side MASATO《サイド まさと》

 オレの周りの連中はみんな、バカばかりだ。

 人と同じであることに安心する、量産型の埋没タイプ。たいした取り柄もないくせに自分だけは『特別』だと思い込んでる勘違いタイプ。

 ごく一握りの天才は、こんな田舎で名もない学校に通ったりはしない。

 それでも自分が何者でもないバカだと自覚していないなら、幸せなのかもしれない。

 オレは自分が何の力もないガキだと知っている。才能もこだわりもない凡人。

 だからって他人に合わせたくはない。共感を強要されたり、足並みを合わせろと強制されるのは虫唾が走る。

 特別になりたいわけじゃない。ただ、縛られることなく生きていたい。


    ◇◇◇


正人まさと、うるさいわよ。もう少し音量下げなさいよ!」

 バンッと扉が開けられ、真理まりが威勢よく声をかけてくる。

(またうるさいのが来た)

 正人は顔をしかめ、振り向きもせずヘッドフォンを手に取った。

 年頃の弟の部屋にノックもなしに入るなんて、デリカシーがない。毎日怒鳴ってばかりで、よく飽きないものだと感心する。

 人前では猫をかぶって優等生を演じているので、外で会うと気持ち悪くて見ていられない。『自分は特別』な勘違いタイプと、『人に合わせる』埋没タイプの融合例だ。

 将来のことを考えて、と真理は言う。だが本人の人生設計は××大学に入って、有名企業に就職する、という具体的なようでいて、意味も目的もわからない薄っぺらなものだ。

 人に言って恥ずかしくない安定した職業につければ、なんでもいいのだろう。

 必死に勉強して、周囲に愛想笑いを振りまいてまで得たいものかと、正人にはまったく理解できなかった。

「ちょっと、聞いてるの!?」

 ゲームの画面に集中していると、いきなりヘッドフォンを奪われた。

 外された耳当てから、大きな音が流れ出す。

「返事くらいしたらどうなの。あと、ゲームばかりしないで少しは勉強しなさい。まったく、姉として恥ずかしいわ」

 ため息交じりの言葉。仁王立ちで見下ろされ、まさに上から目線、だ。

「うっせぇな、お前には関係ねーだろ。とっとと出てけよ」

 正人は姉を振り払い、外界を遮断するためヘッドフォンをつけ直す。

(オレは、自分が主人公になれないと知ってる。何一つ思い通りにならないし、いてもいなくも、なんの影響もない)

 それでもゲームの中では英雄になれる。嫌なことも面倒なことも忘れて没頭できるのだ。

(勉強や委員の仕事に生きがいを見出せる真理は、ある意味すごい。そんな生き方はオレにはできない)

 正人は苛立っていた。反抗期なんて言葉で片付けられたくはないが、傍からはそう見えるだろう、少なくとも真理はそう思っているとわかるから、余計に腹立たしい。

(馬鹿みたいだ。真理も、クラスの連中も――オレ自身も)

 思いながら、コントローラーを握りしめる。

 大人はゲームなんて百害あって一利なしだと口をそろえて言う。

 だが正人は、そうは思えなかった。

 自分はこれがなければ、とっくに誰かに殴りかかっていただろうから。


   ◇


 正人の目に映る世界は、くすんだ灰色だった。色あせて、何の魅力もない世界。

 制服を着たクラスメイトたちは、のっぺらぼうのように見分けがつかず、顔や名前を覚えたい、と思える相手もいない。

 学校なんてつまらないし、行く意味もわからない。親や姉の目を盗んで、サボることが多くなった。

 最初はさすがに気が咎めたが、意外とバレない――もしくは見て見ぬフリをされていたのか――ことがわかると、休む頻度は増えていった。

 タバコや酒、万引きなどで憂さ晴らしをする気はなかった。正人にとって「ガキがイキがってて、逆にダサい」ように見えた。試してみたいと思えるほど、興味を惹かれなかったのもある。

 生意気な言動から目をつけられ、ケンカを売られることはあった。面倒は嫌いだし、腕っぷしに自信があるわけでもないので、プライドもなく逃げるのだが、おかげで苛立ちは増すばかりだった。

