ペトリコールはムスク(2)
わたしは毎晩一つずつ、てるてる坊主を作っては逆さまにして窓際に吊るしました。一つずつ作るのは、しっかりと思いを込めるためです。夜更かしすることもいとわずにてるてる坊主作りに精を出すわたしを、お母様とお父様は心配そうに見ておられました。もしかすると日に日に増えていく窓際のそれらに、どこか不気味な思いさえ抱いていたのかもしれません。けれど構いませんでした。逆さまのてるてる坊主の甲斐あってか梅雨の長雨は続いていて、わたしは毎日、
「ごきげんよう、生成さん」
わたしはそう言って、水のトンネルを抜け、香るムスクに飛び込んでいくように、毎朝彼女の元を訪れます。そして雨のなか変わることなく立っている彼女に、わたしたちの思い出を話して聞かせるのです。
たとえば放課後、生成さんについていって図書室で勉強をしたこと。
生成さんは普段から図書室を使っているようで、慣れた様子で空いている席へと座ります。わたしは隣りか正面かを迷って、ちょっと恥ずかしかったけれど生成さんの正面に腰を下ろしました。わたしが図書室を訪れるのは入学のときの校内案内以来だったので少し落ち着き前んでした。「静かすぎて緊張するわ。ここで勉強できるなんてすごい」わたしはそんなようなことを言ったと思います。すると生成さんは家では小さな弟の面倒を見なくてはいけないので勉強できないことや、本当はこの学院に通えるほど裕福な家庭ではないことなどを教えてくれました。生成さんは学費免除の特待生でした。だから通わせてくれる両親のためにも成績を落とすわけにはいかないと言っていました。
わたしは生成さんの努力を素直に尊敬しました。もう既に十分知っていたことだけれど、なんて素敵な方なんだろう。立てた参考書の向こう側でノートに視線を落とす生成さんをじっと眺めます。窓から差し込んだ夕陽が黄金色にきらめいていました。それは生成さんの真剣だけど少しアンニュイな表情とか、結ばれたり緩んだりするかたちのいい唇とか、ノートに淀みなく記されていく綺麗に整った文字とか――まるで一枚の絵画のように幻想的で静謐ささえ感じる光景でした。
あまりにうっとりしすぎていたのか、不意に生成さんが視線を上げました。わたしは恥ずかしくなって視線を逸らして、参考書を読んでいるふりをします。心臓のかたちがはっきりと分かるくらい、強く鼓動していました。そして生成さんが静かに言うのです。「その参考書、逆さまだけど」と。
あるいは休みの日、二人で初めて遠出をして隣りの街の大きな商業施設に遊びに行ったこと。
三階のワンフロアまるまるの、とても大きなゲームセンターで。わたしはクレーンゲームがちっとも上手くいかなくて、レーシングゲームでも生成さんに歯が立たなくて、小さい子どもみたいにフードコートの端っこで席に座って拗ねていました。すると生成さんは三段になったアイスを買ってきてくれて、わたしはすごく嬉しかったのですけれど、拗ねてしまった手前なんだかそのまま喜ぶのも現金な気がしてしまって、水色と黄色と桃色のそれをちらりと一瞥して「信号機みたい」と頬を膨らめました。生成さんは「さっきの車の、そんなに悔しかったのね」と笑っていました。
どの思い出も、傍から見れば取るに足らないささやかな日常に過ぎないのでしょう。けれどわたしにとって、生成さんと過ごした時間の全てがかけがえのない思い出でした。わたしはわたしの話す思い出たちが、生成さんにとってわたしと同じ温度のものであったらいいなと思いながら、二人の思い出の過去のページを捲るのでした。
「それで、一緒に帰っていたら、わたし、恥ずかしいことにお腹が鳴ってしまったの。あの瞬間、それはもう消えてしまいたい気分になったわ」
「そのことは憶えてる。買い食いは校則で禁止されているけれど、二人でパン屋に入って、メロンパンとシナモンロールを買ったわね」
「あとカヌレもね。そして、公園のベンチに腰かけて、二人で食べたの」
「ちょっと買いすぎだった」
生成さんがぎこちなく笑います。
「そう、ちょっと買いすぎたわ」
褪せることのない思い出の鮮やかさに微笑んで、ゆっくりと目を閉じました。わたしたちを包んでいた雨音が遠退いて、まぶたの裏側に、眩い夕陽の赤とオレンジが染め上げた小さな公園が立ち上がりました。
