side MANA《サイド まな》

 手首の筋は、意外とかたい。

 強くカッターを押しつけても、深く切るのは難しい。それとも、あたしが臆病なだけなのかな。

 苦いような痛みが走ったあと、少しの時間をおいてすぅっと赤い筋が伸びる。ぽつ、ぽつ、と小さな赤い滴が滲んで、じわじわとつながっていく。

 ザッと切ってボタボタと血が流れる、なんてイメージとは程遠い、情けない傷痕。実際、手首を切って死ぬのはかなり難しいし、ためらい傷のない自殺もないらしい。

 前に読んだ小説の主人公は、十回以上手首を切りつけても死ねずに、最後には窓から飛び降りていた。

 十四歳の女の子。――あたしと同じだ。


   ◇◇◇


 顔をあげると、薄暗い廊下の窓から真っ赤な夕陽が光を投げかけていた。

 実技教室ばかりの校舎は閑散として、人の気配がない。音楽室から、途切れ途切れに吹奏楽の音色が聞こえてくる。

 真奈まなはカッターナイフを床に置き、踊り場の壁にもたれたまま、窓に目を向けた。

 四角い枠に切り取られた外の光景。それはまるで絵画のようで。決して手の届かない、遠いものに見えた。

 真奈は立ち上がり、スカートを払う。お尻も太腿も、すっかり冷えきっていた。

(――そろそろ帰らないと)

 ティッシュで血をぬぐい、ばんそうこうを貼った傷を、セーラー服の袖で隠す。

(もうすぐ衣替えだし、そろそろやめなくちゃ。古傷ならまだしも、新しい傷だと、ごまかしがきかないから)

 一説によるとリストカットは自分の傷や痛みを他人に見せたくてやるらしい。だが真奈は見られたくはないし、誰にも知られたくなかった。

 ただ、汚いものを流してしまいたい。そうすることで、ほっとする。自分が赦されたような、浄化されたような気がするから。

 夕暮れの校舎の中、窓枠の影を踏んで歩く。下駄箱にも人の姿はなく、静まり返っていた。

 ほっとするが、明日また学校にやってきて教室に行くことを考えると、憂鬱になる。

 帰り道、ふと顔をあげると太陽が傾き、白い雲を赤く、空を濃紺に染めあげていた。自然の織り成す絶妙なグラデーションを目にした真奈は、足を止める。

 薄い雲はみるみるうちに形を変え、空の色が移り変わっていく。その光景は目をそらすことができないほどに、真奈の心を捕らえた。

「何を見てるんだ?」

 不意に声をかけられ、びくっとする。いつの間にか、隣に兄の正人まさとが立っていた。

「……空」

 答えると、見ればわかる、とばかりに呆れた顔をされてしまう。

「あのね、雲が……すごい速さで動いてるの。上のほうはきっと、風が強いんだろうな、って思って」

 真奈は必死になって、空に心を惹かれた理由を伝える。そんなふうに言葉を紡ぐのは、久しぶりだった。

 言葉は怖い。人を傷つけ、誤解を招く。

話してみないとわからない、と言うけど、いくら話してもわかり合えない人はいるし、言葉を重ねれば重ねるほど、離れていくこともある。

(それが怖くて……人と話すことは避けていたはずなのに)

 正人は意外にも、馬鹿にしたり興味のない+態度をとったりせず、真剣に耳を傾けてくれた。それが嬉しくて、透明水彩のことや、絵本作家になりたいという夢まで語ってしまう。

 長い髪が風を受けてなびく。少し熱くなった頬に心地よく、真奈はそっと瞼を閉じた。

 外に出るのは、嫌いではない。校門に並ぶ桜の木、運動場のイチョウ、中庭の金木犀。

季節ごとに彩りを見せる花壇。そうしたものを眺めながら、ぼんやりと考え事をしたり、本を読んだりするのは好きだった。

 だが『学校』そのものに魅力は感じなかった。

 人が沢山いるところは苦手だ。感情の波と言葉の渦に呑まれ、息苦しくなる。

 どう対処していいかわからなくて、迷惑をかけないよう、相手を不快にさせないよう、気を張ってしまうから。

(……木の葉のざわめきは、こんなにも心地よいのに)