 そんなある日――ゲームセンターに立ち寄った帰り道、日が沈みかけた道端で、妹の真奈まなを見かけた。

 同じ中学に通ってはいるが、登下校は別で、ろくに話もしない陰気くさい妹。

 真奈は足を止め、ぼんやりと頭上に目を向けていた。

 声もかけずに通り過ぎようとしたが、熱心に空を仰ぐ姿が気になった。

 いったい何があるのだろうと、妹の視線の先を追ってみる。

 だけどそこには何もなかった。ただ赤く染まる空が広がっているだけだ。

 気球も子供の手を離れた風船も、飛行機雲もない。目を惹くようなものは何一つ。

「何を見てるんだ?」

 声をかけると、真奈はビクッと身をすくめた。どうやら、兄が横にいるのにようやく気がついたらしい。

「……空」

「いや、それはわかるけど」

「あのね、雲が……すごい速さで動いてるの。上のほうはきっと、風が強いんだろうな、って思って」

 呆れかけていると、真奈はたどたどしく言葉を紡ぎ始めた。

 確かに、言われてみると薄く雲がすぅっと、頭上を移動していくのが見える。

「白い雲が赤く染まって、青い空が段々、紫に近づいていくの。その間にも雲が動くから、どんどん表情が変わっていって――」

 真奈は夢でも見るような、うっとりとした表情で語る。

(夕焼けなんて、いつ見たって同じだろ)

 そう答えようとしたが、昨日や一昨日はどうだったのか、本当に同じだったのか、正人には確信が持てなかった。

(いや、同じわけがないのか)

 雲の位置や動き、太陽の傾き、他にも沢山の要素によって、空は表情を変えていく。

 同じ空の下、なんてフレーズをよく耳にするが、空は続いていても、目にするものは同じではない。そんな当たり前なことに、正人は初めて気がついた。

「透明水彩って、知ってる?」

「水彩絵の具だろ、小学校のとき使ったやつ」

「あれはマット水彩っていうんだって。不透明と、透明の中間。絵の具って、混ぜていくと濁っちゃうでしょ。でも透明水彩は、パレットで混ぜなくてもいいの。下の色が透けて見えるから、黄色を塗って、上に青を重ねて緑をつくれるんだよ」

 真奈がこんなふうに熱心にしゃべる姿は、初めて見る。

(そういえば、美術部に入ったとか聞いたことがる気がするな……)

 今まで関心もなかった情報を思い出し、少しだけ腑に落ちた。

「不透明の絵の具は、下にある色を消しちゃうけど……透明水彩は違うの。互いを邪魔することなく重なって、別の色に変化していくんだよ。……あんなふうに」

 濃さを増していく空が夕焼けの色と混ざり合い、赤紫のグラデーションをつくりだす。白と灰色の雲が、ところどころに赤に彩られている。

(たしかに、絵画みたいだ)

正人は水彩の風景画なんてろくに見たことはないが、素直にそう思えた。

(マナはいつも、そんなことを考えて空を見ているのか?)

 正人は空を見上げること自体、いつぶりかわからないほどだった。景色はただそこにあるだけで、気に留めるものではないと思っていたのだ。

(感想なんて、綺麗だとか、写真に撮っておこう、くらいしか浮かばないだろ。なのに真奈は――夕焼けひとつで、そんなふうに思えるのか)

 自分にはない感性に触れ、衝撃を受けた。

「……お前さ。将来の夢とかって、ある?」

 なんとなく尋ねてみると、真奈は首を傾け、じっとこちらを見返してきた。

(急に何言ってんだこいつ、とか思われたかな。実際、自分でもそう思うけど)

「なりたいものとか、したいこととか。正直、オレは何もねぇんだけど」

「……あるよ」

 真奈は少し考え込んでから、ぽつりとつぶやく。

「何?」

「絵本作家」

 静かだが、迷いのない口ぶりだった。

「なるのは、すごく難しいの。それだけで食べていくのは難しいし、私には無理かもしれないけど、でも……なれたらいいなって、思ってるよ」

 芸能人になりたいとか漫画家になりたいとか、無謀な夢を語るやつは多い。

 口にするかどうかはさておき、絶対になってやる、という熱意は必要なのだろう。

(いつもなら、自信がないとかただの甘えだろ、とか、そんなんじゃ通用するわけないって、馬鹿にしてるところだけど――)

