第7話 忍と和寿妃




 動物園でたった一匹飼われている白いヘビが、産卵を予定しているのだという。

 縁起物とされている白いヘビが増えれば、観光資源になるだろう。

 地元のテレビ局も積極的に取材しているそうだ。




 忍がシャツを取りに、久々に父の家に戻ると、玄関に女物の靴が置いてあった。

 父の革靴の隣に、ちょこんと並んでいる。

 忍が顔を上げると、廊下の奥、父の寝室から何か奇妙な物音がしていた。

 うまく物を思えないまま、忍は回れ右して外に出る。

 彼の財布には、いつか父がタクシー代にしろと言って渡してきた一万円札が小さく折りたたむように入っていた。

 学校近くの洋品店で、忍はお守りのようなそれを、学校用のシャツに代える。

 店員は木の実の殻でもあけるような手つきで一万円札を開き、お釣りに数枚のお札と硬貨をくれた。

 洋品の自動ドアには文化祭開催を知らせるポスターが貼られている。

 それね、と、年かさの店員が笑う。

 塗り壁みたいに大きな男と、ハムスターみたいに小さな女の子が、並んで貼ってもらえないですかって言いに来たの。文化祭の実行委員の子かな。取り合わせが面白くて、笑っちゃった。

 お店あるから行けないけど、と、申し訳なさそうに首をかしげる。

 忍は無言で会釈をして外に出た。


 学校へ着くと、職員室の引き戸を叩く。

 開ければ中には小鹿がいて、私服姿の忍を見ると鼻を鳴らした。

 小鹿は授業計画を練っているところのようだ。

 文化祭が終わってしまえば、一気に大学受験を意識した授業に切り替わる。

 その準備を、休みのうちに整えておこうと思っているらしい。

 だが、進路がどっちつかずの生徒も多くて迷惑しているという。

 お説教に切り替わりそうになったところで、忍は意を決して尋ねた。


「おれの他にも、受験する気のない生徒はいるんじゃないですか。不登校の人とか」


 小鹿は、何が言いたいという顔をして、黙っている。

 忍は続けようとする。

 「タヌキは」と言って、貉です、ときつい口調で訂正された。


「すみません。あの人、バイトしてるんですね。腕を折られる前も、今も」


 小鹿は小さくため息をつく。

 そうですか、と言った。今も描こうとしてはいるんですね、とうなずく。

 内容はともかく何かをゼロから作り出そうとする気概は大したものです。


 かつて学生漫画家をしていた貉 百合絵は、両腕を折られるという悲惨な事故に遭い、有名漫画雑誌の誌面を別の新人作家に譲らざるを得なくなった。

 チャンスを掴んだその作家の売れ行きは好調だというから、皮肉なものだ。


 小鹿は老眼鏡を外して、光沢のある布で埃を拭った。

 この世界では、一つの出来事が、驚くほど多くの面を有しているものです。

 事実は事実。

 たとえば獅子戸さんは、あなたにハメられるかたちで捕まったわけですが、同時に恐ろしい罪を手放すことができました。今後についてご家族で話し合うきっかけにもなったかもしれない。


「しかし失うものも大きい」

 そのとおり。

「……イエティの家は知っていますか」


 言葉に詰まる小鹿の前に、忍は図書館から借りた点字の本を出す。


「イエティってのは、あだ名です。おそらくムジナが付けたんでしょう」

 と言うと?

「ムジナの母は視覚障害があります。そのためにムジナは点字をくしていた。友達の話をすることもあったのかもしれない。その時、きっと思いついた」


 点字には置き字の文化がある。

 かな、数字、アルファベットをたった六つの点で網羅するには限界があるからだ。

 そのため、ヒマラヤの怪物を示す『y-e-t-i』は、アルファベットを示す置き字を抜かせば、そっくりそのまま、かなに置き換えることができる。


『む-ら-と-お』


 村遠、憂瓜。

 それは、美術部二人のうちの片割れだ。


「二人の間に何があったのか、おれは知らない。興味もない。だけど、うちのクラスにイエティってあだ名のやつがいるとしたら、それはコイツだけです」


 小鹿は下唇を突き出すようにして考え込み、背もたれを深く鳴らした。


「先生」


 忍は辛抱強く言った。


「今、もし捕まえにいかなければ文化祭は荒れますよ。腕を折るだけじゃ済まないとムジナは言った。おれもそう思う。次は人死にが出ます」


 小鹿は深いため息をつき、首をかしげる。


 すべてがあなたの妄想ではないという保証が、どこにあるのでしょう?