入口の横に並ぶ三台の自転車。ブランコを漕ぎながら靴を飛ばして競っている小学生。買い物袋を下げたながら公園を横切っていくご婦人。初めて見る飲み物が並んでいる自動販売機。ところどころ塗装の禿げた滑り台。木の影が色濃く落ちている、忘れられたように寂しげな鉄棒。
わたしはカヌレの最後の一つを頬張りました。隣りの生成さんは自販機で買ったホットコーヒーを両手で握っています。わたしはカフェオレにしないとコーヒーを飲めないので、ブラックを選ぶ生成さんはやっぱり大人だなぁと盗み見て感心しました。
秋気澄む一一月の夕暮れ。すっかり冷たくなった風が優しく流れていきました。
「ねえ、生成さん」わたしは畏まって言いました。「寒いから、もう少しだけ近づいてもいいかしら」
「寒いなら帰ろうか?」
生成さんが答えます。わたしは首を横に振りました。
「お腹がいっぱいで、すぐには動きたくないわ。だから少しだけ」
生成さんは無言で前に向き直ります。わたしはお尻の位置をずらして生成さんの右側に寄り添いました。わたしの左肩と生成さんの右肩が触れて、左腕と右腕が触れました。左胸がとくとくと鼓動を加速させていきました。
ああ、せめて逆側だったらよかったのに。わたしは強張る身体をリラックスさせようと、ゆっくり深呼吸をしました。気付かれていないでしょうか。触れ合う肩を通じて、この胸の鼓動が聞こえてはいないでしょうか。
わたしはちらりと生成さんを伺います。真っ直ぐに前を見ている横顔はぎこちなくて、彼女もまたわたしと同じだと分かりました。それがなんだか嬉しくて、わたしは生成さんの肩に頭を乗せてみるのでした。
「どうしたの?」
「生成さん、すごくあったかいわ」
「そう」
茉莉也もあったかいわ。生成さんがそう言って、わたしの頭の上に寄りかかります。生成さんの吐息が聞こえて、わたしはついさっきまでの肌寒さなんて忘れてしまって、左側からじんわりと広がる穏やかな熱に何もかもを委ねるのでした。
幸せだったそんなひと時を思い起こしていたからでしょう。わたしは自然と、歩道橋の柵に置かれた生成さんの手を握ろうと自分の手を伸ばしました。けれどわたしの指先は生成さんをすり抜けて、雨に濡れた冷たい手すりにぶつかります。わたしは慌てて手を引いたけれど、同時に生成さんも手を引っ込めました。
「ごめん」
「生成さんが謝ることなんて何もないわ。わたしのほうこそごめんなさい」
生成さんが言って、わたしも言いました。溌剌さを装ったけれど声は上ずっただけで、少し早口になった口調は言い訳がましい気がしました。降り続く雨はいつの間にか弱くなっていて、まばらになった傘に落ちる雨音の一つ一つがやけにはっきりと聞こえていました。
「やっぱり謝るのは私だよ」
ぽつりと吐き出された生成さんの言葉は、ノイズのような雨音に掻き消されながらも鮮明にわたしの耳へと届いていました。
違う。そう否定しようとして開きかけたわたしの口を、生成さんの視線が制します。わたしへと向けられた悲し気な視線は、息をすることさえ許さないような、そういう危うげな緊張感をも同時に湛えるものでした。
「ごめんね、茉莉也。もうわたしに会いに来ないで」
生成さんの声で吐き出された音が、わたしのからだを貫いていきました。それははっきりとした拒絶で、だけどわたしにはその意味も理由も理解できなくて、ただ茫然と生成さんを見つめ返すことしかできませんでした。
たぶんそれは時間にしてほんの数秒の沈黙だったと思います。けれど弱まっていた雨は風船が萎んでいくみたいに呆気なく止んで、灰色の雲の切れ間から鬱陶しい陽光が差しました。にわかに陽光があたると生成さんのからだは後ろの景色が見通せてしまうくらいに頼りなく、あっという間に透けていきました。
「嫌。嫌よ、行かないで――」
わたしは声を絞り出しました。雫が一つ、ぽつりと落ちて、わたしの足元の水たまりに波を描きます。それが降り遅れた雨ではなくて、わたしの頬を伝った涙だと気づいたときにはもう、陽ざしに透けた生成さんの姿はどこにもありませんでした。
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