ペトリコールはムスク(3)

 どうしたらいいのかしら、と廊下からお母様の声が聞こえます。お父様は大丈夫、僕が話してみるよ、と答えました。いくらか間があって、閉め切った部屋の扉が叩かれます。茉莉也、聞こえているかな。聞こえていたら返事をしてくれないかい。もちろん聞こえてはいましたけれど、わたしは何も答えず、ベッドに潜って丸くなりました。

 もう会いに来ないで――。

 生成きなりさんにそう拒まれた日から三日が経っていました。その間、雨が降ることはなく、梅雨晴れののっぺりとした青さを貼り付けたような空模様が続いていました。当然あのとき陽ざしに消されてしまった生成さんにあの言葉の真意を聞くことはできていなくて、そもそも会いに来るなと言われてしまったのだから、これ以上どうしたらいいのかが分からなくて、わたしはカーテンも扉も閉め切った自分の部屋に籠り続けているのでした。

 スリッパで床を擦る音が遠ざかっていきます。返事がないので諦めたのでしょう。二人の気配が完全に消えるのを待ってから、わたしは被った掛布団から顔を出しました。カーテンの隙間から差し込む陽ざしが部屋の暗闇を薄く照らしています。机の上や床のあちこちに、大量のてるてる坊主が転がっています。わたしは憎らしげにカーテンの向こうに広がっているだろう空を睨んで、またベッドに潜り込むのでした。

子供じみている、と自分でも思います。けれど生成さんに会えない世界の空虚さがもたらす痛みは、こうでもしなければ耐え難いものなのです。

 会えない時間が愛を育てるとはよく言いますが、わたしの胸のうちで育つのは不安と焦燥ばかりでした。それなのに、会えない間もわたしの頭は生成さんでいっぱいで、だからこそこれまで考えないふりをしてきたことが、容赦なくわたしの頭のなかをかき乱していくのでした。

 どうして生成さんはあんなことを言ったのでしょう。

 いえ、そもそもどうして、生成さんは歩道橋の幽霊になったのでしょう。

 ふと立ち止まって考えてみれば分からないことばかりです。彼女がよみがえったことに何か理由があるんじゃないだろうか。どうして彼女はわたしにだけ見えるのだろうか。いくら考えたって答えなんて分からないことくらい、わたしにだって分かります。けれど考えずにはいられないのです。分からないのに考えて、考えたけれど分からなくて、わたしのなかの黒く淀んだかたまりがその不安と焦燥を養分にして一層大きく膨れ上がっていくのでした。

「ねえ、生成さん。覚えてるかしら?」

 わたしはベッドのなかで、こっそりと潜めたようなか細い声を紡ぎます。

「本当はね、生成さんと初めてお話したのはボランティアのときじゃないのよ。ふふっ、覚えていないでしょう」

 見開いたわたしの目には、人差し指で眉毛をかいている生成さんの姿が映っています。

 いいの。気にしないで。覚えていなくて当然だもの。わたしは生成さんの頬を指でなぞります。生成さんはくすぐったいのか、それとも気恥ずかしいのか、華奢な肩を強張らせて、身体を微かによじらせました。なんて可愛らしいのでしょう。愛おしさが胸の奥から溢れ出て、寒さで悴んだ指先が湯舟の温かさでほぐれていくように、じんわりと痺れるような感覚が全身へと広がっていきました。

「初めて話したのは、まだ中等部だったとき。そうね、ちょうどその日も雨の日だった。天気予報が外れて、それこそバケツをひっくり返したような雨が降った日だったわ」

 週間予報はずっとお日様を表示していたものだから、急な夕立が降ったその日、わたしは傘を持っていませんでした。普段ならば置き傘があるはずだったのだけれど、それもちょうど先週の雨で持って帰ってしまっていて、日直の仕事で学校に残っていたせいでお友達を頼ることもないわたしは下駄箱で途方に暮れるしかありませんでした。

「どうしましょう……」

 屋根の下からそっと差し出した手はあっという間に濡れていきました。とてもじゃないけれど、この雨のなか傘を差さずに帰ったら大変なことになるのは明白でした。通学にはバスを使っていましたが、びしょびしょに濡れた制服でバスに乗るのは他の乗客の迷惑でしょうし、バス停から家までも五分程度の距離があります。少し待てば止むかしら。わたしにはほとんど願望に等しい推測を信じて、下駄箱で雨が止むのを待つことにしました。