 真奈はいつも、できるだけ自然の多くて、人通りの少ない道を歩く。

苦手なすり減った心を

 だが正人といても、不思議と息苦しさは感じず、穏やかな気持ちでいることができた。


   ◇


 正人はその日以来、真奈に対する態度が目に見えて変わった。

「真奈か、おかえり」

 帰宅してリビングのドアを開けると、ソファーに座っていた正人がゲームの手を止めて振り返る。

「ただいま」

 答えてから、これが今日初めて口にした言葉かもしれない、と思った。

 リビングにはゲームの音が鳴り響いていた。テレビを観るときも音楽を聴くときも、正人はいつも大音量だ。どうやら、それを注意する人はまだ帰っていないらしい。

「お前も食うか?」

 立ったままの真奈に、正人はスナック菓子の袋を差し出してくる。

「ううん、いい」

「じゃ、飴をやる。好きなときに食いな」

 返事も聞かずに個包装の飴玉を投げられ、思わず受け取ってしまう。

「ありがと……」

(正人って、いつも何か食べものを持ってるな。遭難してもしばらく生きられそう)

「なぁマナ。お前、学校楽しいか?」

 感心していたが、不意の問いかけに硬直する。何か答えようとしたけれど、言葉にならなかった。

「オレはつまんねぇよ。行く気もしない。家でゲームしてるほうが、よっぽど有意義だ」

 正人はソファーにもたれかかり、ぞんざいに足を投げ出す。

「学校、行ってないの?」

 真奈は私服姿の兄をまじまじと見て聞き返す。正人とは同じ中学だが、登下校は別々だ。

(知らなかった……受験生なのに、大丈夫なのかな)

「かったるいからな。高校なんてどこでもいいし、なりたいものもやりたいこともない。勉強なら家でもできるし、真面目に通う意味がわからねぇ」

 自分には必要ないと吐き捨てる。それが正しいと言わんばかりの強い口調だった。

(居場所がなくて、居心地が悪くて。それでも学校に行かずにはいられないあたしとは、大違いだ)

「お前もサボれば?」

「……どうして?」

「窮屈そうに見えるから」

(そんなふうに見えるんだ……)

 実際、息苦しいのは事実だった。

 自由で迷いのない正人がうらやましい。彼を真似れば、少しは近づけるのだろうか。

 誰に何を言われても気に留めず、自分の道を自分のペースで歩いていける人間に。

「……サボったりしたら、迷惑かけない?」

「誰にだよ。これからずっと行かないならともかく、たまに休むくらい問題ないし、誰も気にしねぇよ」

 さらりと返され、肩の荷が下りた気がする。

「今なら親はいねぇし、真理も朝早いからな。準備だけして見送れば、あとは自由だ」

「正人は、明日も休む?」

「その日の気分次第。けど、マナが休むなら付き合ってやるぜ」

 ニヤニヤと笑う正人は、共犯者を待ち構えているようだった。

(怒られるのは怖い。列からはみ出るのも、目立つのも。だけどそうすることで何かが変わるのなら。変えることが、できるのなら)

「あたしも……休む」

 決死の覚悟で口にすると、正人は「気楽にな」と軽く真奈の背中を叩いた。

(病気でもないのに学校を休むなんて、初めてだ)

何だかものすごい冒険が始まるみたいで、心臓が高鳴る。

 それから少しすると、姉の真理まりが帰ってきた。

「ちょっと正人、リビングを占領して汚さないで! 真奈も、帰ったら制服は脱ぎなさい」

 勢いよく怒鳴る姉に、正人は「うるせぇのが帰ってきた」と顔をしかめる。

 両親は完全な放任主義なので、真理がこの家で一番厳しい。

 真理は成績優秀で運動もできる上に社交的だ。そのために毎日努力を欠かさない。

(他人のことまで気にかけて、すごいな。あたしは、自分のこともうまくできなくて、失敗ばかりしてるから……)

 学校を休んだと知れたら真理はどんな反応をするだろう、と不安になった。

怒るだろうか、責めるだろうか。失望させてしまうだろうか。

(真理は他の人が面倒くさがるようなことも率先して引き受けて、頑張っているのに――あたしはいつも、逃げてばかりだ)


   ◇


 翌日は、学校を休んで正人と過ごした。

 一緒に映画を観た後、何となく立ち去りがたくてその場で本を読んでいると、正人は何も言わずに音量を下げてくれる。

(正人って、結構人のことを見てるし、気遣ってくれるんだよね)

