3colors《スリーカラーズ》

青谷 圭

side MARI《サイド まり》

 物事は最初が肝心。だから私は朝から全力を尽くす。始まりがうまくいかないと、その日一日が台なしになってしまうから。

 朝食はパンとサラダ、カフェオレもしくは野菜ジュースにフルーツヨーグルト。

 朝早い電車のゆったりした車両で風景を楽しみ、人のいない教室で、ミルクティーを飲んで読書にふける。

 予習も復習も家ですませ、課題を広げるなんて野暮な真似はしない。

 慌てるのは嫌い。物事には余裕をもって、常に落ち着いていたから。


  ◇◇◇


正人まさと、いい加減に起きなさい! 真奈まな、食事中に本を読まないで!」

 完璧なはずの朝が、自らの怒声によって壊れていく。

 肩までの黒髪を高く結い上げた真理まりは、苛立ちながらこめかみを押さえた。

 テーブルにはクロワッサンにトマトとチーズのサラダとフルーツヨーグルト。自分の食事はすませたが、弟妹たちの分が残っている。

「うっせぇなぁ真理は。朝っぱらからがなるなよ」

 一つ下の弟、正人があくびをしながらリビングに顔を出す。髪はボサボサだしパジャマのままで、今起きたばかりの風体だ。

「誰のせいだと思ってるの。あんたが起きないから、私まで学校に行けないのよ!」

「知るか。勝手に行けばいいだろ。遅刻するような時間でもねぇのに、てめぇの都合で急かすなよな」

「朝ご飯を食べ終わったら食器は流しで水につけといてね。洗い物は帰ってやるわ」

 真理はちらりと腕時計を見て、鞄を手にとった。制服はきちんとアイロンがけをしてエチケットブラシをかけてある。

「へぇへぇ。つーか、朝メシこれだけか? 肉がねぇぞ、肉が。せめて卵くらいつけろよ」

「うるさいわね、文句あるなら自分で作りなさいよ!」

 毒づく弟を叱りながら靴を履く。玄関の扉を開ける前に、深呼吸。

(――さぁ、気を引き締めて。今から再スタートよ)

 自分に言い聞かせ、足を踏み出す。

 ジョギングしているおじいさん、花に水をやる隣のおばさん。朝に会う顔ぶれは大体、決まっている。

「おはようございます」

「おはよう、真理ちゃん。今日も早いね」

「いつも礼儀正しいこと。うちの子にも見習わせたいわ」

 朝の冷気を身に受けながら、笑顔で挨拶を交わしていく。

(自分で言うのもなんだけど、先生やご近所さんの評判もいいし、立派な優等生よね)

 真理は得意になりながらも、表には出さずしずしずと歩いていく。

 慌てて走るなんてみっともないので、歩いても間に合う時間に出ている。

(――それにしても、今日は最悪だったわ。いつもは母さんが二人を起こして朝食も作ってくれてたから、ゆっくり食べる時間も洗い物をする余裕だってあったのに)

 両親から旅行に出ると聞いて、家のことは任せて、と安請け合いしてしまった。

 しかし朝をのんびり過ごせないのは、真理にとって相当なストレスになりそうだ。

(一週間。たった、一週間よ。そのくらい、何とかなるでしょ)

 一度引き受けたものを投げだすなんてプライドが許さないと自分自身に言い聞かせる。

 学校ではミルクティーを飲みながら、何とか自分のペースを取り戻そうとするが、小説にはろくに集中できなかった。

「真理。古文の予習やってきた? 私、次当たるんだけど……」

「やってるよ。これだよね。よかったら見る?」

「こないだの数学の課題、難しくなかった? 特に問三、どうやって解くの?」

「あの問題は、前の授業でやった公式を応用して――」

 数ページも読み進まないうちに声をかけられ、真理は笑顔で応対する。

 人に頼られるのも、賞賛を受けるのも好きなので、それ自体は苦にはならない。 

学級委員をやりつつ、次の生徒会役員選挙に立候補予定。

(私には、傷なんてない。運動は少し苦手だけど、五段階評価の四以下はとったことないし、愛嬌の範囲よね。問題があるとしたら、それは私じゃなくて――)


