ペトリコールはムスク
やらずの
ペトリコールはムスク(1)
目覚ましが鳴るよりも、お母様が起こしにやってくるよりも早く、わたしは窓を控えめに叩いている雨の音で目を覚まします。まだ半分寝ぼけている――なんていつもみたいなことはなくて、ベッドから飛び起きたわたしは椅子の背もたれにかけられた淡いピンク色のショールを肩にかけて、カーテンの隙間から空模様を覗きました。
「ふふ」
遥か西の彼方まで続く、重くて黒い空の様子に思わず笑みを溢します。窓を開けると庭の芝生から立ち上る雨特有の匂いがむわりと香り、風に乗って部屋のなかへと流れ込みました。雨を慈しんで伸ばした手には、ぽつ、ぽつ、とひんやりと冷たい雨粒が落ちて、わたしの胸の鼓動に合わせるように、肌の上に澄ました様子で留まっている雫が揺れました。こうやって雨の匂いとか音とかに感覚を委ねていると、わたしは胸がどきどきと高鳴って、心とからだの奥のほうがじんわりと熱を持っていくのを感じられるのです。いえ、もっと正確に言うのなら、それらは雨そのものに感じている高揚感ではないのでしょう。雨はわたしにとっての招待状で、秘密の符牒なのです。
だってわたしには、雨の日にだけ会うことのできる大切な親友がいるのですから。
「待っててね、
わたしは窓を閉めて、ベッドの上にショールを放り、パジャマからセーラー服へと着替えます。ベッドにパジャマを放り出すなんて、お母様が気づいたらはしたないわと溜息を吐くことでしょう。けれど畳んでいる時間さえ惜しいのです。時計の針は六時を回っていました。顔を洗って身なりを整えて一階に下りると、キッチンで朝食の支度をしていたお母様が振り返りました。「
「今日は早いのね。朝御飯、もうすぐできるから待っててね」
わたしが既に通学鞄を下げていることに気づいて、お母様はそう言いました。けれどわたしは席にはつかず、首を横に振りました。
「ごめんなさい。お母様。わたしもう行かなくちゃ」
「もう行くの?」
お母様はくっきりとした二重の大きな目を伏せて言いました。わたしはふと、お父様に似た自分の一重まぶたがコンプレックスだったことを思い出します。丸くて可愛らしいお母様の目がずっと羨ましかった。けれどもう今は違いました。小さな目が嫌で顔を隠すように伸ばしていた前髪を指で梳かし、わたしの目が綺麗だと生成さんが言ってくれたのでした。
「ごめんなさい。生成さんと約束があるの」
「茉莉也さ――」
わたしはお母様の言葉を最後まで聞かず、玄関へと急ぎました。履きかけのローファーのつま先で地面を叩いて足を押し込み、淡いオレンジの傘を手に取って家を出ます。玄関の扉を開けると海岸線に寄せては帰す波のような心地よい雨音がわたしを包み込みました。傘を差して歩き出せば、そこに雨粒が傘を叩くまばらな拍手のような音が重なります。わたしの胸は弾んでいて、その気分を映し出すように足取りもまた弾むのでした。
住宅街を抜けて大通りへ。普段ならばバスに乗って通学するわたしは、いつものバス停を横目に通り過ぎ、雨風に髪とスカートを靡かせて歩きます。まるで水のトンネルをくぐっているみたいでした。やがて四車線の大きな通りにかかる青色の歩道橋が見えました。階段を上った先には傘も差さずに佇んでいる揃いのセーラー服姿が見えて、わたしは品を損なわないよう注意しながら小さく手を振りました。すると、歩道橋の上の彼女は左手を掲げてわたしに応えてくれるのです。わたしは嬉しくなって、歩調をほんの少し早めて階段を上りました。
「ご機嫌よう、生成さん」
「おはよう、茉莉也」
わたしが声をかけると、生成さんが振り返ります。スカートとリボンが揺れるのに合わせて、ふわりとムスクが香ります。昨年の、生成さんの一六歳の誕生日、わたしが彼女に贈った香水の香りです。五感のなかで最も記憶に残るのは嗅覚なのだという話を聞いて、彼女が毎日その香水をつけるたびにわたしを想ってくれたなら、それはどれほど素晴らしいことだろうと考えて選んだ贈り物でした。
「また、来てくれたんだ」