 正人のことを『自分勝手で人の話をきかない』と語る真理にも、もっとこうした姿を見てもらいたいと思う。

 居間に差し込む日差しはあたたかで、窓の向こうの空は真っ青に晴れ渡っていた。

「……いい天気」

「外に出たいのか?」

 思わずつぶやくと、正人が見透かすように問いかけてくる。

「ちょっとだけ……」

「じゃあオレも行く」

 正人は漫画雑誌を投げ出して立ち上がる。一応、保護者のつもりなのだろう。

「あ、一人のほうがいいなら、やめとくけど」

「……ううん」

 少し考えてから、真奈は首を振ってみせた。

「けど……正人には、つまらないかも」

「気にするな。コンビニに行くついでだからな」

 当たり前のように告げられ、玄関に向かう。

(そういえば、誰かと出かけるなんて久しぶりだな……)

 外に出ると、日差しは案外強く、通り抜ける風は心地いい。真奈は長袖のまま、できるだけ日陰を選んでのんびり歩いていく。

 垣根の奥のエニシダが風に揺れ、反対側の塀を通る白猫が足をとめてこっちを見る。

(電柱横のタンポポの綿毛はもう飛ばされちゃったかな。向こうの家の軒にあったツバメの巣はどうなってるだろう。河川敷まで足を伸ばして菜の花を見るのもいいな)

 これといった目的もなく、ただ風を感じ、光を浴びて歩くのが好きだった。

「危ないぞ」

 不意に手を引かれ、はっとする。足を止めると、すぐ横を車が横切っていく。

(びっくりした……車もそうだけど、正人が隣にいるの、忘れてた)

「前のときも思ったけど、すげぇ集中力だな」

 怒られるかと思ったが、正人は吹きだすように笑った。馬鹿にする感じはなく、むしろ感心するような言い方だ。

(すごい集中力……? 注意が足りてない、じゃなくて?)

 意外な言葉に目をしばたく。そんなふうに言われたのは初めてで、くすぐったい気分になる。

(正人は思ったことをはっきり言う性格だし、お世辞も嫌いなはずなのに……なんだか、調子が狂っちゃうな)

 コンビニに立ち寄ると、正人はお弁当やジュース、お菓子を大量に買いあさる。

「お金持ちだね……」

「旅行前に両親から小遣いせびっといた。自分たちだけ楽しむなんてずるいだろ、ってな。食事代も別に請求するつもりだ。昼飯は本来、給食があるし、買った時間もレシートに残るから、請求できねぇけど」

(なんていうか……ちゃっかりしてるなぁ)

 悪びれもせずに語る正人に、真奈は思わず苦笑を浮かべる。

「お前もなんか選べよ。ぶんどった小遣いでおごってやるぞ」

 別にいい、もしくは何でもいい、と答えようと思った。

 だけど目の前にあったプリンがとてもおいしそうに見えたので、そっと手にとる。

「……これにする」

 正人はうなずき、カゴの中に入れてくれた。

「これだけでいいのか? 昼飯は?」

「お財布持ってきてないし……お昼代は請求できないんだよね?」

「サボるように持ちかけたのは俺だし、今回は出してやるよ」

(お小遣いでお昼ご飯まで買ってくれるんだ……いつもは家にあるものを好きに食べて、真理に『他の人のことも考えなさいよ』って怒られてるのに。なんだかんだで気にかけてくれるの、『お兄ちゃん』って感じだなぁ)

 説教くさくなく、憐れんだ慰めも、追いつめるような励ましもない。

 否定しないでいてくれる。当たり前のように受け入れてくれる。

 その言動のひとつひとつが、真奈の心を軽くしてくれた。

「……ありがと」

「別に。プリンくらいなら、また買ってやるよ」

(おごってくれたことだけじゃないんだけど……)

 なんだか気恥ずかしくて、口を噤む。

(正人は、気づいているのかもしれない。あたしが学校でうまくいってないって。サボらないかって提案も、ただの気まぐれじゃなくて、正人なりの気遣いなのかも)

 確証はないけど、そう感じた。


   ◇


 その後も数日、正人と一緒に学校を休んだ。

 よくないことだとわかっていたけど、その間は新たな傷をつくらずにすんだし、今までの傷も、少しずつ癒えていく。

「たまには休養も必要だろ」

 そう語る正人にも、何か逃れたいものがあるのかもしれない。

(そう。つらいのはあたしだけじゃない。だってあたしは――誰かにひどいことをされたわけじゃない)

