海底ロケット

香久山 ゆみ

海底ロケット

 お風呂場のリフォームしておいてよかったな。真っ白な浴槽にだらんと浸かりながらしみじみ思う。

 数年前に改装した。古い家で、もともとタイル張りだった浴室の床が経年劣化で崩れ、そのせいで脱衣所の床まで腐ってきたため、ようやくリフォームしてユニットバスになったのだ。色々考え少し広めの浴室にしたのが快適だ。淡いグリーンの壁も、草原のようであり、空のようでもあり、深海のようにも感じられる。今はもう私しか使わない浴室に、ラジオを持ち込み、本を持ち込み、飲み物、ついには食事まで持ち込んで。脱衣所には電気コンセントも配線してもらったから、パソコンだって使える。麻のワンピースを着て。浴室乾燥も設置され床だってすぐ乾く。ここが今や私の生活場所だ。次はプロジェクターを持ち込んで浴室の壁に映画を投影してみたいと思うけれど、それはまあ贅沢でしょう。

 清潔に保たれた碧い世界、かすかに流れるラジオDJの声はいつも優しく前向きだ。この場所には私を怯えさせるものは何もない。外の世界は、こわい。ずっとこの場所で時が止まってしまえばいいのに。二階の自分の部屋にももうずいぶん入っていない。部屋からも、家からも、世界からも。私は、逃げているのだろうか。両親のいなくなった家で、私は一体何をしているのだろうか。どうして外の世界よりも、この閉ざされた空間での方が呼吸がしやすいのだろう。完全に扉を閉ざしてしまえればいいのに。けれど、浴室の扉はいつもほんの少しだけ開いている。

 台所で食事をつくる。自分の分を浴室に運ぶ前に、あの部屋へ持っていく。静かに障子を開ける。布団がかすかに上下している。そっと声を掛ける。反応がない。近づき、テーブルの上に食事を置く。大きめの声を掛けると、ちらと視線だけこちらへ動いた気はするが、やはり反応はない。私が誰かさえ分からないし、興味もないのであろう。吐き出しそうになる溜息をのみ込んで、さっさとするべきことをする。本当は三十分ほどで退室したいのだが、毎回なんだかんだで一時間を越えてしまう。要領が悪いのだろう。会社勤めをしていた時から変わらない。私は生きるのに向いていない。

 逃げるように浴室に帰る。

 この時ばかりはバタンと浴室の扉を閉め切る。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。私から吐き出されることばが外へ出て行ってしまわないように。ごめんなさい。何もできなくてごめんなさい。本当ならば、施設を探してあげるべきなのかもしれない。なのに私はそれすらできずにこんな所へ籠もって。けれど、ずっとこの家に居たいと言っていたのだ、両親もその意思を尊重してずっとここで面倒をみていた、なのに私なんかがそれを放り出してしまっていいのだろうか。何が正しいのか、分からない。けど、きっと私はちがう。守ってあげられるほど強くないくせに、決断さえできないくらい弱い。なのに寂しいだなんて、傲慢に過ぎる。

 泣きたくなる。どうして私はもっと上手くできないのだろうか。社会人になってからも、この古い家のなかで私はずっと両親の庇護を受けて甘ったれた子供のままだったから。だからだめなんだ。ちゃんと他の皆みたいに、子供を産んで育てる経験をしていれば、今ももっと上手くできたのではないか。子供の頃あんなに無邪気に世界が明るく楽しい場所だったのが、今や信じられない。今、世界は混沌としている。家の中はぐちゃぐちゃで、私の部屋など何の役にも立たぬガラクタが三十年分積重なって手のつけようもなく足を踏み入れようとも思わない。頭の中もぐちゃぐちゃ、シナプスは絡み合って闇に落ちていく。光など見えない。何もない風呂場だけが私の居場所だ。

 いっそ扉を閉ざしてしまえばいいのに。それができずにいる。

 バタン。バタン。脱衣所の扉を閉め、浴室の扉も閉め切る。小さな浴槽の中に身を潜める。3、2、1……、浴槽の蓋の隙間から碧い空を見上げながら、カウントダウンする。ゼロ! ドォン……。浴室ロケットは発射する。地球の危機に際して、このポットだけが唯一の脱出手段なのだ。荒廃した大地を覆い隠すような白い噴煙を眼下に見ながら、ロケットはどこまでも飛んでいく。大気圏を越え、宇宙へ。澄んだ漆黒の世界に目映いばかりの星々が輝く。私は旅する、この小さな方舟に乗って。どこまでも自由に。

 少し落ち着いた私はすぐに浴室の扉をそっと開放する。扉の向こうには変わらぬ地上の世界が広がる。すんと冷静に戻るのは、安堵ゆえか嫌悪ゆえか。

 幼い頃はよく浴室でおしっこしていたな。そんなことを思い出しながら、さすがに大人になった今そんなわけにもいかず、重い腰を上げていそいそ花摘みに出る。廊下を進むついでにそっと障子を開けて部屋を覗く。布団は上下している。小さく声を掛ける。反応はない。そっと近づく。眠っている。起こさぬようにそっと布団をめくり、繦褓むつきの確認をする。起きない。また布団を被せ、そっと部屋を出る。一時期は深夜に近所中を探し回ることもあったが、あの頃よりずいぶん体の弱った今はそんな心配はない。それで胸を撫で下ろしている私は非道い人間だ。正しいことも分からないまま、日々を繰り返す。

 週に三度、デイサービスの迎えが来る。祖母を送り出したあと、慌ただしく家の中を動き回る。掃除機をかけて回る。布団を干す。汚れ物も全部洗って。なのにどれだけきれいにしてもすっきりしない。日の当たらない廊下はいつでも薄暗い。家の中が息苦しい。二階の自室へは入ることもできぬ。ずっと手付かずのまま、ますます恐ろしくて開けられない。閉ざされた世界でこの先私はどうなってしまうのだろうか。未来が見えない。いや、見え過ぎてしまうのか。こわい。

 そうしてまた作業を終えると浴室へ逃げる。浴室に熱湯を張って、どろどろに肉を溶かして削いでいくという昔読んだサスペンス小説を思い出す。そうして死体は跡形もなく消えてしまうのだ、この世から。――できっこない。消えてしまえたならばどんなにか楽か知れない。けれど、私はまだ、生きようとしている。一体何を期待しているのだろうか。浴室の扉は今日も少し開いている。

「――……」

 え。

 かすかに、でも確かに、私の名前が呼ばれた。ただそれだけで。私は浴室を飛び出し、一目散に廊下を駆け障子を開ける。布団は上下している。私の名を呼んだはずの祖母はぽかんと口を開けたまま眠っている。祖母はもともと口数が少なく優しい人だったが、病気が進行してからは毎日のように不平不満を吐き、ちょっとしたことで罵詈雑言で当り散らすようになり、介護者の方が発狂してしまいそうなことも多々あったが、最近はまためっきり口数も減ってしまった。眠っている時間が多くなった。私の名前を呼んでくれることなんて、きっともうないと。

「おばあちゃん」

 布団は静かに上下している。触れる、温かい。

 祖母を見送って、掃除して布団干して洗濯したあと、数年ぶりに自分の部屋に入った。

 部屋の中は思っていたほどには散らかっていなかった。全然、大したことない。一気に片付けてやる。家庭用プラネタリウムが出てきた。浴室に持っていこう。まるで大きな宝箱だ。あそこに入っているのは全部大切なものばかり。いらないものはどんどん捨てていく。大事なものだけ選び出す。家族写真はずいぶん底の方から出てくるだろうか。きっと私は無邪気に笑っているだろう。いま私が祖母に向ける笑顔とどちらがいい顔か。毎日を精一杯頑張っている今の私だって、負けるはずない。

 浴室で私は生きてる、障子の部屋で祖母は生きてる、私たちはこの家で生きる。

 窓の外はいやになるほどの快晴である。

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