 けれど五分経っても、一〇分が過ぎても、雨が止む気配はありません。

 降る雨は景色を霞ませ、世界からを切り離すように地面を叩く音でわたしを包み込んでいきました。きっと校舎にはまだ先生方は残っていたでしょう。けれどこのときのわたしにそのことに思いを馳せる余裕なんてなくて、足元からずずりと這い上がってくる孤独感に支配されそうになっていました。

 それにあまり帰りが遅くなれば、今度はお母様たちに心配をかけてしまいます。わたしが意を決し、あるいは耐えられなくなって、雨に飛び込もうとした瞬間でした。

「傘ないの」

 少しぶっきらぼうだけど、硬質で凛とした声が響きました。わたしがぎょっとして反射的に声のほうを見れば、すぐ隣りに真っ直ぐな視線で雨を見据える生成さんが立っていました。もちろんこのときはまだ、生成さんのお名前は存じ上げませんでした。けれど、制服のリボンの色で同じ学年だと分かりました。

「傘、ないの?」

 いきなり話かけられたことに驚いて、わたしが固まっていたからでしょう。生成さんはもう一度、今度は少しゆっくりと、同じ言葉を繰り返しました。

「は、はい。お天気予報では、雨だって言ってませんでしたから」

 わたしは戸惑いながら、答えました。

 すると生成さんは手に持っていたコンビニで売っているようなビニール傘に視線を落として、それを開きました。天使が静かに翼を広げるような、心地よい音が雨音をほんの一瞬、切り裂いていきました。

 淡いブルーの傘に雨が落ちてぱらぱらと音を鳴らします。生成さんは浅い水たまりもお構いなしに踏みつけて雨空の下へと進み出て、そしてわたしを振り返って言ったのです。

「入らないの?」

「え……」

「だから、傘。入っていったらいいじゃない」

 その瞬間、どっと胸の奥が高鳴って冷たくなっていた全身に熱が巡っていくのが分かりました。熱にあてられて指先がじくじくと痛みます。

「いいんですか……」

 なんとかそう言えた唇はきっと、情けなく震えていたと思います。生成さんはそんなわたしに優しく微笑みかけてくれるのでした。

「……お邪魔します」

 わたしは深々と頭を下げてから、生成さんの隣りに並びます。胸はまだ高鳴っていて、なんか体温高いやつだななんて思われたら恥ずかしい、とわたしは遠慮がちに距離を開けていたのですが、たぶん傘からはみ出さないようにと生成さんが気を遣ってくれてわたしとの距離を詰めました。肩が触れました。心臓が口から出るかもしれないと、わたしは咄嗟に唇を固く結びました。

「行くわよ」

 歩き出した生成さんに置いていかれないよう続きます。生成さんはごく自然に歩いているのに、わたしのぎこちなさと言ったらそれはもう下手くそな二人三脚でもしているようだったことでしょう。わたしは緊張でほとんど喋れなくて、生成さんも無理に話したりする方ではありませんから、わたしたちはほとんど黙ったまま、バス停にまで到着してしまいました。

「最寄りのバス停から家は近いの?」

「は、はいっ」

 バス停から家までは五分以上歩かなければなりませんでしたけれど、わたしは上ずった声でそう返すのがやっとでした。

「そう。よかった。気をつけてね」

「あ、ありがとうございますっ」

 わたしはまた深々とお辞儀をして、踵を返した生成さんを見送りました。その間にバスが一本、バス停にやってきたのですけれど、わたしは心地よい雨音に耳を澄ませたまま、もう小指の爪よりも小さくなった生成さんの背中をいつまでも眺めているのでした。

「わたしったら失礼よね。生成さんのお名前を伺い忘れたの、お家に着いてから気づいたの」

 そしてわたしはベッドのなかで囁きます。優しく微笑んでくれる生成さんの手を握り、指をからめます。

「でもリボンの色で、学年が一緒だと分かっていたから、こっそり探したの。それで、生成さんだと分かった。けれど、本当はすぐにお礼を言うべきなのに、わたしはなかなか話しかけられなかったわ。貴女を見ていると、胸がどうしようもなくどきどきして、からだが火照って何も考えられなくなってしまうのよ」

 茉莉也は――。

 生成さんが何かを言いかけたのですが、扉が再びノックされてその姿は空気のなかへ溶けるように消えていきました。わたしは目を瞑り、丸めたからだに力を込めました。

「茉莉也さん」

 聞こえてきたのは遠慮がちなお母様の声でした。

「お腹減ってない? 気分は……いいわけがないわよね」

 わたしは黙り込みます。耳を塞ぎ、息を止めて、お母様がわたしを諦めてくれることを願いました。ねえ、お母様。わたしは何も考えたくないの。生成さんのいない日常なんて意味がないの。だからもう放っておいてよ。