生成さんが言います。とく、と左胸の奥が脈打ちました。色気のない銀縁の眼鏡越しの瞳に自分が映っているという事実だけで、わたしはどうしようもないほどの高揚を感じずにはいられないのです。
「当然よ。今日はね、わたし、生成さんに会いたくて目が覚めたの。この雨だって、わたしたちの逢瀬を祝福してくれているから降っているに違いないと思うわ」
「ありがとう」
生成さんの少し低くて芯の通った綺麗な声は、わたしのからだに染み渡っていくようでした。わたしは一歩前に進み出て、自分の傘に生成さんを入れました。
「いいよ。私は濡れないから」
「そういう問題じゃないの」
「そういう問題よ。大抵の道具は目的の達成と課題の解決のために存在するんだから」
わたしは言い返す言葉が思い浮かばなくて、代わりに唇を尖らせます。けれど生成さんの言う通り、雨ざらしになっていたはずの彼女の髪やセーラー服はちっとも濡れていなくて、それどころか傘を伝って落ちる雨粒は生成さんのつま先をすり抜けて地面だけを濡らし続けていました。
雨の季節がやってくる少し前の、ちょうど今日みたいな雨の日に、生成さんはこの歩道橋で足を滑らせて頭を打ちました。夜遅くだったこともあって発見が遅れ、たまたま通りかかった人が救急車を呼んでくれたときにはもう死んでしまっていたのだと、担任の
生成さんが亡くなったと聞かされて、わたしは泣きました。教室の皆さんのようにハンカチで目を押さえ、口元を隠して泣いたのではありません。一目も憚らず、大きな声を上げて、駄々をこねる子どものように泣いたのです。はしたないと思われても仕方がないと思っています。わたしだって、まさか自分がこんな大きな声で泣きじゃくるなんて思ってもみないことでした。けれどとにかく、生成さんが亡くなったと聞いた瞬間、わたしは溢れ出す感情を抑えつけておくことができなくなって、壊れてしまった蛇口のように涙を流して泣いたのでした。
健康だけが取り柄だったわたしは学校を早退し、家に帰ってからも泣き続けました。お母様はそんなわたしに寄り添いながら一緒に泣いてくれて、「大切なお友達なのだから、ちゃんとお別れしなくちゃ」とわたしのぼさぼさになった髪を丁寧に梳かし、赤く腫れた目を氷で冷やし、生成さんのお葬式へと送り出してくれました。
けれど結局お葬式に行くことはできなくて、わたしは雨が降る街を彷徨いました。そうやって時間を浪費し、お葬式をやり過ごしていれば、生成さんの死がなかったことになるのだと、信じ込もうとしていたのだと思います。そしてその願いは実を結び、オレンジ色の傘を差しながらとぼとぼと歩道橋を歩いていたわたしの前に、セーラー服姿の生成さんが現れたのです。
「茉莉也」
耳慣れた声で名前を呼ばれて、嗅ぎ慣れた香水の匂いが香って、気がつけばわたしはその場に呆然と立ち尽くしていました。瞬間的に吹いた強い風に傘が煽られて、手から離れた傘が生成さんの足元へと転がっていきます。
やっぱり死んでしまったなんて嘘だったのね。わたしはそう思いました。けれど目に映る現実は――あるいは妄想は――わたしの喜びを歪めます。
「濡れてしまうわ」
生成さんはそう言って、わたしの傘を拾い上げようと手を伸ばしました。けれどその手は柄をするりとすり抜けます。よく見れば、雨が降っているのに生成さんは濡れていなくて、雨は彼女のからだを通り過ぎていっていました。行き場を失った生成さんの手のひらからは、傘の柄が飛び出しています。
「私、やっぱり幽霊なのね」
それがまるで他人事みたいな調子だったので、わたしはショックを受けることもなく、場違いに笑ってしまいました。生成さんは眉をひそめて、それから人差し指で眉毛をかきました。生成さんが困ったときに見せる、見慣れた仕草でした。
「なんで笑うのよ」
「だって、生成さんったら、冷静すぎるんだもの」
「これでもびっくりしてるのよ」
「でも嬉しいわ。だってまたこうして生成さんに会うことができたんだもの」
わたしがよく知っている生成さんの姿でした。その正体が何だって構いません。気が狂ってしまったと言われるならば受け入れます。だってたとえ幽霊でも、幻覚でも、目の前にいる生成さんは生成さんなのですから。