 ただ自分の言葉が人を傷つけ、誤解を生んで。ほんの少し、浮いてしまっただけ。

 他の人なら簡単に取り戻せただろう微かな溝を、真奈には埋めることができなかった。人と話すのが怖くなり、逃げているうちに、戻れなくなってしまった。

(みんなは悪くない。ただあたしが弱いだけ。だから罰して、自分を保とうとしてるんだ)

 つらいとか苦しいなんて訴える資格なんてない。

 正人が心配してくれているのは嬉しいけれど、申し訳ない。自分には、そんな価値はないから。

(お願いだから、気づかないで。あたしの弱さに、情けなさに)

 そう願うものの、隠し通せるはずもなかった。

 真理が学校を休んでいることを知って、問いつめてきたのだ。

 関係ないと切り捨てる正人の横で、真奈は本に目を落としながら黙っていた。

「真奈はどうして中学に行かないの?」

 問われて、心臓が跳ねる。表情が強張る。胃が痛んで、吐き気がする。

 聞かれたくない。答えたくない。だけど、無視することはできなかった。

「……行きたくない」

「だから、どうして?」

 必死に絞り出した答えにも、すぐに質問が投げ返される。

「嫌だから」

 そうとしか、答えようがなかった。真理の顔を見るまでもなく、失望されているのが伝わってくる。

「……真理は」

 居心地の悪さを覚え、真奈は本を閉じ、静かに切り出す。

「どうして怒るの? 『お父さんたちに任された』から?」

 真理は微かな狼狽をみせた。

「それとも――あたしたちに『問題がある』から?」

(真理のようになりたかった。だけど、あたしには無理だから、他の方法にすがった。それもダメだって言われたら、あたしは――どうしたらいいの?)

 真奈は小さく息をつくと、本を小脇に抱えて立ち上がる。

 息苦しくて、早く部屋に戻りたいと思った。

「義務教育だし、理由もなく学校休むのはよくないでしょ。体調が悪いとか、理由があるなら……」

「真理は、『休んじゃダメだから』学校に行くの?」

 彼女を追いたてるものは何だろうと、疑問に思って問いかける。

「だめだからっていうか……病気とか以外で休むなんて、考えたこともなかったわ。私は、やるべきことはやらないと嫌なのよ。自分が許せなくなるから……」

 学校を休むなんて考えたこともない。やるべきことはやらないと嫌。今まできちんとこなしてきた、優等生の言葉だ。

(そうじゃないと、許せない? 真理は、あたしのことも許せないの?)

 自分を許してしまうから、自分に甘いから、真理のようにはなれないのだろうか。まだまだ努力がないのかと、考えているうちに正人が帰ってきた。

「マナ、プリン食うか?」

 何も言ってないのに、好物を買ってきてくれたらしい。その優しさに、表情が緩む。

(正人にも、心配をかけてる。今まではたまに休むくらいだったはずなのに、あたしに合わせて連日休んでる。もっと、しっかりしないと……)

「……あたし、明日は学校行くね」

 つぶやくと、真理は驚きつつも喜びを見せた。正人は真奈の肩をつかんで無理していないかと心配してくれた。

 翌日、正人は一緒に学校までついてきて、ためらう真奈をゲームセンターに誘った。

兄なりの気遣いなのだとわかって、元気づけられる。

 だけど数日ぶりの学校は、今まで以上に息苦しく思えた。人の密集した空間。ざわめき。そこにいるだけで、気分が悪くなる。

 ささやき合う声や笑い声はすべて、自分に向けられている気がする。被害妄想だとわかっていても、怖くて仕方がない。

 学校に行っても声をかけてくれる友人はいない。先生も何も言わず、いつも通り。いてもいなくても、変わらない。休む前はその事実にほっとしたはずなのに、自分はいらない。いなくてもいいという考えが強くなる。

 教室の光景がまるで、映画か何かでも見ているかのように遠く感じた。

 声を発しても誰にも届かない。だから、発する気にもならない。

(気分が悪い……だけど、保健室に行く勇気も早退する勇気もない。病気じゃないのは、わかっているから)

 時間が恐ろしく長く感じた。休み時間の度に人のいないところに避難する。

 兄の正人のところに行こうかとも思ったが、これ以上迷惑をかけたくないと首を振る。

(正人はつまらないからって、自分の意志で学校に行かなかっただけなのに――あたしは自分で行くって決めたのにまともに学校に通えないなんて、思われたくない)


