見ると、シャツ一枚というややはしたない、色っぽい格好ながら、ちゃんと洋服を着ていらっしゃいます。ズボンも勿論履いています。靴下も。


 そして、ケルッセン様のベッドには・・・。誰もいません。


 えー?私は愕然とし、呆然としました。その様子を見てケルッセン様は困惑し、侍女長は堪え切れなくなったのか、クスクスと笑っています。


「お、おかしいですわ!た、確かにケルッセン様とメイドの睦言が聞こえましたのに!」


 私が叫ぶと、侍女長が私の背中をポンポンと叩きました。


「落ち着いて下さいませ。マリエル様。よーく、ベッドをご覧下さい」


 べ、ベッド?私は近付いてベッドを観察しました。何があるというのでしょうか?一見何も無いように見えますが・・・。


 ・・・え?


 ベッドの枕元でなにやら動きました。毛玉?何だかフワフワしたものがコロンと転がりました。


「ね、猫?」


 そうです。猫です。子猫です。茶色と白の混じった柄の毛の長い子猫が、だらしなくのびのびと転がっています。クウクウと気持ちよさそうに寝息を立てています。


 ・・・まさか・・・。


「ケルッセン様、この猫のお名前は?」


「?名前?マリアンヌだが?」


 ・・・そうですか。こちらがマリアンヌ様ですか。


 ・・・そうですか。メイドでは無くて猫だったんですね。浮気相手は。


 くくくくくっ!何ですかそれは!


「まさかと思いますがケルッセン様!最近私との逢瀬に遅れて来たり、早く帰りたがったり、夜会を中座するのは、この猫を可愛がりたかったからだ、などと仰いませんよね!」


 私が叫ぶとケルッセン様は気まずそうに顔を逸らした。正に図星。正解。痛い所を突かれた、というお顔です。な、なんという!


「あなた!一体どういう事なんですか!婚約者を差し置いて猫にうつつを抜かすなんて!こんな、こんな・・・!」


 うぐぐぐっ!なんだと、何だと言うのですか!こんな毛玉に、コロコロした子猫に!私は魅力で負けたのですか!


 女性としてのプライドはもうボロボロですよ!事もあろうに貴族令嬢でも無く庶民のメイドでも無く、こんな小動物に負けるなんて!


 私が睨み付けていると、子猫のマリアンヌは目を覚まし、くぁっと欠伸をしました。


 く、こ、こんな、こんな!いくら何でも酷いです。こんな小さくて毛むくじゃらで、お鼻もお口も小さくて、辛うじて生えている牙が可愛くて、茶色のお目目がパッチリしていてまん丸で、耳もまだ小さくてピンク色で、よたよた歩く様は頼りなく、ニャーと小さくか細い声で鳴いて、コロコロと喉を鳴らして甘えてくる生き物に、ま、負けたなんて!


 ううう、で、でも可愛いです!何ですか!何ですかこの生き物は!コロンと横になったそのお腹はポッコリしていて、これはケルッセン様が賞賛なさるのも無理はありません。しかし、しかしですよ!


「い、幾ら可愛いとはいえ、こんな可愛すぎる生き物とはいえ!婚約者をこんな可愛い生き物と比較するとは何事ですか!ケルッセン様!ずるいじゃありませんか!こんな可愛い生き物を隠して一人で愛でているなんて!」


 私はケルッセン様が浮気をしていなかった安堵と、疑っていた事の罪悪感と、誤解してこんな所にまで乗り込んできた事への羞恥心と、誤解させたケルッセン様の怒りと、子猫の可愛さに、何だかもう頭の中が無茶苦茶になりました。私はケルッセン様と侍女長になだめられながら、ケルッセン様に訳の分からないお説教を延々としてしまったのでした。



 さて、それでそれからどうしたのかと言うと。


「あ、あの、マリエル?」


 ケルッセン様が恐る恐るという感じで声を掛けてきます。私はベッドで寝そべりながら生返事をします。


「何でしょうかケルッセン様?」


「その、たまには出かけないか?王都の新しい食堂にでも・・・」


 私は言下に断りました。


「嫌です。私は忙しいのです」


「忙しいって、ただ猫を撫でているだけじゃないか!」


 そうですとも。私は子猫のマリアンヌを愛でるので忙しいのです。


 猫はあっという間に大きくなるそうです。子猫の期間は貴重なのです。この子猫ならではの可愛さは、ほんの半年で無くなってしまうのだと聞きました。でも、猫は大きくなっても年をとっても違う可愛さがありますよ!と私に猫の事を色々教えてくれたその方は仰っていましたけどね。


 そんな貴重な時間、目を離すわけには参りませんでしょう。まして私はまだ夜はこの公爵邸には居られないのです。マリアンヌと一緒にいたいから結婚を早めたいという私の希望は却下されましたし。


「そんな、毎日毎日やって来て、私の寝室に上がり込んで・・・」


「結婚したら私の寝室にもなるのですから良いではありませんか」


「そもそもマリアンヌは私の猫なのだぞ?」


「結婚したら二人の猫になるのだから良いではありませんか」


 ケルッセン様はなんというか、切なそうなお顔をなさいましたね。これはどうなんでしょう。マリアンヌを私に取られた事を悔しがっているのか、私をマリアンヌに取られた事を寂しがっているのか。どちらでしょうね。どちらでも良いです。マリアンヌのこの可愛さは私のものです。誰にも、ケルッセン様にも渡しません。


 ああ、ケルッセン様が大きな声をお出しになるから起きてしまったではありませんか。ごめんなさいねマリアンヌ。あらまぁ。目の所に目ヤニが着いてしまっていますよ。拭いて差し上げましょうね。あら?鳴き出しましたね。お腹が空きましたか?いけません。まだお昼の時間には早いです。お昼になったら一緒に食べましょうね?あら、あらあら。私の手の所に潜り込んできましたよ。ふふふ、一緒に寝たかったのですね。良いですわよ。一緒に寝ましょうか。


「私のなのに・・・」


 ケルッセン様ががっかりなさっていますね。でもダメです。幾ら婚約者でも、一緒のベッドに入る訳には参りませんでしょう。結婚するまで我慢して下さいませ。



 こうして、私のマリアンヌ最優先、ケルッセン様は二番目、という生活は、正式に結婚して二人のお子が生まれるまで続いたのでした。

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猫と婚約者 宮前葵 @AOIKEN

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