  ◇


「真奈、正人っ。あんたたち、学校行ってないって本当なの!?」

 広間に入るなり声をあげると、二人は黙ったままこっちに目を向ける。

「真理のヤツ、情報遅いな。今頃気づいてやがる。……って、無視かマナ」

 正人は妹に目を向けるが、声をかけられた真奈は無言で本に目を戻す。

「あんたこそ、無視しないで質問に答えなさいよ!」

「うっせぇな。だったら何だよ、お前には関係ねぇだろ」

 怒鳴りたてると正人が睨んでくる。だが、そんなことに怯む真理ではない。

「あるわよ。私はお父さんたちに留守を任されてるんだからっ」

「相変わらず、点取り虫だな。ま、精々頑張れや」

「問題があるのも頑張るのも、あんたたちでしょ! 私は無遅刻無欠席なんだからね」

 鼻で笑う正人を、真理は怒鳴りつける。

 外では声を荒げたことなんてないのに、家にいると、いつも叫んでいる気が下。

「腹減ったな。コンビニ行くけど何かいるか? マナ」

 正人はまたしても真理を無視して妹に声をかけた。

 真奈は無言のまま、小さく首を振る。

「ちょっと、買い食いはやめなさいよ。ご飯は私が作るって言ってるでしょ」

「いらねぇ。お前のメシ、野菜ばっかでまずいんだよ」

「あんたの好き嫌いするから……って、こら。待ちなさい!」

 姉が怒っているのに気にも留めず、正人はさっさと部屋をあとにする。

(まったく……反抗期、ってやつなのかしら?)

 真理は頭を押さえ、ため息をつく。それから、ちらりと妹に目を向けてみた。

 二つ下の真奈は胸元まである長い黒髪を垂らし、本に目を落としている。

「それで、真奈はどうして学校に行かないの?」

 真理はつくり笑いを浮かべ、できるだけ優しく声をかけてみる。

「……行きたくない」

「だから、どうして? 何か理由があるんじゃないの?」

「嫌だから」

 返事があったことにほっとしたのも束の間。淡々と告げる真奈に、真理の笑顔は引きつった。

(だめだわ、会話にならない)

「……真理は」

 真奈はぱたん、と本を閉じ、ぽつりとつぶやく。

 姉を呼び捨てにするのは、おそらく正人の影響だろう。

「どうして怒るの? 『お父さんたちに任された』から?」

「そりゃあ……」

「それとも――あたしたちに『問題がある』から?」

 虚ろな瞳が、真理を捉えた。

 感情の見えない静かな口調に、真理は一瞬、答えをためらう。

 真奈は本を小脇に抱えて立ち上がる。どうやら部屋に戻るつもりらしい。

「義務教育だし、理由もなく学校休むのはよくないでしょ。体調が悪いとか、理由があるなら……」

「真理は、『休んじゃダメだから』学校に行くの?」

 静かに問われ、答えに詰まる。中二の妹相手に気圧されるなんて、と悔しく思う。

「だめだから、というか……病気以外で休むなんて、考えたこともなかったわ。私は、やるべきことはやらないと嫌なのよ。自分が許せなくなるから」

 それでも真理は真剣に考え、言葉を紡ぐ。

 真奈は無言のまま、じっと姉の顔を見返してくる。

(やっぱり、真奈は苦手だわ。口数が少ない上に表情も動かないから何を考えているのかわからないし、品定めされてるような気分になる……)

 そのとき、玄関のほうから騒がしい物音が聞こえてきた。

「マナ、プリン食うか?」

 正人はコンビニの袋を手にして、ドタドタと入ってくる。

「……食べる」

 いらないと首を振ったはずの真奈が、兄の言葉にわずかに瞳を輝かせる。

 表情はほとんど変わらなかったものの、感情の動きが見えたので真理は驚いた。

(真奈って、プリンが好きだったの? 知らなかった……)

 そういえば朝食を作るときも、自分の好みばかりで二人の好物なんて考えもしなかった。

「ほい、レシート。親父から一週間分の食費もらってんだろ」

「預かってるのは食材費よ。勝手に買ってきた分なんて知らないわよ」

「あっそ。じゃあ親父に直接せびるわ」

 正人は悪びれもせず答え、真奈にプリンを渡す。

 姉には敬意の欠片も見せないくせに、妹には妙に親切なのが腹立たしい。

「……あたし、明日は学校行くね」

 真奈はプリンを手にして、独り言のようにつぶやいた。

 不意打ちに正人も真理も、一瞬固まってしまう。

「どうした、マナ。あの女におどされたのか!?」

「おどしてないわよ! 真奈が行く気になってくれて嬉しいわ。正人も妹を見習いなさい」

 慌てて真奈の肩をつかむ正人とは対照的に、真理はほっと息をつく。

(よかった。話せばちゃんとわかってくれるのね)

