第32話 身分


 歌流羅がお茶を淹れてくると出ていった。部屋に一人残された藍影は腕を組み、悩ましげに俯く。何度も紅玉に伝えたが、その全てが失敗に終わった。策もなく、また突撃すればまた失敗に終わるだろう。


「なぜ、花嫁御前が現世に行きたがるのか。なぜ、ここを離れなければいけないのか。それはどうしてなのかを考えてみては?」


 出ていく間際に歌流羅が残した言葉を脳内で反芻させた。どうすれば紅玉が頷くのか、藍影なりに考えてみるが答えはいっこうに出てこない。


「たとえば、現世に好きな者がいたとか?」


 ぽつり、と呟いた藍影の言葉は静かな室内へと消えた。


「……いいや、歌流羅が誰からも愛されていないと言っていたし、たぶん、帰りたがるのは私に迷惑をかけないため」


 ——というのは建前で、やはり好きな男でもいるのだろうか。痩せているが顔立ちは悪くなく、性格も純粋で心優しい。そんな紅玉が虐げられていれば、男なら下心から優しくするはずだ。


「男より、同性の方が怖がっているし……。いや、それは母親のせいでもあるからか。紅玉から誰か好きだなんて聞いていないし……」


 自分でも無茶な考えだなと思い直すと何気なく視線を窓に向ける。凪いだ水面から伸びる睡蓮が花を綻ばせているのが見えた。

 春国は穏やかな国だ。桜が舞い、椿が咲き、向日葵が首を持ち上げ、そのそばを暖かな風が吹く。草花は楽しげに揺れ、水は潤い、鳥は歌う。それは平和としか言いようがない程、穏やかで優しい。

 そんな国であるからこそ、紅玉にとって心落ち着く第二の故郷になると思っていた。この国を知れば知るほど、ここに残りたいと思ってくれるのだと考えていた。


「……難しいものだな。人の心とは、ここまで動かないなんて思わなかった」


 藍影は人間と接したことはない。市井におりても軽く挨拶するのみで、ここまで深く関わったことはないし、関わりたいだなんて思わなかった。

 紅玉が初めてだ。触れて、笑いあい、話したいと思ったのは。最初は生みの親に見放された可哀想な娘としか思っていなかった。何がきっかけで惹かれたのか分からない。

 ただ、気付いた時には共に生きたいと願ってしまった。


「……仕方ない、もう一度歌流羅に相談してみるか」


 そう呟けば部屋の扉を叩く音が響き渡り、くぐもった小さな声が聞こえた。紅玉の声だ、と気付いた藍影は席から立ち上がると一目散に扉へ近付いた。


「——っ! ら、藍影様……!」

「どうしたんだい?」


 ゆっくり扉を開けると扉のすぐ側にいた紅玉は大袈裟なほど体を跳ねさせ、驚きの声をあげた。藍影としては、驚かせないように最深の注意を払ったつもりだったのだが無駄だったようだ。


「す」

「す?」


 紅玉の唇から溢れ落ちた文字を藍影はすかさず反芻する。一瞬、迷ったような仕草を見せつつ紅玉は口を開いた。


「すみません、でした。藍影様が私の言葉に傷付いていると、歌流羅様から聞いて……」


 こちらを伺うように放たれた言葉に藍影は小さく動揺しながらも笑顔を努める。何度も惨めな姿を見せたが、好いた者の前では堂々としていたい。


「大丈夫だ。紅玉が気に病むことではないよ」

「それなら、良かったです……」


 沈黙が流れる。緊張から話の話題が出てこない藍影は生まれて初めて頭を素早く稼働させた。散策は、市井に行って失敗に終わった。食事は、まだ数時間は先。文字の読み書きを教える、のはとどうにか紅玉と一緒にいられることを考えていると、


「あ、あのっ!」


 藍影の考えを遮るように紅玉は声を発した。必死そうなその顔には緊張がありありと見えており、藍影は首を傾げる。


「私、藍影様にずっと黙ってたことがあるんです」

「黙っていたこと?」

「……はい。あまり嘘をつきたくないのでこの際、話してしまおうと思うのです。藍影様に隠し事はしたくないから」


 まさかの言葉に藍影は微かに目を大きくさせた。

 ここではあれだろう、と室内へ案内する。遠慮する紅玉を長椅子に座らせると、その隣に腰を下ろした。


「どんな話なんだい?」


 どんな爆弾発言が飛び出てくるのか分からず、藍影は冷や汗をかく。発言次第ですぐにでも泣いてしまいそうだ。


「ゆっくりでいい。しっかり聞くから」


 平静を装い、藍影は先を促した。紅玉はその不安げな顔のまま何度か口を開いたり閉じたりしたが意を決したように息を吐き出した。

 そして、藍影に聞こえるぎりぎりの声量で言葉を発する。


「……私の父は蛮族の出身といったのを覚えていますか?」


 藍影は記憶を探る。確かに紅玉はそう言っていた。母親が蛮族の男に凌辱され、そして自分が生まれたのだと。

 覚えている、という証に藍影は顎をひく。


「父の一族は、ほとんど全員が死罪を承りました」

「ほとんど?」

「私や何人かは生き残っていますが身分は奴婢ぬひに落とされました」


 奴婢——奴隷身分の人間。人としての最低限の尊厳すら与えられない、家畜のような存在。何度か書類で見た言葉なので覚えている。

 彼らの置かれた境遇がどれほど惨めなものかも知っている。無意識に、藍影は顔を怒りで歪めた。

 視線を膝に落とした紅玉は気付かないようで、淡々と静かに続ける。


「私は、皇女ではありますが、身分は奴婢で。そんな私が藍影様のおそばにいるなんて……」

「そんなことか……」


 ほっと、藍影は胸を撫で下ろす。本当は藍影のことが嫌いだ。こんな国にいたくない! と言われるのではと内心戦々恐々していた。


「そんなこと……。奴婢である私が、花嫁に選ばれるなんて、藍影様を侮辱する行為なのに……」

「私にとってはそんなことだよ。第一、私の母は奴婢同然の身分だったし」


 紅玉を見据えて、藍影は訴える。優しく、労るように頰を撫でると彼女の瞳が揺らいだ。


「少し安心した。もしや君に嫌いと言われるのではと恐ろしかった」

「嫌いだなんて……」

「奴婢であろうと、皇女であろうと紅玉は紅玉なんだ。前にも言ったが自分を卑下にするのはやめなさい」

「藍影様……」


 紅玉の頰は赤く色付いている。触れる体は温かい。離したくない。彼女だけが欲しい、と心がささやく。

 そのまま、無意識に薄く色付いた唇に——あっ、と藍影は慌てて体を離した。


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龍帝の花嫁 中原なお @iroha07

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