 難しいと知りながら、それでも挑む強さが妹にあるなんて、考えもしなかった。

「いいな、それ。オレも見てみたいよ」

 慰めやお世辞ではなく、本気でそう思った。

真奈の見ている世界を、真奈の選ぶ言葉を、自分も見たいと。

 真奈は、まん丸な目をして正人を見つめる。何か、不思議なものでも目にするように。

 気づけば、苛立ちが影を潜めていた。

 正人は真奈の手首にある傷に気づいていた。それがどういうものかも察しはついた。

 だが理由を問いただす気はしなかった。

 傷だらけの腕を隠して、夢見るように空に焦がれる。

 他人に合わせるわけじゃなく、その場しのぎの、曖昧なものでもない。

 自分で選んだ道を見据え、慎重に足を進めていく。そんな妹の姿は、正人にとって尊敬に値するものだった。

「さっきの話、おもしろかったし。もっとそうやって、思ってることを話せばいいのに」

 心からの言葉だったが、真奈は何故か、申し訳なさそうにうつむいてしまう。

「……あたしは、ダメな人間だから」

 謙遜ではなく、本気でそう信じているようだった。

「どこが? 俺はそうは思わないけど」

 正人はただ一言、つぶやいた。

 必死になってフォローするのも説教くさい言葉を並べるのも柄じゃない。

 何より、真奈はかばってほしいとか、慰めてほしいなんて、思っていない気がした。

 実際、正人の言葉にも何かを諦めたような苦笑を見せただけだった。

 何がだめなのか、何故そう思うのかは聞かなかった。下手に踏み込めば、傷に触れてしまいそうだったし、自分なら深入りされたくはないだろうと思ったから。

 しかしその後、真奈がどんどん追いつめられているように見えたので、策を講じた。

 それが――学校をサボる、という提案だった。


   ◇

 

 真奈は意外にもあっさり提案に乗ってきたので、正人も休んで共に過ごすことにした。

今までは一人でいるほうが好きだし、他人と関わるのは疲れるだけだと思っていたのに。

 真奈は静かで他人に口出ししないし、自分とは違う感性を持っているので新鮮だ。

微かな警戒を見せる姿もまた、野生動物を手なずけるような感覚で、悪くない。

 だが、姉の真理に不登校の事実が知れて、その時間は突如、終わりを告げた。

「あたし、明日は学校行くね」

 留守にしている間に姉に説き伏せられたのか、真奈がそう宣言してきたのだ。

(まずいな……まだ早すぎる)

 真奈が学校という檻の中でどれだけ縮こまっていたか。そこから解放され、どれだけのびのびとしているか、正人は知っていた。

 正人にとってはただのサボりだが、真奈には必要な時間なのだ。

 だが本人が行くと言っているものを、無理に休ませるわけにもいかない。

 翌日は妹と一緒に登校することにした。真奈のような繊細なタイプは、ほんの数日でも続けて休むと余計に行きにくくなるだろうし、心配だったからだ。

 真奈は校門の前で足を止め、無言で校舎を見上げる。

 そびえたつ敵に挑むかのようだったが、表情はあくまで無表情だ。

「……ゲーセンにでも行くか?」

 何気ない調子で声をかけると真奈は、兄に顔を向けた。それから小さく首を振る。

「ううん、いい」

「行きたくないなら、真理の言うことなんて無理していいんだぞ」

「大丈夫だよ。……ありがと」

真奈は硬かった表情をやわらげ、微笑んでみせる。

 こちらの心配を見透かしているみたいだった。

これ以上は何も言えないと、正人は息をつき、真奈と別れてそれぞれの教室に向かう。

(真奈だって、子供じゃないんだ。大丈夫だと信じよう)

そう自分に言い聞かせたが、すぐに後悔することになった。


   ◇


 正人よりも遅れて家に帰ってきた真奈は、ひどく疲れているように見えた。暗い表情をして、挨拶もそこそこに自室に入る。

(まだ傷をつくってきたのか、それとも、これからつくるのか)

 勘付いたものの、正人には何もできなかった。

真奈が助けてくれとすがってくるなら、できる限りのことはしてやった。

 たとえばイジメが原因で、相手をコテンパンにしてくれ、なんて願いでも、今の正人なら、叶えてやったかもしれない。

 だけど真奈は、そんなことを望みはしない。安易に他人に頼ったりはしない。

 その事実は誇らしいものの、もどかしかった。

「いないの? 二人とも」

 二階にあがってくる足音と、真理の声が聞こえた。

「なんだよ、うっせぇな」

 正人は慌ててドアを開け、返事をする。いつもなら自分から顔を出したりはしないが、今は真奈のところに誰も近づけたくなかった。

 しかしデリカシーのない姉は、止める間もなく扉に手をかけてしまった。

 正人が触れることをためらった場所に。無断で踏み込んでいったのだ。

 そして、目撃してしまった。

 正人も初めて目にする、リストカットの現場を。真奈にとって誰にも見られたくないであろう行為を。

「やめてよ、気持ち悪い! どうしてそんな……っ」

 悲鳴じみた声をあげる姉を、本気で殴ってやりたくなった。

 だが正人は真理を押しのけるに留め、真奈のもとへと駆け寄った。

 真奈は、いたずらの見つかった子供のような動揺と怯えを見せていた。表情は相変わらずほとんど動いていないが、そう感じた。

 治りかけた傷に混じって伸びる赤い線は痛々しい。

 細く腕を伝って、ぽとりと垂れた血が、紺色のセーラー服にじわりと滲む。

 たくさんの傷を抱えながらも、真奈は耐えてきたのだ。文句の一つも口にせず、ひとりで戦ってきた。

(なのに――)

