第7話

「夢と、同じ…」


 ガクンと雪勿の膝が力なく折れる。その場に座り込む雪勿の瞳から、涙が滲んだ。


 久方ぶりに感じる底知れない恐怖は、雪勿の心をズタズタに切り裂いていった。体が冷たく感じるのは、真冬の気温のせいではないだろう。

 雪勿は必死に記憶の中に温もりを探した。


「紫蒼…」


 その名前を呼んだら、何かが変わる気がして…。


 「……!」


 その時、光の粒が雪勿の視界にちらちらと振り落ちた。それはさながら金色の粉雪のようで、そしてそれを振りまいていたのは、最後の夢で見たあの黒蝶だ。それがわかった瞬間雪勿は目の奥からふっとこぼれ落ちそうになるものを、下唇を噛んで堪えた。


 羽の輪郭をほんのりと黄金に輝かせ、黒蝶がひらりひらりと雪勿に道を示す。黒蝶は炎を消しながら飛んでいた。雪勿はその光を見失わないように、必死に黒蝶を追った。


「紫蒼……紫蒼っ」


 紫蒼の名前を口に出すと、崩壊した涙腺からとめどなく涙が溢れた。


「……せつな…」


 微かに声が聞こえた。聞き間違えるはずもない、心地が良くて雪勿を助けてくれた人の声。雪勿はひたすらに足を動かし続けた。景色もない闇の中を、黒蝶が落とす光を追いながら走る。乱れる呼吸の最中に大きく息を吸いこんで、雪勿は叫んだ。


「紫蒼ぃぃいいっ!」


 怖くて怖くて、声が震える。だから雪勿は彼の姿を頭の中で思い描いた。黒い髪にダークチェリーのような瞳の、白皙の美青年。抱きしめてくれる腕、頬に触れる優しい手、落ち着いた声、紫蒼の隣にいるだけで心が満たされたような気分になる。