わたしは笑いながら、目尻に浮かんだ涙を人差し指のはらで拭いました。きっと安心したのでしょう。上がっていた口角は重力に引っ張られるまま脆く綻んで、拭うのが追いつかないくらい、目から涙がこぼれました。
「なんで泣くのよ」
生成さんが声を震わせます。その声は嬉しそうで、だけど不安そうで、風のなかで揺れる蝋燭の明かりのように頼りなくて温かなものでした。
「分からないわ。嬉しいのに、すごく嬉しいのに、涙が出るの。最近のわたしったら、本当に泣いてばっかりで、なんだか嫌になっちゃうわ」
「笑ったり、泣いたり、相変わらず感情の忙しい子ね」
滲んだ視界の真ん中で、生成さんが呆れたと言わんばかりに肩を竦めて立ち尽くしています。わたしはだんだんと生成さんのその姿がなんだか幻とか霞なんじゃないかしらと不安に思えてきて、彼女の存在がぼやけてしまわないように、何度も何度もしつこく涙を拭うのでした。
幽霊になった
まず、生成さんが現れるのは雨の日だけということ。これは生成さんが死んでしまった日が雨だったことに由来しているのかもしれません。けれど実際のところは分かりません。この歩道橋で再会した次の日に雲が薄っすらとかかったおぼろな太陽の下で生成さんの不在に絶望したわたしの話をすると、生成さんは声を上げて笑っていました。ひどいです。
次に、わたし以外には見えない。通り過ぎる人たちは生成さんの――雨のなか傘も差さずに立っている女の子の姿を目に留めません。確信したのは小学生の男の子たちが振り回していた傘が生成さんに当たりそうになったときで、思わず大きな声を上げてしまったわたしを気まずそうに眺めた彼らはそそくさと歩道橋から去っていきました。生成さんには当然何事もなくて、「こうやって話していても、傍からは大きな声で独り言を言ってるみたいってことね」と面白がるような少し意地悪な笑みを浮かべていました。けれどわたしはわたしだけが生成さんの特別でいられることを誇らしく思うのでした。
そして三つ目、触れられない。これは少し寂しい事実でした。雨粒が生成さんのからだをすり抜けたり、傘の柄を掴めなかったりしたように、生成さんは何にも触れず、またわたしが触れることもできません。どうやって歩道橋の上に立っているのかと私が聞くと、生成さんは「意外と目ざといのね」と感心したあと少し考え込んで、空間に対して平面ではなく立体的な座標に固定されて存在しているんでしょうね、と難しい表情でわたしにはよく分からない結論を出していました。これは生成さんが歩道橋から移動することができない理由でもあるようでした。生成さんは幽霊になっても賢いままでした。
生成さんは生きていたときと同じように聡明で、綺麗で、たまに意地悪で、とても優しく微笑んでくれる人でした。けれど死んでしまったときに頭を強く打ったせいか、ところどころの記憶が曖昧でした。だからわたしは雨が降るたび、生成さんの待つ歩道橋を訪れて、話をしました。わたしが出会ってから今まで、過ごしてきた時間のことを一つずつ、大切な宝物をそっと手に取るように丁寧に、話して聞かせました。生成さんはわたしの話を聞きながら楽しそうに笑って、寂しそうに笑いました。
「それでね、わたしったら自分が思っていたよりもずっと高いところが苦手だったみたいで、腰のあたりがぞわぞわっとして木の上で動けなくなってしまったの。でも下では子供たちが見ているでしょう。失望させてはいけないと思って、がんばったの。わたし、とても勇敢だったといまでも誇らしく思うわ。でもね、あと数センチ、わたしの指は枝に引っかかったボールに届かなかったの」
わたしが身振り手振りを交えながら話すのを、生成さんは静かに聞いてくれました。
わたしたちの通う聖アネット女学院は
「男の子たちは早く取ってって騒いでいたわ。女の子たちは心配そうに見守ってくれていた。話はちょっと変わるけど、どうして男の子ってああも粗暴なのかしらね。わたしだって頑張ってたのに、大きな声で急かすことなんてないじゃない」
