ペトリコールはムスク(4)

 三日ものあいだ、ずっと部屋に閉じこもっていたせいでしょう。足はすぐに覚束なくなってよろめいて、息もあっという間に上がりました。サンダルなんかを履いてきてしまったせいで走りづらくて、浮いたかかとがぺちぺちと音を立てました。おまけにわたしはパジャマのままです。寝癖で髪はぼさぼさですし、六月の湿気と気温のおかげでじんわりと汗が浮いてきて、シルクの生地が身体に張り付きました。

 途中、地面を蹴り上げた拍子にサンダルが脱げてしまって、わたしの足はアスファルトを踏みしめました。鋭い痛みに立ち止まって見てみれば、小石が親指の付け根のあたりに食い込んでいました。わたしは小石を払い、剥がれた皮の内側がじっとりと赤くなっている足にサンダルを履き直し、再び走り出しました。

 なんて不格好なのでしょう。とても人前に出られるような姿ではありません。まして大好きな人に見せるなんてもってのほかです。けれどわたしは走りました。空は薄っすらと雲がかかっていましたが、まだはっきりと黄金色の太陽を覗かせています。だから歩道橋に生成さんが現れることはないでしょう。しかしわたしは、それでも足を止めるつもりはありませんでした。だって会わなければいけませんでした。会って、伝えなければいけないことがありました。

 やがてわたしは歩道橋へと辿り着きました。ところどころ剥げてしまった若竹色の鉄骨に西に傾きかけた陽光が差し込んでいました。心臓は早鐘を打ち、手足には痺れたような微かな痛みが走ります。わたしは貪るように息を吸って呼吸を整えて、重い足を引き摺るように階段を上がりました。そしていつも生成さんがいた、今は虚空のその場所へ向けて、思いつくままに言葉を絞り出すのです。

「生成さん、わたし、ごめんなさい」

 口を突いて出たのは謝罪の言葉でした。言葉と一緒に涙が溢れそうになって、わたしはパジャマの袖で擦った目に力を込めます。泣いていいのはわたしではないのです。

「本当に、ごめんなさい。謝って許されることじゃないのは分かっているの。でも、それでも、ごめんなさい。わたしは取り返しのつかないことをしてしまった」

 空は曇天。生成さんはどこにもいません。姿が見えなくても生成さんに届いているでしょうか。あるいはこの謝罪さえ、ただのわたしの自己満足なのでしょうか。もういない人へと罪を償うために、わたしは一体どうすればいいのでしょうか。

「わたしったら、最低ね。嫌われて当然、憎まれて当然よ。生成さんが幽霊として現れたのだって、わたしを呪うためなのでしょう? 恨みを晴らすためなのでしょう? わたし、貴女になら何をされてもいい。どうなっても構わないわ」

 返ってくる声はありません。歩道橋を渡る買い物帰りの中年女性が怪訝そうな眼差しをわたしへと向け、歩調を早めました。雲が流れていきました。

「ごめんなさい。でも、だから、今度はわたしが、生成さんのことを助けるの。わたし、貴女を独りぼっちになんてさせないわ」

 わたしは目尻にたまった涙を拭って、歩道橋の柵を掴みます。小さくジャンプして柵に身体を預け、右脚を掛けました。下から風が吹き上げて、わたしの髪をかき混ぜていきます。

 この場所で死ぬこと。それがわたしの出した答えでした。自分の浅はかさと弱さで親友を殺めてしまったわたしにできる、せめてもの贖罪でした。

 道路を車が走っていきます。わたしは息を呑みました。手がじんわりと汗ばんで、口のなかはあっという間に乾いていきました。だけどここで臆するようではだめなのです。わたしは下を見ないよう、目を閉じました。生成さんの隣りが相応しい自分であるために、わたしは逝かなければならないのです。

 あとほんの数センチ、重心を前に預けるだけ。それだけで、この先もずっと生成さんと一緒にいられるのです。

 だけどその刹那、わたしの手の甲にぽつりと小さな雫が落ちました。次の雫が肩に落ちて、不意に空を見上げたわたしの額にもうひと雫がぽつり。雨が降り出して、ふわりとムスクが香りました。艶めかしくて優しくて、力強さと気高さを感じられる香りでした。