「あんた、知ってたの!? だったらどうして止めないん……」

「誰のせいだと思ってんだよ!」

 真理の言葉に、正人は怒りを爆発させた。

「お前が無理に学校なんか行かせるからだろ。事情も知らねぇくせに、自分の価値観ばっか押しつけやがって!」

 真奈は真奈なりに、必死に頑張っていた。それなのに、追いつめるような真似をしたのは真理だ。どうせ学校が全て、とでも言ったんだろう。そんなんじゃ駄目だとか、将来がどうだとか――。

 真奈が苦しんでいるのは、今なのに。無遅刻や無欠席が何だって言うんだ。

(無理に枠にはまろうとするな。お前は落ちこぼれなんかじゃない。小さな枠に収まりきらないだけだ。大事な部分をそぎ落としてまで、他人に合わせる必要なんてない)

正人は、真奈に感性を失ってほしくなかった。ともすれば自殺するのではないかという心配よりも、心を殺され、濁ってしまうことのほうが、ずっと怖かった。

「……正人」

 真奈は床に座り込んだまま、正人の袖を引いた。

「真理のせいじゃない。あたしが悪いの」

 正人は妹を振り返り、口を開く。だが真っ直ぐな目に見据えられ、何も言えなくなる。

「あたしが、弱いから。こんなことばかりしてるから。でも――ごめんなさい。ごめんなさい。わかってくれとは、言わないけど……」

 長い髪を垂らしてうつむく真奈は、祈るように両手を組み合わせる。

「許して。あたしには……こういうやり方しかできないの」

 気持ち悪いと蔑んだ姉を責めるどころか、震えた声で赦しを請う。

『不透明の絵の具は、下にある色を消しちゃうでしょ。でも、透明水彩は違うの。互いを邪魔することなく重なって、別の色に変化していくんだよ』

 真奈は消されることを恐れていたのかもしれない。『理解しなくてもいい、だけどお願いだから、否定しないでほしい』と必死になって懇願しているのだ。

「……マナ、もういい。手当てするから、こっちに来い」

「でもね……あたし、真理のこと嫌いじゃないの」

 右手を引こうとするが、真奈の言葉にさえぎられた。

「真理はいつも、色んなことを頑張ってるから。すごいと思う。あたしも……真理みたいになりたかった」

「マナ――」

「手当てはいいよ、正人。自分でやれるから」

 真奈は小さく……本当に、微かに笑って見せた。

(どうして、そんなふうに笑えるんだ)

誰かに対して怒るよりも先に自分を責め、内省する。

環境が悪い、他人が悪いと責任転嫁する正人とは違う。自分以外のものを赦し――むしろ、罪すら認めていないのかもしれない――大切に想うことができる真奈。

だからこそ、正人は真奈の目に映る世界が見たかった。どれだけ、美しいものなのか知りたいと思ったのだ。

「……すごくなんかない」

 真奈が救急箱を取りに行こうとしたとき、真理がぽつりとつぶやいた。

 すれ違った真奈は足を止め、姉を振り返る。 

「立ち止まったら二度と歩けない気がして――怖かっただけよ。ただ、ずっと」

 いつも気丈で自信に満ち溢れた真理の声が、震えていた。

(真理には、悩みなんてないと思ってた。自分の進む道は正しいと信じて、迷いもなくただ突き進む。そんな人間だと……)

 だが努力することでしか安心できず、必死になって、自分の居場所を確保しようとしていた。そんな不安を抱えていたなんて、考えもしなかった。

(事情も知らずに価値観を押しつけてたのは、俺も同じだ。真理に対しても……他のやつらに対しても。勝手に決めつけて、一方的に見下していた)

「ひどいことを言って、ごめんなさい……」

 真理の頬を涙が伝った。

 正人が立ち尽くしている中、真奈は小さく首を振って、手を伸ばす。細い指が頬に触れて涙を拭う。

 それは神聖な儀式のようにも、子供をあやす母親のようにも見えた。

 

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