第2話 本文サンプル(プロローグ部)
海に潜る瞬間、ゼンはいつも独特の緊張感を覚える。
身を包むのは手製のみすぼらしい潜水服。使用前にはいつもメンテナンスを欠かしていないが、それとて専門知識のない素人の仕事でしかない。
どこかで見落としがあって、潜水服に海水が浸入してそのまま溺れてしまう可能性はゼロではないのだ。
けれど彼は、その死の恐怖に殊更に怯えるようなことはない。
ここ数年間、何度何度も繰り返してきて、もうその感覚には慣れっこになってしまっている。
あるいはそれ以外にも――ここ最近できた仲間が、この作業を手伝ってくれるようになったので、そのおかげで心強くなっている部分もあるのかもしれない。
「よいしょっ、と……」
ほんの少しの決心を胸に、甲板から身体を投げ出す。
無重力感をわずかに感じながら着水し、重々しい水音を響かせながら、いよいよ、海面の下に視界が沈んでいく。
毎度毎度、死と隣合わせのダイブではあるが――やや曇ったゴーグル越しに見える世界は、ただただ美しいの一言だった。
きらめき、揺れ動く海面の天井で覆い尽くされた、一面の水色の世界。
このあたりは水深5メートル程度の浅瀬が延々広がっている海域であり、見渡す限りの珊瑚礁の中で、いくつもの小魚の群れがあちこちで優雅に泳ぎ回ってる。
海面から差し込む太陽の明かりは柔らかい幾多の光条となって、複雑な地形を形成する海底を揺らめきながら照らし出していた。
こうして潜水するのも、もはやゼンにとっては日常の一部に過ぎないのだが、それでもこの光景にはいつもため息が漏れてしまう。
潜る場所が違えば海底の表情だって変わってくるし、それ以上に差し込む日の光の具合は天気の機嫌に大きく左右される。たとえ同じ海域を潜ったとしても、水の下の景色が同じ表情を見せることはない。
特に、今日はなかなかの潜水日和だ。
長らく孤独のなかで生きてきたゼンが、「彼女」と出会うまで正気を保っていられたのも、この美しい景色に支えられてきたという側面もあるのかもしれない。
「…………よし」
ほどなくして、ゆっくりとゼンは海底に着底する。
軽く身体を揺すって潜水服に異常がないのを確認した後、彼は慎重に前へと歩き始めた。
分厚い潜水服に身を包み、重たい水の中を進むその歩みは、滑稽なほどにスローペースだが、別に構いやしない。どうせ特に目標地点など定めていない水中散歩なのだから。
「……ん?」
ふと――ゆったりと海底を歩いていたゼンの視界の端に、何か大きな物陰がよぎった。
「……ミリィか」
最近行動を共にするようになったゼンの相棒は、緩慢な歩みで前へと進む彼をあざ笑うかのように、優雅な動きで彼の目の前に躍り出て、そしてとびきりの愛らしくいたずらっぽい目配せをしてきた。
――ゼンがかつて生きていた時代に、仮に、それと同じものが人前に姿を現していたとしたら、おそらく大ニュースになっていただろう。
その姿を構成するパーツの一つ一つは、別段特に変わったものではない。
長くつややかな髪も、卵形で幼げな印象を強く残す顔立ちも、人なつっこくどこか猫っぽいつり目がちの目元も、そこだけ見れば、とびきり可愛らしくはあるがごく普通の少女でしかない。
体つきも同様で、細い肩や、控えめながらもしっかりと柔らかそうな丸みをたたえた胸元、柔らな曲線を描く腰のくびれなんかも……肌を見せすぎではないかとは思いこそすれ、特に変わったところは全くない。
ただ……それは、あくまで上半身に限った話だ。
スレンダーながらも整ったプロポーションを見せる体つきから一転、腰から下の造形は、ゼンのいた世界の常識では、まるで通用しないものだった。
蒼い鱗に覆われた、太い胴体。そこには背中側にひとつ、腹側にふたつ、そして後端におおきなひとつのヒレが備わっている。どう見てもそれは、魚の――それもかなり大型の造形そのものだった。
人魚。
ミリィという名の彼女は、そうとしか表現できない姿形をしていた。
遠い昔のおとぎ話にしか存在しないはずの、その異形の美少女こそが、ゼンの相棒なのである。
「あいつ……俺のこと舐めてんな」
海の底では鈍重にしか動けないゼンと、海の中で暮らすように最適化された人魚では、そもそも海中の機動性が桁違いだ。
そのことを知っているミリィは、いつもいつも、ふざけてゼンをおちょくってくるのである。
『はやく来なよー』と後頭部を小突いてきたり。
あるいはゼンの視界を遮るようにぐるぐると周りを泳ぎ回ってみたり。
その仕草がいちいち無邪気で楽しそうなので、いまいち毒気が抜かれてしまうが、作業をする上で邪魔なのは間違いない。
「……ていうか、あいつ、また服着てないし」
しかも困ったことに、よく見るまでもなく、彼女はゼンが与えたはずの上着を身につけていなかった。
おかげで、年頃の少女なら隠しておくべき胸元が恥ずかしげもなく露わになって、丸い輪郭どころかわずかに色づいた先端まで、ちらちらと視界に入ってしまう。
目のやり場に困るから服を着ろといつも口を酸っぱくして言っているのに、海中で泳ぐのに邪魔だからと脱ぎ捨ててしまったらしい。
(あとで説教だな、もう……)
できるだけ視界に映る彼女の身体を意識しないようにしながら、ゼンはなおも足を前に進めていった。
③碧にたゆたう 午後12時の男 @gogo12
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます