神農祭の思い出

香久山 ゆみ

神農祭の思い出

 鳥居を出た時には、雨はすでにやんでいた。

「買えてよかったな」

 おじいちゃんが頭を撫でる。少年はそっけなく頷く。本当は、お祭りには毎年おかあさんと一緒に来ているのだ。けれど、今年はどうしても仕事を休めず行けないのだと、おかあさんは言った。少年はわかったよと笑った。けれど、だからこそ行かねばならない。少年はおかあさんに黙って、おこづかいを握りしめてお祭りを訪れた。

 そんな少年の優しい心を知っているから、おじいちゃんは少年の左手を大きな手でぎゅっと握ってやった。少年の右手には授与されたばかりの笹が握られており、笹には黄色い張子の虎がぶら下がっている。

 いつの間にかすっかり暗くなっていた。アスファルトは濡れ、いつもの夜より暗い気がする。提灯の橙色の明かりが道の両側を照らしているというのに。少年はおじいちゃんの手をぎゅっと握り返した。黄色いコートを着た背の高いおじいちゃんと、黄色い虎のついた笹を持つ小さな少年が、家路を進む。ぽつぽつと提灯のともる夜道はいつもとは違う不思議な感じがする。あれ、いつもこんな道だったかな。いや、違いないはず。進むうちに提灯も減ってきて、いつの間にか少年は真っ暗闇の中に一人ぽつんと立っていた。

「おーい」

 おそるおそる声を出してみる。少年のかぼそい声は漆黒の闇に吸い込まれていくばかりで、返事をするものはない。耳を澄ませるも、周囲からは物音一つ聞こえない。少年は恐怖のあまりその場からしばらく動けずにいた。

 けれど、そうしていたって何も変わらなかった。思い切って、少年は一歩を踏み出した。

 とん、と少年が踏み出した足を地面に置くと、ぽっと地面に明かりが灯る。反対の足を踏み出すと、またぽっと。ぽっぽっぽっ。少年が進むにつれ光が増え、徐々に周囲の様子が浮かび上がる。そこは、竹林の中だった。

 少年が住んでいる街の近所に竹林などない。一体ここはどこなのだろう。半べそをかいていると、ガサガサッと草むらが揺れた。

「わっ」

 腰を抜かした少年の前に現れたのは、狐。

「おや、迷子? ここは暗すぎるからね。家に帰るには光る珠が必要ですよ」

 狐が言う。

「それ、どこにあるの?」

「確か、右の道だったような」

 教えてもらった通り右へ進もうとすると、反対の草むらが揺れて、狸が出てきた。

「ちがうちがう。光る珠はね、左の道だよぅ。さあさ、一緒に行こうよぅ」

 狸は少年の手を引いて左へ進もうとする。

 でも少年は一人だからどちらかの道しか行けない。どちらを選ぶべきなのか。右の道も左の道も深い藪になっていて先が見えない。

「さ、行きましょう」

「こっちだよぅ」

 狐が右手を引っ張り、狸が左手を引っ張る。ぐいぐいぐいぐい。

「痛い痛い、やめて!」

 少年が叫んでも、狐と狸は離してくれない。体がちぎれちゃう! と思った瞬間、大きな影がさっと飛び出してきて、少年の襟ぐりを咥え、飛んだ。するりと狐と狸の手からすり抜け、竹林を高く舞った少年はゆっくりと地面に足をつけた。振り返ると、大きな虎が少年に寄り添っている。そういえば、いつの間にか少年の手から張子の虎が消えていた。

「お前達、あまり無茶をすると許さないぞ」

 ぐるると虎が唸ると、狐と狸が身を縮める。

「だけど、私らも迷子で」

「帰り道が怖くて一人じゃ帰れないよぅ」

 確かに右の道も左の道も真っ暗で、少年だって一人では帰れそうにない。

「一緒に連れて行ってあげようよ」

 少年が言うと、「仕方ないな」と虎は背中に少年と狐と狸を乗せて颯爽と竹林を駆けた。右の道を進み、ぐるり回って左へ。狐の家でも狸の家でも、おかあさんが帰ってきた我が子をぎゅっと抱きしめ、少年も早くおうちに帰りたいと思った。

「帰るために必要な光の珠は、この先にある」

 虎は山頂に近い崖の手前で少年を下ろした。

「この先は道が狭くて俺は一緒に行けない」

 虎が申し訳なさそうに言う。確かに、崖の足場は少年が通るのにギリギリの幅しかなく、大きな体の虎はとても通れそうにない。

「ありがとう。ここからは一人で頑張るよ」

 少年は慎重に岩場を進む。小さな石が落ちるたび、足が止まる。けどどれだけ動けずにいても、少年は必ずまた一歩を踏み出した。

 ようやく頂上に到着するも、木が一本立つだけで何もない。辺りは真っ暗。どうしよう。立ち尽くしていると、「こっちよ」と白い兎がするりと出てきた。木の枝を指している。

「光る珠よ。木に引っかかってしまったのね。あたしじゃ届かないから、取ってあげて」

 木の葉に隠れて丸い影が見える。少年は幹に手を掛けた。木登りは得意でよく褒められるのだ。するする登って、手を伸ばす。ぐいと珠を押すと、枝に引っかかっていたのが外れ、球はふわりと浮かび黄金色の光を放つ。

 月だ。

 少年は眩しさに目を閉じた。目を開けた時、そこは神社の鳥居の前だった。

「たっちゃん! いないから心配したのよ」

 仕事を抜け出してきたというおかあさんは真っ白な看護服のままで少年を抱きしめる。マスクから洩れる息で眼鏡が真っ白に曇っているのは駆けてきたせいだ。

「たっちゃん一人で来たの?」

「うん」

 おかあさんは疫病退散の虎がぶら下がった笹を受け取る。少年はおかあさんと右手を繋ぐ。左手には黄色い傘をぶら下げている。提灯に照らされた夜道はとても明るかった。

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