「もう来ないでって言ったのに」

 背中越し、声が聞こえます。こんな様子のわたしを見ても、生成さんの声はいつもと変わらず冷静でした。

「なんてこと、してるの」

「止めても無駄よ。わたし、もう決めたの。これくらいしなくちゃ、わたし、生成さんの隣りにいてはいけないもの」

 わたしは振り返らずに言いました。たぶん振り返ったら、この決心は簡単に揺らいでしまいます。そしてそれ以上に、今のわたしに彼女と向き合う資格なんてありませんでした。

「思い出したのね」

 それはいつもわたしが生成さんに向けて喜びとともに口にしていた言葉でした。けれど生成さんが溜息を吐くみたいに言ったそれは、寂しげで、疼くように痛んで、重く沈んでいく言葉でした。

「覚えていたの?」

 わたしは訊きました。生成さんは肯定も否定もしないで黙っていました。張り裂けるような沈黙を雨音が埋めていきます。

「浅はかだったわ」

 やがて生成さんが言いました。

「いずれこうなることは予想できていた。そして思い出せば茉莉也が傷つくことも分かっていた。本当は私じゃなくて前を向いて生きなきゃいけないとか、この歩道橋でただ止まった時間を過ごしているのが間違っているとか、そういうことだってちゃんと分かっていたわ。だから私はもっと早く茉莉也を遠ざけるべきだった。でも、できなかった」

 いつだって冷静で、凛と響いていた生成さんの声が揺らぐのが分かりました。わたしは反射的に振り返りそうになったけれど、今すぐ彼女を抱きしめてあげたかったけれど、どちらもできませんでした。

「だって幸せだった。茉莉也が会いに来てくれて、幽霊のわたしとも変わらず話してくれて、笑顔を見せてくれて」

「そんなの嘘よ」

 わたしは生成さんの言葉を遮りました。

「そんなはずがないわ。だって、生成さんを殺したのはわたしなの。わたしがあの日、嵐のなか助けなんて求めなければ、貴女は今も生きていた。だからわたしのせいなの。それなのに、恨まないなんておかしいじゃない」

 ここに来るまで何度も自分を責めました。わたしは恨まれていなければいけません。嫌われていなくてはいけません。わたしはそれだけのことをしてしまったのです。だから恨まれ嫌われていなくては、この後悔と罪悪感で自分を殺すことができなくなってしまいます。

 けれど生成さんは決然と、わたしの心を覆う黒い感情を否定するのです。

「おかしくないわ。だって私、茉莉也のこと、一瞬だって恨んだりしてないもの」

 それはまるで数式を完璧に当てはめた数学の問題の解答を読み上げるような、確信と自信に満ちた言葉でした。

「どうして? どうして、わたしのこと恨んでないの」

「恨む理由がないのよ。ここで再会できたとき、私は貴女が無事でいたことが何より嬉しかったんだから」

「わたしに復讐しに、呪いに、戻ってきたんでしょ」

「人のこと、悪霊みたいに言うのね」

 生成さんが小さく笑っているのが、振り返らずともわたしには分かりました。

 そしてそれから少し間をあけて聞こえてきた生成さんの言葉は、また揺れていました。ひらひらと舞いながら、草花の影に隠れる蝶々のように。

「……ただ心配だったの。助けてって茉莉也が言っていたから」

「ばか」

 わたしは言いました。だってそれが本当なら生成さんは大馬鹿ものです。自分が死んだ原因のわたしを心配して幽霊になって。いつも雨に打たれて、わたしにしか見えなくて、もうどこへも行けなくて。それなのに幸せだったというのです。そんなのは大馬鹿もの以外の何者でもありません。

「生成さんったら、大馬鹿ものよ」

「それもそうね。でも貴女だって相当よ?」

 腰を、後ろから引かれたような感触がありました。柵から離れて後ろ向きによろめいたわたしを、柔らかい何かが受け止めてくれます。瞬間、わたしはわたしの腰に回された細い腕の柔らかさを確かに感じたのです。

「貴女に何事もなくてよかった」

 温もりとムスクの香りがわたしを包み込んでいました。生成さんの優しい声が降り注ぐ雨を通じてわたしのなかに滲み込んでいきました。

 わたしは何も答えることができませんでした。西の空から向かってくる雲の流れは相変わらず足早で、わたしはこの幸せがそう長くは続かないのだと分かってしまっていたから、何も言うことができなかったのです。