 わたしは心のなかで繰り返します。放っておいて。放っておいてってば。けれどお母様の気配は扉の前から消えず、それどころかその場に座り込むような音までもが聞こえてくるのでした。

「辛いわよね。大切なお友達だったんだもの。でもね、茉莉也さん。これだけは分かってほしいの。貴女のせいじゃない。それだけは、お母さん、はっきりと言えるわ」

 わたしが閉じ籠ろうとしていた殻に、取り返しのつかない歪な亀裂が走った気がしました。

「あれは、不幸な事故だった。だから貴女が責任を感じる必要なんてないの。茉莉也さんは何も悪くない。誰も、何も、悪くないの」

 気がつけば、わたしは被っていた布団を跳ねのけ、足を踏み鳴らしながら扉へと迫っていました。床のてるてる坊主が蹴散らされ、脱ぎ捨てられた制服には足のかたちで皺が寄ります。お母様がいると分かっていても、容赦なく扉を開け放ちました。お母様が短い悲鳴を上げて尻もちを突いて、暗闇で仁王立ちするわたしを見上げていました。

「どういう、ことなの」

 久しぶりに光のもとに出たせいで焦点がうまく定まっていませんでした。それでもわたしははっきりと喉を震わせ、お母様に詰め寄ります。

「わたしのせいって、どういうことなの。生成さんはわたしのせいで死んじゃったの?」

「違うわ」お母様は即座に否定します。「それは違う。茉莉也さんは何も悪くない。何も悪くないの」

 しかしそんなはずがありません。生成さんの死に少なからずわたしが関係しているからこそ、あの言葉が出るのです。部屋に閉じ籠り、考えることを放棄していた頭でも、それくらいのことは分かりました。

「教えて」

 尋問ではなく懇願でした。真実がどれだけ大きな苦しみをもたらすとしても、それはわたしが知っていなければならないことだと直感的に理解していました。

 お母様は膝立ちになって、わたしのことを抱きしめました。そうしておかなければ、愛娘がばらばらに弾け飛んでしまうと本気で思っているような強く優しい抱擁でした。

「生成さんは事故だった。それはちゃんと分かっててね」

 お母様はそう前置きをして、わたしのぼさぼさの髪を指で梳くように撫でました。そしてゆっくりと、あの日のことを語ってくれました。

 どうしてわたしはこんな大切な、いえ、重大な自分の罪を忘れていたのでしょう。覆い隠すための殻がぼろぼろと剥がれ落ち、みるみるうちによみがえっていく記憶が鮮やかさはわたしの心を、小さな情けさえかけることなく深く深く抉っていきました。


 あの夜はひどい嵐でした。

なんとか学校から家に帰りついたわたしが、洗面所で髪を乾かしていると扉がノックされました。わたしはドライヤーを止めて、扉のほうへと視線を向けます。

「茉莉也さん。お父様と出かけてくるから。もう晩御飯はできてるから、食べててちょうだいね。それと、戸締りは――」

「分かってるわ。もう小っちゃい子じゃないのよ。大丈夫」

 わたしはお母様に言いました。お母様は誇らしげに頷きます。わたしが帰ってきたときにはいつものエプロン姿だったお母様は濃紺のロングドレスに着替えていて、耳元と首元には大粒のパールのアクセサリーが上品な光を湛えてお母様の美貌に花を添えていました。その奥にはブラックスーツと蝶ネクタイを着込むお父様の凛々しい姿も見えました。

「こんな雨なのに大変ね」

「そうだね。でも行かないわけにもいかないよ。いつもお世話になってるからね。こういうときくらい、ちゃんといい顔しておかないといけないんだよ」

 お父様のお仕事は弁護士で、その日は顧問弁護士を務めている企業の創立記念パーティーに出席しなければなりませんでした。こんなにひどい嵐なら延期したらいいのに、とわたしは子供心に思いましたが、そうもいかないのが大人の都合なのでしょう。

「大人って大変ね」

「子供だって大変さ」

 わたしが言うと、お父様はそう言ってお道化てみせるのでした。

 髪を乾かすのを中断して、わたしはお父様とお母様を見送りに玄関へと向かいます。お父様の蝶ネクタイをお母様が直してあげて、「じゃあ行ってくるわね」と言いました。わたしは「いってらっしゃい」とまだ濡れている髪を揺らして答えます。玄関の扉が開くと、雨音が家のなかへと入り込んできて、斜め四五度の角度で振る車軸のような雨が夜の黒のなかにはっきりと見えました。その自然が本来持っている荒々しさの一端に、わたしは息を呑みました。けれど二人が出かけていって、玄関が閉まってしまえば、雨音は分を弁えるみたいに潔く遠退いていきました。