 ほら今も、彼の声に呼ばれたような気が…。


「雪勿!」


 だがそれは幻聴ではなく、紫蒼は闇を払うほどの強烈な光を連れて、雪勿を影から救い出した。雪勿が伸ばした手を紫蒼はしっかりと掴み、それから強く自分の方へ引いた。


「ごめん…ごめんね」


 抱きしめた雪勿の肩は震えていて、紫蒼は己の行動と浅慮を猛省しながら、引いていく影を睨みつけた。



 □□□□□□□□



「あれはこの世に未練を持った、本物の幽霊だよ」


 雪勿が落ち着きを取り戻した頃、紫蒼は切り出した。

 影が消えた旧生徒会室は、普段の姿を取り戻していた。黒いソファに座り口元で両手を合わせてぼそぼそと話す彼の姿を、雪勿は隣で泣き腫らした目で見上げた。


「少し前に、この学校に入り込んで…」

「この学校に…どうしてですか?」


 紫蒼が何も答えずに目を伏せたので、雪勿は彼にも分からないことがあるんだということにした。


「紫蒼が現れてから、影が引いていったように見えました。…紫蒼は、幽霊を退治出来る人なんですか?」


 長い沈黙のあと、紫蒼は首を小さく縦に振った。


「この学校の生徒じゃない…?」

「……うん」

「この学校の制服をどうして着ているんですか?」

「目立たないように」

「どうりで似合ってないわけです」

「はは…」

「じゃあこれも」


 雪勿が差し出した、左袖が裂かれ血がついたシャツに紫蒼は一瞬だけ目を向けた。


「今夜のうちに処分するつもりだったのだけどね」


 雪勿の真っ直ぐな眼差しから逃れるように、紫蒼はふいと顔を逸らした。


「何故来てしまったの。立ち入り禁止の札を見たでしょう」

「あれ紫蒼がやったんですね。…紫蒼のことがとても気になったから…心配だったから、会いたくなったから、来ました」

「明日になれば今まで通り会えた」

「すぐにでも会いたかったんです。紫蒼が傷つく夢を見ました。だから不安で…。あ、夢じゃないんでした」


 ねぇ紫蒼、と雪勿は手元のシャツに目を落とした。


「怪我してないなんて嘘、つかないでください。こんなに、シャツが血に汚れて……これを見つけた時のわたしの気持ち、紫蒼に分かりますか?」


 自分が傷付くことよりもずっと大きな不安が、このシャツを見つけた時雪勿の胸に押し寄せた。


「ちゃんと言ってください」


 紫蒼の視界に入り込もうと顔をのぞき込んで言う雪勿。だか紫蒼は口を閉ざしたまま、雪勿と目を合わせようとせずただ眉根をひそめた。


「ねぇ」

「…やめてくれ」

「紫蒼」

「っ、貴女を守りたいんだよわかるでしょう!」


 雪勿は驚いて、紫蒼に伸ばした手を引いた。いつもは滲ませたこともない怒気が静かに紫蒼の声色を変えていた。


 紫蒼が怒っている。

 雪勿の中で何かの火種がパチパチと音を立てた。


「守りたいから、何も話さないんですか…?」

「そうだよ」


 またひとつ、雪勿の中に火花が弾ける。


「わたしは話して欲しいです」

「…断る」


 心地よいはずの紫蒼の声が、今はどこか雪勿の気分を害するものとなっていた。雪勿は奥歯を噛み締める。


「紫蒼、わたしは」

「雪勿」


 聞きたくないとでも言いたげに、紫蒼はすっと立ち上がった。黒い髪に隠れて、紫蒼の表情は雪勿からは伺えない。


「もう遅い。寮に帰りなさい。送っていくから」


 その時、雪勿の中でくすぶっていたものが一気に爆発する音が内に響いたように思えた。

 雪勿は、ああ、と独り合点した。

 これは怒りだ、自分は怒っているのだ。


「帰りません」

「雪勿…言うことを聞いて」

「紫蒼が話してくれるまで帰りません!」


 紫蒼は大きく目を見開いた。雪勿の突然の大声に一瞬だけ怯んだように見えたのは、きっと見間違いではない。


「我儘なら今度聞いてあげるから」

「嫌ですっ!」


 雪勿と宥める紫蒼の声も、もはや激昴する雪勿には不毛だった。雪勿はドアと紫蒼の間に割って入り、逃げ道を塞ぐように両腕を広げた。


「だって……だってそれじゃあこの数日の紫蒼と過ごした時間も、無かった事みたいに…嘘みたいになるじゃないですか…!」


 紫蒼の片眉がぴくんと震えた。

 そして、雪勿は火が放たれた爆薬庫のように、何者も寄せ付けない勢いで訴えた。


「わたしは紫蒼との時間をすごくすごく大切に思っているのに!紫蒼にとってわたしは幽霊被害者のひとりかもしれないけど、でもわたしは違うんです!助けてくれたから…大事だと思う人だから、何かしたくて、わたしが救われた心の分を少しでも紫蒼に何かの形で返したくて!わたしはあなたのおかげでこんなに毎日が楽しく感じられるようになったって伝えたかったんです。それを…どうして無下にするんですか!」


 紫蒼ははっとしたように瞼を上げた。今更気付いても遅いと、雪勿は構わず畳み掛けた。


「わからずや!自己満足!何でも自己完結して!わたしは蚊帳の外ですか!わたしを守りたいと思うのなら、わたしの気持ちも少しは汲んでください、馬鹿!」


 まだ涙も引かない瞳をつり上げて肩で息をする雪勿は、言いたいことは全部言ったぞと紫蒼の反応を待つ。

 しばらくして、紫蒼は雪勿から目を逸らし、小さく俺はと呟いた。


「俺は…雪勿には何も言いたくない。貴女は何も知らなくていいんだと、そう思ってる」

「紫蒼っ」

「でも…そうだね。守りたい人の意思を無視しては、本末転倒だな。俺は何より貴女を大切にしたいのに」


 顔を上げ雪勿を見つめる紫蒼の視線は、至極穏やかなものだった。紫蒼はふっと目を細めると、雪勿の手を優しく握った。

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きみとせつなに 蒼依月 @bluenoa

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