#4 紋白蝶が墜ちた後で

「そう、だったんだ……」

「うん、私もさっきまで、知らなかった。」

 元の大きさに戻った二人は今まで知らなかった友達との因果にただ、俯くしかなかった。沈黙を破ったのはあいの紋白蝶を落とした父親の話だ。

「父は、昔、紋白蝶と模擬戦をしたそうなんです。その絶対に勝てない空の王者に一度だけ、勝ったことがあるそうです。」

 ただし、余りにも醜い勝利で、と続ける。あいの手は自然と結衣を掴んでいた。

「その時以来、今度こそ綺麗に紋白蝶を落とす。父はそれを望んでいました。……だから、結末が気に入らなかった。」

 そして、その後、美への陶酔と釣り合わない自分への自己嫌悪の中であいの父は後悔に溺れ、次第に荒れ果てていった。

「おかしくなっていく父、紋白蝶を食ってやる!私は父が死ぬまで、それをすっと聞き続けて来ました。」

 ボア・サイトの事だと結衣は察した。正面に捉えて倒す。その届かなかった光景を結衣は握りしめられながら想像する。最後の一撃は、どれだけ不本意だったのだろうか。

「私は憎たらしかった。家族を壊した紋白蝶を私が食ってやるんだ、それが出来ないなら、紋白蝶の一番大切な人を、って……けど……けど、それが……。」

「いいんだよ。あい。」

 あいが無意識のうちに巻きつけた指を静かに撫でた結衣は、晴れやかな笑顔で私たちは一緒。と思念で彼女に優しく語り掛けた。暖かい感情の波動があいの脳に溶け込んでいく。

「母さんが死んで以来、ずっと色褪せた世界で生きてきた。でも、今、やっとどうすればいいか分かった。」

「結衣……さん?!」

 あいは手のひらに収まる友人に恐怖した。やめて。と心で叫んだ。憎しみと、友情と、その間で揺れる心が傾いてしまう。どちらか、自分の心の大切な部分を壊してしまう気がした。だけれども、それを壊さずに逃げる道筋を、結衣は塞ぎにかかる。

「みんなみんな、紋白蝶が始まりなんだ……貴女も、私も、そこから人生がねじ曲げられて……」

「親の因果です。」あいは最後の理性で否定した。「結衣さんは、大切な友達……」

「私は、紋白蝶の欠片だ。揚羽 結衣なんて人間はどこにも居ないんだ。」その虚無の宣告をする掌の同級生にあいは押し込まれている。

「私は何度もお母さんから離れようとした。でも、無理だった。あの美しさを越えるもの見つけれなかった……そして、見つけた日に母さんが一番でなくなるのが恐かった。」

 私は囚われたんだ、と言い、やだ……と抵抗するあいの握りしめる指を握り、だから、ここから出ていくには、壊れるしかないんだ。と続けた結衣は復讐と友情の間を揺れ動く友人の止めてくれと言う懇願を無視して、笑顔で最後の一押しを言い切った。

「一緒に壊れよう。あい。」

 復讐してくる相手が貴女で、よかった。

「結衣……さん。」

 示された道筋に驚愕するあいがゆっくりと結衣を握りしめる手を緩めた。

「酷いです。」それが硬直が解けたあいの最初の言葉だった。「やり場のない怒りをぶつける相手が怖気づくことも、赦しを乞う事も無く、受け入れてくれる。こんなの、酷い……どうすればいいんですか……。」

「食ってしまう、とか?」結衣は抑揚を変えずにそう言った。「お父さんがやろうとしたように。」

「意味合いが違います。」とは言ったものの、その提案に抵抗する素振りはあいからは見られなかった。

「こうなればいいな、と思っていた。」

「うん、わたしも……」と結衣は笑って答えた。「じゃあ、準備しようか。……味付けは、なにかいる?蜂蜜とか?」

「いえ、何も。」ありのままで、向き合いたいんです。とあいは理由を語った。結衣はそれがいいと思うよ。と返した。

 結衣はスマホや財布を取り出す。元の大きさに拡大し、自分を更に縮小。

「結衣さん、私。歴史の授業が嫌いなの、分からないからじゃないんです。」

結衣が胡麻粒程になるのを見ながらあいはそんなことを言い始めた。

「怖かったんです。歴史は大きな悲しみや喜びの話ばかり……。」

 銀色の湾曲の底で結衣は振り返り、天井一面に広まる友人の泣いているのか笑っているのか分からない顔を見上げていた。丁度、ずっと一人で抱えていた苦しみを吐き出せた。そんなときの壊れたダムみたいな表情。

「奴隷制の廃止の時、奴隷商人の娘はどうなりましたか?革命の日に、貴族の子たちは何を見ましたか?って……私も同じように、小さな虫のように無視されたままなんじゃないかって……」

「今からもっと小さいモノを苦しませるくせに……」

「酷いです。」笑顔の結衣が見上げた先には感情のせめぎ合いの中でゆっくりと均衡が崩れていくあいの顔、形容しがたい程巨大な手が結衣のいる世界……紅茶用のスプーン……の果てを掴み衝撃を走らせ、その顔の真ん中の大空洞が最後の一線を越えるべくすぼむ。

「いただきます。」

「いただかれます。」

 銀色の地面が動き出し、生きた洞窟の白い鍾乳石の間を通り過ぎて行く。そしてそのまま、周りがゴムみたいな柔らかさと臭気と熱気に包まれた洞窟に下ろされた。

 轟々と空気が出入りする奈落の穴を覗き込む、底の見えない穴。今から落ちていく穴。

一瞬奥で何か、きらっとしたものが光ったような気がした。

――紋白蝶かも知れない。結衣はそれにつられて奈落を覗き込み……。


……ごくん。


「三重に加護は張り付けていますから……死んだりはしませんよ。」

 あいは、喉を落ちていく小さなものが胃にたどり着くのを感じてお腹の奥の愛らしく、憎むべき存在に話しかけた。

「結衣さんは、大切な人です。」

 胃の中の恩人にあいはあの日の事を語り始める、父が閉門側だったが故に虐められて、学校を転々とする日々の果て、二人組作ってと言われたとき、自分に語り書けてくれた事が嬉しかった、そんな思い出。

「だから、好きなだけ、そこに居てください。」

 腹の上に手を当てて、その中の微細な動きを感じようとしながらあいは語る。

「私から奪っただけ、私に与えただけ、そこに閉じ込められてください。」


 結衣はどろどろした液体が自分を溶かそうと波打つ暗闇に揺らされていた。張られた加護は、化学反応を阻害し、服を濡らすだけに留まる。安らぎを覚え、生まれる前の様な感覚に身を任せる。

 思い出されるのは。最後の母の思い出。

 あの最終決戦の日、父の制止を振り切って結衣は今まさに飛び立とうとする母に向けて飛んだ。フェンスをすり抜けて機体に向かう母の前に飛び出た。

「お母さん!」立ちふさがり、それから胸元に飛んで行って泣いた記憶。

「お願い、行かないで!」母は、静かに抱きしめてくれた。

「大丈夫、ちゃんと帰るから。それまで、お留守番出来る?」

 結衣は母の手の中で、涙ぐみながら「うん。」と答えた。それから、少し離れたフェンスの有刺鉄線に座って、母の旅立ちを見送った。決して忘れる事の出来ない落雷のような音、紋白蝶の羽ばたく音……。

 お母さん……。

 眠気に身を任せて目を閉じる。その直前、結衣は周りを見渡した。紋白蝶はどこにも見当たらない。

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モンシロチョウが墜ちた後で 森本 有樹 @296hikoutai

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