 わたしは洗面所へと戻って髪を乾かし、お母様が用意してくれた晩御飯を食べました。献立はポークソテーとエビのマリネとシーザーサラダ。お母様のポークソテーはビネガーと砂糖醤油のバランスが絶妙で、わたしの好きなメニューのうちの一つでした。

 食器を洗ったら、わたしは自分の部屋へと戻ります。明日の授業の予習を終え、読みかけだった本を手に取った、その刹那でした。

 窓の外が昼間みたいに明るく光ったのです。わたしがあまりの眩さに目を細めた次の瞬間には、地面が揺れたと錯覚するほどの轟音が響き渡ります。わたしは本を取り落とし、その場にうずくまりました。そんなわたしに追い打ちをかけるように、もう一度空が眩く瞬いて、雷鳴が轟きます。

 高校生にもなって雷が怖いなんて、とわたしだって思います。けれど恐怖というものに理由なんて必要ないのです。怖いから怖い。それが全てでした。

 よりにもよってこんな日に独りぼっちだなんて。わたしはお父様が顧問を務める企業を呪いました。けれど稲妻は容赦なく天から地へと降り注ぎ、空間を揺るがすような大音声でわたしの心臓を揺らしてくるのです。耳を塞いでも、目を瞑っても、意味がありませんでした。轟音は地面を揺らし、稲光は夜を引き裂きます。

 雷が窓を塗り潰した次の瞬間、爆発音が響いて大きく家が揺れました。近くに落ちたのでしょうか。わたしは悲鳴を上げました。もう何も考えられませんでした。

閉じた目から涙が溢れます。けれどこんなときに頼れるお母様もお父様も家にはいません。電話をして帰ってきてもらうことも頭の片隅に浮かびました。けれど今夜は大切なパーティーです。きっと電話をかければ、優しいお母様たちはパーティーを放り出して帰ってきてくれることでしょう。分かっているからこそ、その優しさに縋って迷惑をかけてしまうようなことはしたくありませんでした。

 しかしそんな決心は塵芥と思い知らせてくるように、激しい雨が窓を叩き、稲妻が猛ります。ブレーカーが落ちたのか電気が消えて、ほんの数秒前に握り締めた気持ちは霧散し、暗闇と一緒にせり上がってくる恐怖がわたしの膝を震わせました。

 わたしは部屋を出ます。壁を伝って一階へ降りて、受話器を握ります。頭のなかに思い浮かんだ数字をダイヤルする指は稲光が走るたびに固まりました。

 一〇桁の番号を押し切って、永遠にも思える呼び出し音に縋ります。そして呼び出し音が途絶えて、この世界で一番わたしを安心させてくれる声に変わりました。

「……茉莉也? 大丈夫?」

 受話器越しの乱れた呼吸を感じ取ってくれたのでしょう。生成さんの第一声はわたしに優しく寄り添うものでした。

「生成さん、助けて」

 わたしは震え切って掠れた声を絞り出しました。生成さんは事情の一つも聞かず、「わかったわ」と短く言いました。電話が切れました。わたしは受話器をぎゅっと胸に抱いて、からだを削り取るように響く激しい雨音と稲妻に耐えるのでした。


 そのあとに起きたことは言うまでもありません。嵐のなか、わたしのもとへ向かおうと家を出た生成さんは歩道橋で足を滑らせ、頭を打ちました。冷たい雨風に晒され、誰にも見つけてもらえず、静かに息を引き取りました。

 痛かったでしょう。

 寂しかったでしょう。

 怖かったでしょう。

 ぜんぶ、わたしのせいでした。

 わたしがあの夜、生成さんに電話をかけなければ、助けてなんて言わなければ、彼女が嵐のなか家を出ることはなかったのですから。

「お母様……。わたしが生成さんを殺したのね?」

 お母様の腕はわたしをぎゅっと抱きしめます。肩の上に乗せられた頭が横に振られ、お母様の髪から香った柔らかなローズがわたしを包み込みます。違う、これじゃないの。わたしが抱かれたいのはこれじゃない。

「違う、違うわ。あれは事故なのよ。誰も――」

 わたしはお母様の肩を思い切り押して、抱擁を振り解きました。お母様はその場で強く尻もちを突いて、痛みと驚きに表情を歪めました。

「わたし、生成さんに謝らなくちゃ」

「茉莉也さん――」

 お母様の制止を振り切って、階段を駆け下ります。騒ぎを心配して様子を伺おうとしていたお父様を押しのけて、サンダルを引っかけたわたしは家を飛び出しました。

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