「逆に言えば、男の子たちは女の子たちよりも、茉莉也がボールを取ってくれると信じていたとも考えられるわ」
「そ、そうかしら」
「あくまで見方の話だけれど」
わたしは生成さんに気づかれない程度に鼻の穴を膨らめます。生成さんは魔法使いのようでした。いつだって変わらず、わたしが言われて嬉しい言葉をくれるのです。
「それで、そのあと下りれたの?」
生成さんが話の続きを促します。得意げになっていたわたしはこほん、と一つわざとらしく咳払いを挟みました。
「まあまあ、そう急かさないで聞いていて。……そのままわたしとボールの硬直状態が続いて、しばらくすると、心配で見かねた女の子が貴女を呼んできてくれたの。優しいわよね。でもね、生成さん。生成さんは木の枝にまたがったまま動けなくなったわたしを見てある言葉を言ったの。何だったか覚えてる?」
生成さんは首を横に振ります。わたしは息を小さく吸って、彼女のあまり抑揚のない声の調子を真似ました。
「馬鹿なの」
「え?」
「馬鹿なの。生成さんったらわたしにそう言ったのよ」
わたしの隣りで生成さんが唖然としています。予想外だったのでしょうか。わたしは唇を固く結んで込み上げてくるおかしさを抑え込みます。
「それはー……その、なんか、ごめん」
「まったくだわ」
生成さんがしおらしく肩を落として、わたしはわざとらしく腕を組んでそっぽを向いて、だけど二人とも思っていたことは同じだったのか、ぷっと同時に噴き出すと笑いが止まらなくなりました。雨の伴奏にわたしと生成さん、二人の笑い声が響きます。お腹が痛くなるくらい、涙が出るくらい大いに笑って、わたしたちはひいひい言いながら呼吸を整えて。実際のところ何がそんなに面白いのかなんて分からなかったけれど、確かなのはわたしが――たぶん生成さんも、かけがえのないしあわせを感じているということでした。
「わたし、馬鹿だなんて、生まれて初めて言われたわ。だからなんだか悔しくって、ムキになってボールに手を伸ばしたの。そしたらね、なんと――」
「木から落ちた。それで、茉莉也を私が受け止めたわ」
「思い出したのね!」
わたしは手を叩きました。前のめりに喜ぶわたしに、生成さんはほんの少し戸惑いながら、口元に呆れたような笑みを浮かべました。
「思い出したみたい。咄嗟に貴女をキャッチして、一緒に地面に倒れて……茉莉也ってば、今にも泣きだしそうな変な顔で私の上に乗っていたわ」
まるで昨日の出来事のように、生成さんがやれやれと肩を竦めて息を吐きます。けれどその表情はどこか柔らかくて、わたしは彼女の表情に温もりを感じます。目を閉じれば、わたしを抱える生成さんの腕の温度とか感触とか、落ちた反動で木の枝からするりと抜けたボールが地面に弾む音とか、歓声を上げてそのボールを追いかける男の子たちの背中とか、あの瞬間の出来事がやはり昨日のことのような鮮明さでよみがえってくるのでした。
ちなみにわたしの名誉のために一つ断っておくと、たしかに木の上は怖かったし、落ちた瞬間は死すら頭の隅にちらつきましたが、わたしは泣きそうだったのではありません。生成さんが身を挺してわたしを助けてくれたことが、たまらなく嬉しかったのです。
でもそのことは生成さんには言いません。いいえ、彼女もきっと分かっているはずでしょう。変な顔だと言ったのは、生成さんなりの照れ隠しに違いありませんから。
「ねえ、生成さん」
わたしはスカートを躍らせて、生成さんのほうへ身体を向けました。降り続く雨の音に、ちゃぽんと跳ねた水たまりの音が重なりました。生成さんがわたしを見ます。彼女の黒い瞳にはわたしが確かに映っていて、わたしはそれだけでこの世界の全てに許されたような気持ちになりました。
「わたし、生成さんが好きよ。だいすき」
生成さんは苦笑いをして視線を逸らします。わたしにはそれがやっぱり照れ隠しなのだと分かっています。生成さんの眼鏡にはしとしとと降る雨が映り込んでいました。
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