「梅雨が明けるわね」

 生成さんが言いました。それはたぶん別れの言葉の代わりだったのでしょう。生成さんのほうを振り返ると、雨はまだ止んでいないのに彼女の身体は半透明になっていました。

「風邪、引かないようにね」

 わたしは頷いて、生成さんに向けて微笑みます。本当は泣いていたけれど、涙は雨が隠してくれました。

「生成さん」

 わたしは消えていく彼女の名前を呼びました。そして、無防備な生成さんに歩み寄り、そのかたちの綺麗なくちびるに、啄むようなキスをします。

 ゆっくりと顔を引いて閉じた目を開いたわたしの目の前に、生成さんの姿はもうありません。重ねた唇の感触すらも曖昧なものでした。けれど降りしきる雨のなか、生成さんがいた証だけはわたしを包み込みながら香り続けています。

 さようなら、生成さん。わたしはもう、大丈夫だから。

 見上げた空に呟きます。深く吸い込んだ空気にはほんのりと、新しい季節の匂いが混ざっていました。


   †


「分かったわ。今から向かうから、それまでに資料まとめて送っておいて。……うん、似たような裁判の判例も一緒に。……分かってるわ。クライアントとの打ち合わせまでには戻るから。ええ、そうね、ありがとう。じゃあまた後で」

 わたしは電話を切りました。スマホと手帳を鞄にしまって、首と肩で器用に挟んでいた傘に持ち替えます。スーツの肩についた雨粒を指先で払って、歩道橋の階段を一段飛ばしで上がっていきます。

 一七歳の雨の季節、わたしはこの歩道橋で大切な人を喪い、束の間の再会を果たし、そして旅立つ彼女を見送りました。

 もう一〇年も昔のことです。あれからたくさんの出会いと別れがありました。楽しいことも悲しいことも、たくさん経験してきました。充実していたと言っていいでしょう。過ぎ去っていく日々の濁流は、あの短い季節の小さな奇跡の思い出を頭の片隅に追いやってしまうくらいに目まぐるしく流れていって、少女だったわたしをあっという間に一人の大人へと変えていきました。

 けれどあの日々を忘れたわけではありませんでした。雨が降ったとき。歩道橋を渡るとき。銀縁の眼鏡をかける女性とすれ違ったとき。わたしはどうしたって彼女のことを思い出すのです。

「待ってよ」

 わたしはいつの間にか歩道橋の隅をじっと見つめていたらしく、聞こえてきた声で我に返ります。顔を上げて声の方向を辿れば、反対側の歩道から階段を上がってくる二つの傘が見えました。黄色の傘がくるくると回って、桜色の傘がゆらゆらと揺れて、それぞれの傘の下で覗く紺色のスカートが跳ねるように踊ります。

 中学生、でしょうか。まだ少し幼くて、無邪気で微笑ましい二人の姿がかつてのわたし自身に重なりました。

「こっちこっち」

「早いよぉ」

 桜色の傘を両手で抱えた化粧っ気のない幼い顔立ちの少女が、黄色の傘を差した三つ編みおさげ髪の少女のあとを追いかけています。彼女たちはわたしの横を通り過ぎ、階段を下りていきます。二人きりの世界にはどんな他人も存在しないのでしょう。その感覚は大人になったわたしにだって、よく分かりました。

「ねえ、そこのお二人さん」

 わたしは階段を下りていく二つの傘に声を掛けました。二人は立ち止まり、傘をくるりと回転させてわたしを見上げています。

「お節介でごめんなさい。邪魔するつもりじゃなかったの。でも、走ったら危ないわ」

 わたしがそう言うと、二人はきょとんとした顔を見合わせていました。知らない人から急に声を掛けられたことはもちろん、まさかそんな口うるさいことを言われると思ってもみなかったのでしょう。

 けれど彼女たちは顔を見合わせたあと、どちらからともなくお互いの手を握りました。わたしに控えめな会釈をして、二つの傘が並びながら階段を下りていきます。並んだ傘の隙間から、小さく微笑む二人の横顔が見えました。わたしは懐かしい気持ちを抱きながら、遠ざかっていく二つの傘が見えなくなるまで眺めていました。

 雨が優しく降り注いでいます。傘に落ちる雫は心地の良い音を奏でていました。風がわたしの頬を撫でるように吹いて、短く切ったばかりの髪を揺らしていきました。

 不意によく知る香水の匂いが香って、わたしは思わず振り返ります。

「……そんなわけないわね」

 つぶやきは、吐き出した息とともに雨音に紛れていきました。

 わたしは前を向いて、歩き出します。

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ペトリコールはムスク やらずの @amaneasohgi

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