第2話 終着点にいる"もの"

教訓とは、自分の中にできた法律であると考えるのが自然の道理ではないでしょうか?少なくともそう思っていますし、事実そうなのでしょうね。

「人に多くを求めるな」これは私の教訓です。いわば法律と置き換えてもいいとも言えるそれは、私の中で絶対のものとなっています。どういうことかと聞かれたら「人に何かをして貰う対価として、あなたは何を差し出しますか?」ということです。人に多く求めすぎても、それは人生の破滅に過ぎず、次第には多くのストレスとなって自分を蝕んでいくのです。そんなのは、相手のエゴ的思考であり、他責的とも取れるでしょう。全部押し付けてしまえば“楽”なのは誰しもが感じていること。それを以下に押し付けないかが鍵なのではないかと考えるわけです。まぁ、そんなことを言っても自分の理論武装で持って、他者に一方的に搾取する輩も一定以上存在しているわけですから、なんとままならないというのが現状にはありましょう。


「ハイビスカス、ハイビスカスはいますか?」


おや?マイロード(生きる意味)が呼んでおいでのようですね。何か取り急ぎの要件なのでしょうか、気になりますね。

はい、主よ。私めはここにいます。


「ハイビスカス、よくきてくれました。お願いがあってここにきたのです」


こんな、自分がいるようなところに御身自ら来てくださるとは、至上の喜びにございます。御身のお話を遮るようで申し訳ないのですが、どういったご用件でわざわざ出向いてくださったのですか?


「えぇ、あるバス停にいる方を救ってほしいのです」


バス停、ですか?なぜそのような場所にいるのでしょう。バス停とは松と香炉という認識が私の中にあるのですが、その認識は間違ってはいないはずであります。しかしどうにも解せません。その推定:人間はバス停で待っているというのですね?


「その通りです。決して簡単な方ではありませんがよろしくお願いします」


ええ。自分では役不足ではあるとは思いますが、自身のやり方で解決する他ないようです。それが地震に与えられた使命であり、達成するべき壁なのでしょう。この壁を乗り越えることがなければ神見習いになったことが、ベゴニア様に負担をかけてしまうことになりましょう。自身の設定している壁よりも強大な壁に挑むことは難しいことではあるのですが、なしえなければ神見習いではありません。……その場へ連れて行っていただけますか?


「いいでしょう。女神ベゴニアの名の下に、あなたをその肩のところまで送ります」


なんでしょうこれは。体験したことのない没入感と、浮遊感が一度に襲ってきて身と心を包んでいきます。これが神のお与えになった神技とも言えるべきものでしょうか。……もう違う景色になっているようですね。雨が深々と降り注いで止まない。今日は土砂降りですか。今も説明した通り、辺りには雨が降っていて、周りには何もないようです。そこにはポツンとバス停がありました。バス停の看板はなぜか見ることができず、どこに向かうかすらもわかりません。なぜこんなところにいるのでしょうか。時間の無駄という言葉がありますが、それは時にあっていて時に間違っていると考えます。楽しい時間というのはその人にとって無駄ではなかった時間にカテゴライズされるものでしょう。他人から見た楽しい時間の中ではそれは当てはまることはないと思いますが、その人の中では少なくとも無駄ではないわけです。人によって許容できる時間はありますが、人によっては今日できない時間もあるということですね。千差万別がなんでも当たり感触のいい言葉になっているという感じが拭えませんが、事実そうとして処理されるというのがなんとも人間の嫌なところで、愚かしいことでもあります。


「……あんた、だれだ」


……!おや、これは失礼いたしました。私は神見習いのハイビスカスという名を頂戴しております、しがない人外にございます。


「人外?あんた気が違ってるのか。確かに、こんな世界にいたんじゃ気持ちが違っちまうわな」


勝手に気狂い扱いにされて今、猛烈に困りました。しかし、物の人生にも色々あるものなんですね。こんなにも冷静で、沈着なものは死ぬ時ぐらいなものです。あなたは疲れてしまったのでしょうか、それとも諦めてしまったのでしょうか?


「どっちもさ。お前、随分と前にニュースになっていた殺人鬼だな……。ずっと気になっていたんだ。何がどうなって消え失せたのかを」


自分のことを知っている、ということでよろしいですね?