「……生徒を信じたことがないなら、信じないままでいてください」


 忍は逆説的に信じろと言った。イエティのように脅す材料も、大柴家の人脈もない忍は、そうせざるを得ない。


「信じないままでいるのだとしたら、おれのことも、イエティのことも信じずに、自分の目で確かめてください。イエティのことは、今ならまだ間に合うかもしれないじゃないですか」










 校舎を出ると、いつかのように、校庭の水飲み場の前に和寿妃がいる。

 忍の姿を見つけると、子犬のように駆け寄ってきた。


「お疲れー」

「…………うん」

「大丈夫? 疲れちゃった?」


 うん、と、忍は両の瞼を押さえてうつむく。

 両目が乾いているのだ。


「コンタクト取ったら?」


 そう和寿妃が尋ねるのと同時に両目から落ちた。

 まるで、ウロコみたいに。


 和寿妃がそれをじっと見つめてくるので、忍は冗談で言った。


「欲しけりゃやるよ」

「いいの? ありがとう」


 和寿妃は本気にして白い手を出した。

 苦笑いしながらその手の中に渡そうとすると、和寿妃は忍の手ごと強く掴んだ。

 さも愛おしげに頬ずりをして、笑う。


「言われた通りに熊倉のことは撒いてきたよ。ねえ、どこ行く?」

「……どこでも。誕生日なんだから、和寿妃が決めろよ」

「ふむ。じゃあ、海か山ならどっちがいいかな?」

「山」

「そうだと思った」


 忍の腕を引っ張りながらけらけらと愉快そうに和寿妃が笑う。

 ヘビがいるもんね、とからかわれて忍はムッとした。


「夢なんだよ。ヘビに食われて、死ぬのが」

「ふふ。壮大な夢だね」

「そうか?」

「うん、壺中之天って感じ」

「なんだそれ」

「あのねえ、壺の中に極楽があってねえ……」


 校門を出たところで和寿妃のスマホが鳴った。

 画面を見た和寿妃は、眉間にしわを寄せている。


「熊倉さん?」

「熊倉のは通知切ってるもん」


 言いながら画面を見せてくる。

 覗き込むと、猿渡からだ。

 電話らしい。忍は、驚いた顔をする和寿妃の手から、つまんで取った。


「……もしもし」


 和寿妃にかけたのに、忍が出たからだろう。

 電話の先にいる猿渡はきいきい怒っている。

 なぜか後ろからは亀井と宇佐美の声もしていて、いつもの流れだとわかった。

 宇佐美が猿渡をからかって、亀井がそれに乗っかって、和寿妃にちょっかいをかけさせているのだ。


「別に……いいだろ。おれが出たって」


 忍は首をかしげて、猿渡の要望を聞き取る。

 どうも明日の文化祭で和寿妃と一緒に回りたいという話らしい。

 のんきなヤツ、と忍は嘆息した。

 だがそんな猿渡のことが、忍は別に嫌いではない。

 そのまま、死ぬまで何も知らずにいてほしいと思った。


 忍は和寿妃を見て、切実そうな猿渡の声に耳を澄ませて、それから「やだ」と言った。驚いたのだろう。猿渡は黙った。言った忍も自分で驚いている。


 なんだ、こんなに簡単なことだったのかと、泣きたいような、笑い出したいような気分になる。


 もう逃げ隠れできないほど空が青い。


にだけは、絶対に渡さない。悪いけど、和寿妃はおれと行くんだ。和寿妃が一番好きなのはおれだし、おれが一番好きなのは和寿妃だから、おまえとも、ほかの誰とも一緒に行かない」


 忍は返事を聞かずに電話を切った。和寿妃にスマホを返す。

 和寿妃は微妙な表情を浮かべていた。薄目になって唇を尖らせている。


「なんだよ」忍は尋ねた。「嘘じゃないだろ?」


「……うん。それは本当のことだ」


 和寿妃は照れ臭そうに、だが、満足げにうなずいた。

 それから吸い寄せられるように顔を近づけてくるので、忍は応える。


 唇が、重なっていた。


 なぜだか涙がにじむ。

 とても幸せで、ひどく死にたくて、どうしようもなく、謝りたいような気分なのに、そのことが、こんなにも嬉しい。


 これでやっと自由になれる。どこへでも行ける。

 和寿妃と一緒だから。


 だが、目を開けると、空は変わらず遠い頭上に広がっていて、足元は地面に縛り付けられている。裏口から、車の出ていく音がした。

 きっと、小鹿の車だろう。


「さあ、山って言ったね。とにかく日中は天二谷に潜伏して、熊倉を攪乱しよう。夜になったら、電車で、行けるところまで行くよ!」

「……うん」


 誕生日プレゼントを渡すのはその時だな、と思いながら忍はうなずいた。

 大柴の家には身内の誕生日を祝う習慣がない。古い家で、数え年の文化が根強く残っているのだ。その代わり、正月は豪勢に祝う。

 おそらく忍からのプレゼントには大喜びするはずだ。


「お兄ちゃんには先に事件の全容を伝えておいたから、今日いっぱいは警察もイエティのことで忙しいと思うしね。きっと上手くいくよ」


「……わかってる。和寿妃は、なんでもできるからな」


「ふふ。それはちょっと違うな」


 そう言うと、和寿妃は、忍の首筋を優しく撫でおろした。

 あのヒマワリのような笑顔で微笑まれ、忍は目がくらむような思いがする。


「和寿妃はねえ。忍くんのためならなんでもできるの。本当にそれだけなんだよ」


 彼女の次に言う言葉が忍にはわかる。

 割れた鏡のすべての破片が等しく目の前のものを映すみたいに、きらきらと光りながら、和寿妃の想いが、痛いようにわかる。

 忍も同じ気持ちだったからだ。


「……大好き。ずっと、一緒にいよう」

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犬系幼馴染はヘビの身代わり 春Q @haruno_qka

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