   ◇


 ようやく学校から帰る頃にはすっかり疲弊しきっていた。そんなときに限って、校舎内に人が多く、安心してカッターを手にすることはできなかった。

 トイレの個室も考えたが、もっと落ち着ける場所がいい。そう思って、自室に戻る。

 痛みが走って、赤い血が溢れてくると、自分の中の汚いものが……中にたまった膿のようなものが出ていく気がして、ほっとする。

 そのとき、真理が声をかけると同時に部屋の扉を開けた。

 驚き、心配しかけた姉が、事実を察して恐怖に変わっていく。

「やめてよ、気持ち悪い! どうしてそんな……っ」

 叫ぶ真理に、もう終わりだ、と思った。

だけど正人が姉を押しのけ、真奈の前にしゃがみこむ。

「……でかいな。あんま深くはなさそうだが、絆創膏じゃ足りねぇか」

(ああ、やっぱり……正人は知ってたんだ)

まったく動揺を見せない兄に、真奈は察した。

 一体いつからだろう。何も尋ねず、慰めも励ましも口にしないのは、正人らしい。

「正人。あんた、知ってたの!? だったらどうして止めないん……」

「誰のせいだと思ってんだよ!」

 鋭い声に、真理だけでなく真奈も身を硬くする。

「お前が無理に学校なんか行かせるからだろ。事情も知らずに、自分の価値観ばっか押しつけやがって!」

 口げんかはよくあることだが、今回は表情にも声音にも、本気の怒りが滲んでいた。

(違う。正人、違うの――)

 反論したいのに、言葉にならない。真奈は深く息を吸って、必死に声を振り絞る。

「……正人」

 床に座り込んだまま、正人の袖を引く。

「真理のせいじゃない。あたしが悪いの」

 正人は振り返り、何か言いたげに口を開く。だけど言葉を呑み込み、口を閉じる。

 兄が怒ったのが自分のためなのは、わかってる。姉がそれに、ショックを受けているだろうことも。要するに、すべて自分のせいなのだ。

「あたしが、弱いから。こんなことばかりしてるから。でも――ごめんなさい。ごめんなさい。わかってくれとは、言わないけど……」

 バレたらどうなるか、わかっていたはずなのに。それでも逃げずにはいられなかった。

 組んだ両手に力を込めて嘆願する。

「許して。あたしには……こういうやり方しかできないの」

 強くなりたかった。真理のように、正人のように。なのにどちらにもなれず、人に迷惑をかけてばかりいる。その事実が、情けなくて仕方がない。

「……マナ、もういいよ。手当てするから、こっちに来い」

「でもね。あたし、真理のこと嫌いじゃないの」

 正人が右手をつかんだけれど、真奈はそのまま言葉を続けた。

「真理はいつも、色んなことを頑張ってるから。すごいと思う。あたしも……真理みたいになりたかった」

「マナ――」

「手当ていいよ、正人。自分でやれるから」

 何とか微笑んでみせると救急箱をとりに行くため、真理とすれ違う。

「……すごくなんかない」

 真理がつぶやき、真奈は足を止めた。ゆっくりと、姉のほうを振り返る。

「立ち止まったら二度と歩けない気がして――怖かっただけよ。ただ、ずっと」

真理がいつも、何かに追いたてられているように見えたのはたしかだった。

(だけど真理はその不安や恐怖すら力にして、乗り越える度に自信に変えていってたから。すごいと思うし、その強さに憧れたんだ)

「ごめんなさい――」

 真理の頬を、涙が伝う。真奈は手を伸ばし、指先で涙を受けとめる。

(泣かないで、真理。謝ったりしないで。真理があたしを傷つけるつもりじゃなかったのは、わかってるから。怒ってばかりだけど心配してくれたのも本当だって、知ってるから)

 そう伝えたら、真理はどう思うだろう。何がわかるの、って怒られるだろうか。

 だけど、言葉を介して、初めてわかり合えることもあるから。

 話すことで、離れていくこともある。それでも、言葉を口にすることを諦めてはいけないんだ。

(あたしたちも、あの空のようになれたらいいな)

赤と白と青が、濃くなって薄くなって、混ざり合う――まるで、一枚の絵画のように。


                             

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3colors《スリーカラーズ》 青谷 圭 @aoyanosuke

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