「そういうことになるな」


ならばなおのこと、ここから離れる明確な理由になりませんか?なぜこのバス停から離れようとしないのです。バスがこのバス停に止まるのはもう何時間も前の話です。それなのに何を待っているというのですか。


「何を待っている、か。このバス停は終点で、ただただこの場所に座っているだけにすぎねぇのさ。終点である以上、バスを待っているわけでもねぇし、待ち人がいるってわけでもねぇ。お前みたいなやつからしたら、こんなのはただの時間の無駄になるかもしれんがな」


何を、何をいうのですか。決して無駄な時間などありません。その物にとって大切にしている時間であるのならば、それは良い時間と言えるでしょう。それが過去に縋り待ち惚けてしまっているものでも。自身にまだ神格と呼ばれるものは備わっておりません。物を救うのは苦手ですが、者を救うのは得意としているところであります。者と物は別なのです。地震の中でしている線引きのラインを超えない範疇であるのならば、自分は何者でも救って見せましょう。


「雨が周りに降っている。この意味はわかるか、嬢ちゃん。降り注いでいるのさ。この世界のゴミを浄化するように洗い流しているのさ。止まない雨はない?誰がそんな勝手なことを言ったのか、自分は世界のゴミだ、癌だ、ポリープだ。悪性腫瘍を残しておくほど体内の機能は耄碌していないはずだぜ。自分はとんでもなく排他されるべきゴミなのさ」


ゴミというのは確かに片付けなければなりません。そのゴミが取り残されないように綺麗さっぱりになくなればいいのですね?取り除いてあげましょう、払い去ってあげましょう、唾棄してやりましょう。今あなたを取り巻く環境全てを。


「そう、でしょう?」


「……!おまえ、喋れるのか」


そう、今の今まで表情で汲んでいただいたのです。自分は口を開くとうるさいと言われている環境に身をやつしていたので、このように頭の中では結構なおしゃべりさんなのですが、いざ口を開くと言葉が詰まってうまく喋れないと言う弊害が出てしまうのです!これはなんて不幸、自身の生まれた環境の破滅を望むばかりです!あ、とうに滅んでいました(超絶可愛い声)。滅亡の一途を辿った環境などはどうでも良いのです。やはり、自分はこの環境が落ち着きます。自身が生きやすくなるためには、自身が得意な環境でもってして染め上げなければ、安寧はできないでしょう。安寧を手に入れるには、周りを作り替えなければなりますまい。周囲を巻き込み、そして環境を作る。これが多分一番早いでしょう。


「そうな、のです。ゆっくりと、にはなり、ますが」


「自分のために、何故ここまでするんだ。理由がわからない。明瞭じゃない。測定できない。そんな些細なことはどうだっていい。あたしはあんたのことが知りたい」


「なら、いっしょ、に。きな、さい」


「よろしく!あたしの名前は…………昔の名前は、いらないな。なぁ、あんたが名前をつけてくれよ」


名づけですか。自身の飼っていた“動物”にも番号で振り分けているだけで、名前らしい名前などはつけてこなかったんですがねぇ。自身に名付けの心得などは御座いませんが、よし!つけてみることにしましょう。



孤独な雨の中に蕾があった。それは神見習いによって花開くことになる。それは小さな蕾ではあったが、咲くと周りを魅了した。沢山の花が咲き乱れた。そう…………。


「あな、たの名前、は、――アジサイ――」


アジサイの花言葉は移ろいなどを指しますが、色によっても花言葉が違う花として有名です。アジサイはそんな彼女にピッタリな名前でしょう。辛抱強い愛情でもって、世の腐敗を嘆き、自身が悪だと嘯いてなお、他人の心配をする貴方には、このアジサイという花がピッタリだと思いますよ。


「そう……か。あたしの名前はアジサイ。今日からアジサイの名前を賜ったぜ」


これが正解だったか、自分にはわかりません。ですが、ここでずっと待ち惚けをする以外にも道があるんじゃないかな?と勝手に思っただけなのです。これはいわば自分のわがままと取れる行為に他なりません。これではベゴニア様に叱られていしまいますね。少し気も重いような気もしますが、ですが自分の心に従って、自分の気持ちに従って、悪いことをしたとは思いません。救いの手を求めるのであれば、自分は見習いの立場として、その方を導くだけですから。……今自分は“方”と使いましたか?人間なぞという生物に微塵も感じないこの自分が?なんの冗談でしょうか。これが心境の変化というものなのでしょうか。自身のギャップについていけなそうです。


「ハイビスカス、よくぞやり遂げました。アジサイと共に神界に戻っておいでなさい」


「はい、わかり、ました。マイ、ロード」


「……っ!貴方喋ってくれるようになったのですか!!羨ましい!最初に聞いたアジサイのことを妬ましく思ってしまう私を許してください!」


「ふふふっ、女神様よぉ。最初に聞いちまって悪かったな。多分ハイビスカスも最初に聞かせたかったのは女神様なんじゃねぇか?」


「そうだといいのですが……」


なぜ恋をしているかのような表情におなりになられるのですか?わたしにはまだまだ理解できない領域ということでしょう。では神界に『帰るべき場所』に帰るとしましょう。帰るところがあるというのは心安らぐ空間があるというもの。なんだか鬼としてやっていた時のことが嘘のように感じてしまいますね。

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見習い神様 邑真津永世 @muramatsueise117

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