第36話 蛇と蛙⑲

「――お父様と王研に報告しよう」


「え?」


「何を驚いてるのよ。もう私たちのちょっかいだけで済む規模じゃないでしょ?」

 

 思わず出てしまった言葉にエリンが不服な顔で反応する。


「謎肉の原因は分かったわけだし、すっきりもしたし……」


 いや、正直驚いたのだ。エリンだったらまず間違いなく突っ走り、マッド・スネークの群れに突撃すると思っていた。


 それがどうだ。急に冷静になったのか上に報告しだすと言い出した。


「……それで本当にいいのかしら?」

 今まで付き合わされてきた経験からつい、そんな風に聞いてしまう。私は自分で思ったより今のエリンに引いているのかもしれない。

 

 エリンに視線を合わせる。凛々しい表情だ。蒼青の水杖そうせいのすいじょうを持つその姿はまさしく、清く正しい貴族令嬢……

  

「無理。やっぱ件の沼に行ってみたい」


「……」

 急にアホ面になったエリンの言葉。思わず黙ってしまう私。


 心なしか水杖のリボンも萎れているように見える。


 きっと清流も少し濁ったに違いない。


「少しだけ尊敬した心を返してほしいわ」

 

「え、少しだけ? リゼあなた今少しだけって言ったの!?」

 一瞬で脱力顔を真っ赤にし、エリンが詰め寄ってくる。


「逆に尊敬されてると思っていたのにビックリよ! 自己評価高すぎじゃないかしら!?」


「私貴族令嬢ですぅ。自信無くて弱々しい令嬢なんて貴族失格よ!」

 エリンが睨みつけるように食って掛かってくるので、私も負けじとひたいで突き返す。


「あんたは自信をはき違えてんの。靴擦れして気を病まないのが不思議で仕方がないわぁ??」


「なんなのそれぇ!」


「こっちのセリフよ!」


「あ、あの……」

 従者と主が罵り合う場面、流石に大変だとでも思ったのか牧場主が声をかけてきて――


「「黙ってて!!」」


「ひぃッ――」

 あえなく撃沈。しりもちをついた。


「ん、んぅ……」


「「!?」」

 エリンが抱えたままだった少女が呻く声。二人して口を閉じる。


 しかし、


「……ほら、あんたのせいで起きちゃったじゃないっ」


「はぃ? そもそもリゼがその気にさせるようなことを言うから……」

 

 黙ったのは一瞬。お互いに譲らず、小声で言い合いを再開。


「お姉……ちゃん?」

 ゆっくりと目を開いた少女は何度か瞬きをすると、エリンに気が付いたようで顔を上げた。


「あぁ~、起こしちゃった?」

 エリンは私に向けていた熱を引っ込めると、優し気な声で返す。そしてチラッとこちらを見た。


 ……その視線の意味は何よ。


 私が目に抗議の念をたっぷり込めて見ているさなか、エリンは言葉を続ける。


「大変な思いをさせてごめんね。ゆっくり休んでていいよ~」

 そう言いながらしりもちをついたままの牧場主に近づく。察した牧場主は慌てて立ち上がり、少女を受け取ろうとして――


「やだ」


「ん?」


「もう少しこのままがいい」

 少女はエリンの胸に顔をうずめ、それだけ言うとぎゅっとしがみついた。


 牧場主は少女の言葉に驚き、少し残念そうだ。私を化け物を見る目で怯えていた失礼な奴だが、少し同情する。


「えっと……」

 流石にエリンも困惑しているようだ。所在なさげに牧場主と少女の間で視線がいったりきたり。


「――ありがとう、お姉ちゃん」


「うっ……」

 少女のお礼。エリンは矢を受けた兵士のように迫真のうめき声を漏らす。


「――はぁ、これじゃあ諦めるしかないじゃんね」


「マッド・スネークのことかしら?」


 ニヤつきを抑えられない。


 心底のとぼけ感を乗っけに乗っけて聞けば、エリンはキッと私への視線を強くする。


「そうだよそうそう! まったく……」


 しかし、文句を垂れるエリンの表情は柔らかいものだった。





二章【おいしそうな匂いに誘われて】 完

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