 本当に変わってくれるのかはわからないが、ひとまず様子をみることにした。


  ◇


 翌日、真理は委員の仕事や用事を手早く終わらせ、家に帰った。

「正人、真奈。今日はちゃんと学校に行ったんでしょうね」

 玄関で靴を脱ぎながら、家の中に声をかける。しんとして、答えはなかった。

(電車で通う私より早く家に着くはずなのに……寄り道でもしてるのかしら)

「いないの? 二人とも」

 声をかけながら、二階へとあがっていく。

「何だよ、うっせぇな」

 すると、すぐに正人の部屋の扉が開く。上はTシャツだが、ズボンは制服のままだ。

「いるなら返事しなさいよ。それより、学校は行ったのよね? どうだった?」

「別に、フツー」

「真奈も部屋にいるの?」

「ああ……でも、今は――」

「真奈、入るわよ」

 正人が言葉を待たず、真理はすぐ横の部屋をノックし、ノブに手をかけた。

「待っ……」

 止まられるより先に、真理は目の前の光景に足を止める。

 制服のまま床に座り込んだ妹は、手首から赤い血を流していた。

「どうしたの、真奈。血が出てるじゃない!」

 ようやく我に返った真理は、妹のもとに駆け寄った。

 真奈はわずかな狼狽を見せ、握りしめていたカッターを床に落とす。

 その左手首には、幾本もの赤い傷が並んでいた。

「――まさか、自分で?」

 恐る恐る尋ねると、真奈は小さくうなずいてみせる。

「や……やめてよ、気持ち悪い! どうしてそんな……っ」

「真理、どけ」

 信じられない思いで叫ぶ真理を押しのけ、正人は真奈の前にしゃがみこむ。

「……でかいな。傷は深くなさそうだが、絆創膏じゃ足りねぇか」

「なんでそんなに冷静なのよ。あんた、知ってたの? だったらどうして止めないん……」

「誰のせいだと思ってんだよ!」

 鋭い声で怒鳴られ、真理はびくっと身をすくめる。

「お前が無理に学校なんか行かせるからだろ。事情も知らねぇくせに、自分の価値観ばっか押しつけやがって!」

(私のせい……?)

 そんなの知らない。こんなことをするなんて思わなかったし、行くと言い出したのは真奈自身だ。

(事情があるなら、言えばいいじゃない。ちゃんと話してくれれば、私だって……)

 思いながらも、何も言えなかった。これ以上真奈を責めることはできなかったし、何か口にすれば、涙が溢れてしまいそうだったから。

「……正人」

 真奈は床に座り込んだまま、前に立つ兄の袖を引いた。

「真理のせいじゃないよ。あたしが悪いの」

 正人は真奈を振り返った。無言のまま、握りしめていた拳を緩める。

「あたしが、弱いから。こんなことばかりしてるから。でも――ごめんなさい。ごめんなさい。わかってくれとは、言わないけど……」

 真奈はうつむいたまま両手を組み合わせ、震えた声で語った。

「許して。あたしには……こういうやり方しかできないの」

(どうして……怒らないの? 責めもせずに、謝ったりするの?)

 悪いのは、気持ち悪いと吐き捨てた自分なのにと、わけもわからず困惑する。

「……マナ、もういい。手当てするから、こっちに来い」

「でもね。あたし、真理のこと嫌いじゃないの」

 右手を引こうとする兄を制し、真奈は言葉を続けた。

「真理はいつも、色んなことを頑張ってるから。すごいと思う。あたしも……真理みたいになりたかった」

「マナ――」

「手当てはいいよ、正人。自分でやれるから」

 真奈は小さく……本当に、微かな笑みを浮かべて見せた。

 その姿には人を安心させようとする頼もしさを感じた。

 救急箱を取りに行こうとする真奈が、真理の横を通り過ぎていく。

(そうよ、私はずっと頑張ってきた。やるべきことをこなして、誰にも恥じない自分でいようと努力してきた。だけど……)

「……すごくなんかない」

 真理がぽつりとつぶやくと、真奈は足を止めた。ゆっくりと、姉のほうを振り返る。

「立ち止まったら二度と歩けない気がして――怖かっただけよ。ただ、ずっと」

(頑張っていないと不安になるから。自分にできることなんて何もないんじゃないかって、自分なんて必要ないんじゃないかって。だから……)

 だとしても、他の人にまで押し付ける権利なんてなかったのに。相手の事情を知ろうともせずに否定することこそ、恥ずべきことだったのに。

「ひどいことを言って、ごめんなさい……」

 真理の頬を、温かな涙が伝っていった。



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