第47話 生きてるタヌキ
田中とタブちゃんが初めて会って(と言って差し支えないだろう)、1年とちょっと経った。3年生に進級しようとしていた俺は、4年生になった。
実習やら何やら学業に忙しくなった田中三郎とは、連絡こそしてくるものの、顔を合わせる機会も減ってしまった。
湯浅さんは、ますますコスプレに熱中している。本人曰く、大学を卒業したら地元に帰りたいので、在学中にとことんやり切るそうだ。
タブちゃんはイワサブローの漫画を描き続けている。読者は俺と田中の2人きりだが、お互いにそれで満足している。
そうして俺。やっぱり司法試験を……などということはなく、就職に向けて試行錯誤の日々だ。
「なあ、新聞って読んでる?」
とある週末、それぞれ机に向かっていたとき、タブちゃんが突然話しかけてきた。
「えー? 読んでないなあ。ネット上の、何々新聞って出どころが書いてある記事なら読むけど」
「まあ、お金出して読むんも勿体無いわな。大学の図書館とか、新聞置いてるん?」
「さあ? 気にしたこともないから。どうしたん?」
「新聞の見出しでどうこう、っていうネタはアカンのやろね」
「新作?」
「うん。ネットのニュースでっていうのは絵にならんわ。新聞見た、新聞紙丸めて持って走り出した、イワサブローに見せたっていう流れが良かったんやけど」
「テレビのニュース見てっていうのもアカンか」
「うーん。手に丸めた新聞紙っていうのが、なあ。絵になるやん」
「わかるけどな」
タブちゃんが言わんとしている構図は、すぐに目に浮かぶ。
「あー、でも考えてみたら、あんまり類型的な絵はアカンか。新しい時代に合わせんと」
「うん、頑張って」
そんなやり取りが頭の隅に残っていたせいか、数日後、何気なく入ったカレー屋で、俺は新聞を手に取った。スポーツ新聞ではなくて中央紙だ。
店は混んでいて、久しぶりに気合を入れて注文したカツカレーはなかなか出て来ない。周りの、主に学生たちは、漫画の単行本か自分のスマホを見ているようだ。
いざ読もうとすると、新聞紙を大きく広げるスペースも無いので面倒臭いことこの上ない。昔は通勤電車の中で新聞を読んでいたなんて聞いたことがあるが、本当の話か疑いたくなる。どうにかこうにか広げてみたら、広告の多いこと。もう返しに行こうとしたところで〈SNSの炎上どう対処〉という見出しが目に留まった。弁護士事務所の広告に炎上の対応が謳われることが増えているが、依頼してからのトラブルも発生しているという記事だ。つまり、炎上の対処というよりも、炎上対応の弁護士についての記事だった。
あっちもこっちも色々大変やなというのが、最初の感想だった。
ちょっと前だが、浅沼さんとは全く無関係の盗作に関するSNSを、うっかり読んだことがある。そうしたら、浅沼さんの謝罪とそれを叩くコメントがまだ関連付けられて出てきたのだ。掲載当時の炎上は想像に難くない。
浅沼さん本人も認識していた通り、盗作は犯罪であって、咲ちゃんサイドから訴えられたのなら筋が通る。けれども、コメントしているのは全く関係ない人々だ。ましてや、犯罪でもなくちょっとした言葉の揚げ足取りで炎上してしまったケースではどうだろう。また、風評被害の場合は。
俺は、弁護士に相談したからと言って終わるわけではないとまとめられた記事を、最後まで読んだ。
司法試験に挑戦できるくらい勉強していて、弁護士になれたなら、SNS対策を専門にする道もあったなとぼんやり考えながらカツカレーを食べた。スプーンで簡単に切れるロースカツがたまらなくうまかった。
ただそれだけの縁だと思ったら、俺は今、その記事に真摯なコメントを寄せていた弁護士の事務所で働いている。
気が変わって弁護士になったという話ではない。後日たまたま、その事務所が事務員を1名募集していることを知ったのだ。独立して間もない弁護士夫婦の、小さな事務所だった。その木島法律事務所は、リノベーションされて若い店主たちがケーキ屋や花屋などを次々と開店しているビルの2階にあった。
履歴書を持参したら、不思議がられた。
「本当に事務だよ。郵便物を出したり、顧客との日程を調整したり。ありがたいことに、そういうことにさける時間が無くなってきたものだから」
「司法試験は何年頑張ったって合格しない自信があります」
奥さんは留守で、一人で対応してくれた木島先生はブッと吹き出した。構えたところのない、童顔で小太りの眼鏡男子である。
「でも、やりたいことがあるんです。SNSの炎上で相談に来た人に、メンタルケアというか、落ち着いて相談してもらえるような環境を提供するというか。メンタルケアって言っても、感情的にならずに法律上の対策をする準備というか」
「ほう」
持って行ったタブレットでイワサブローを見せた。当然のように俺の横にはタブちゃんが座っていたが、緊張して口をつぐんでいた。
「相談に来た人の話を、漫画にしようと思います。その人が、このタヌキのイワサブローに相談するという形で。それを、本人が希望すれば炎上したSNSに載せるんです。こんな思いをした、こういう経緯だったって。載せたくなくても、本人だけが振り返るだけでもいい」
「そういう活動をしたいの?」
「はい」
「へえ。風通しを良くして浄化するのか」
木島先生の独り言のような感想が、俺の心の奥の希望の火に風を送った。
「これは個人的なおまけです。事務員としての仕事をした上で、私が個人的にやりたいことなんです」
「駄目だよ、そういうのは。初めからお金は要りませんって申し出ちゃ駄目だ。カモられるよ、君」
木島先生は「奥さんに相談しなくていいんですか?」という俺の疑問を一蹴して、なんとその場で採用を決めてくれた。もっとも後から「タヌキに化かされてたのかもしれない」と言っていたけれど。
というわけで、俺は今、木島法律事務所で事務員として働いている。
イワサブローの漫画にして欲しいという依頼主はそうそう現れないが、作者のタブちゃんは気にしていない。
「けどなあ、タケちゃん」
「はい?」
「なんべんも言うけどやな。本気で司法試験目指したらどうなん? まずは予備試験っちゅうの、木島先生も勧めてくれたやん」
「いや、それは俺の目指すところやない。先のことはわからんけどな」
「ふうん。まあ、ええけど。役に立っとるし」
俺がプロットを作り、ネームは2人で相談して、タブちゃんが絵を仕上げる。その流れで作業することがとても楽しい。一生そうしてはいられないと思いながらも、今は大切な時間だ。
「それより、もうちょっと広いところに引っ越さんの?」
「どんなとこでも疲れ知らずで描けるやろ。薄給の身に何を言うんや」
今日もぽんぽん言い合って、俺たちはイワサブローを動かし、語らせている。
窓からタヌキの夢を見る 杜村 @koe-da
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